藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2001年1月


12月29日~1月4日
吉田幸子・横山茂雄編『文学と女性』(英宝社)
 奈良女子大学の出身者・関係者である英米文学者らによる論考を収録したアンソロジー。序文ではフェミニズム批評と述べられているが、きわめて広義のそれであって、書き手もしくは主たる登場人物が女性である作品を論じている論文を集めている。フェミニズムという観点からの濃度はさまざまで、佐々木徹のドラブルに関するエッセイなどにはそのような思考は頭から排除されているようである。横山茂雄の「ジェイン・エア論」は非常におもしろく、暇があれば『ジェイン・エア』を読み返してみたいと思ったが、これにもまたフェミニズムという観点はない。その他の論考にもむりやり女性にこじつけたようなものが結構あって、フェミニズム批評としてはややものたりない。フェミニスティック視点からおもしろいと思ったのは斎藤美和のエリザベス一世のエレジー論、中尾真理の「自負と偏見」における近所の意味論、丸山美千代の「黄色い壁紙」論。中尾のものは学者ならではの論考だが、しかしおもしろい。ギルマン論はナボコフとの対比が良い。説得力以前にセンスを感じる。私だって本をいただいたから読んだので、普通なら読まなかったかもしれない……というか本の存在を知らなかったな。ともあれ、ツッコミなど入れつつ年の瀬の数時間を楽しんだが、一般の人に読めと言えるような本ではないと思う。 中井紀夫『遺響の門』(徳間デュアル文庫)
 植民星の一つを舞台に、人間の高校生が、自由に生きる歌姫の少女とともに原住民の世界に旅立ち、きわめて進化した生命体クランガと心を通わせるという物語。あらゆる面で中途半端。中井さんはジュヴナイルには向かないのでは? 東野司『真夏のホーリーナイト』(徳間デュアル文庫)
 事故で死んだのに、意志(脳内の記憶)だけがコンピュータ内世界に残ってしまった少年が、恋人の少女に会いたくて竜になって暴れる話。《ミルキーピア》の続編なのだがジュヴナイルになってしまったせいか、昔のような、コンピュータ関係の濃いところが薄まってしまった感じ。
 女子高生に「あたし、立ち上がった」などと言わせるな。《ミルキーピア》をけっこう楽しんで読んでいた私でも、このシリーズは読む気がしないではないか。 神代創『覚醒――セルス騒乱記』(徳間デュアル文庫)
 三部作の第一作だそうで、短いのはいいが、それで本当に収拾がつくのかいな。科学的文明が滅んだあと、精霊の力が生きている世界で、精霊を見ることのできる気丈な少女が騒動を巻き起こす。例によってSF的設定が背後にあるファンタジー。すべてに平均点で特に奨める理由も貶す理由もなし。神代ファンは読んでくれ。 篠田真由美『天使の血脈』(徳間デュアル文庫)
 ルネサンス期のフィオレンツァを舞台に、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟弟子たる異能の少年アンジェロをめぐる伝奇的ファンタジー。ノベルズ版より大幅な改稿あり。 澁澤龍彦『天使から怪物まで』(河出文庫)
 ホムンクルスから天使まで、118の人ならざるものに関するカタログ。スキヤポデスはやはりプリニウスの博物誌にあったようだ。とことん感性の違いを感じる。 手塚治虫『ドン・ドラキュラ』(秋田文庫)
 12歳の次男が、ずっと笑いながら読んでいるので、久しぶりに読んでみた。一ヶ所も笑えずに終わった。年を取ったのだ、と実感する一瞬。 筒井康隆『魚籃観音記』(新潮社)
 短編集。つまらない。表題作は、孫悟空と観音のセックスを描いたもので、私はこういうものは下品なだけだと思うが。本編における自閉症という言葉の粗雑な使い方一つ見ても、げんなりする。「分裂病による建築の諸相」、女にしか見えない馬をもらった男の困惑を描く「馬」は比較的読めた。筒井だというだけの理由で反射的に本を買うのはやめにしなければ、と思うが、また買ってしまうのであろうな。 倉阪鬼一郎『首のない鳥』(祥伝社ノンノベル)
 長篇ホラー。ああ。私は本当に悲しく思っています。 筒井康隆『細菌人間』(出版芸術社)
 ジュヴナイル5編を収録する短編集。今さら単行本で出すような内容とは思えない。日本作家の過去のジュヴナイルにしても、今現在の子供たちに読まれてほしいようなジュヴナイルがもっとあるはずであり、編者は絶対にそうした駒を持っているはずだ、と私は思う。 高野裕美子『キメラの繭』(光文社)
 遺伝子組み換え食品が恐ろしいものを含みうる可能性を描く近未来SF。組み換え食品の恐ろしさを述べたりするあたりは、生協のパンフレットを読んでいるような味気ない気分。SFとしてもサスペンスとしても二流。 酒見賢一『陋巷に在り』11(新潮社)
 続き。孔子の母の物語が終わると同時に、故郷尼丘が危機にさらされる。どうやら子蓉さんが本当に死んでしまうらしいので、残念である。でも死んでしまうのに、何の務めなのだろうか。例によって途中で終わってしまうので、何だか話が見えない。 夢枕獏編『奇譚カーニバル』(集英社文庫)
 15編を収録するアンソロジー。「観画談」のすぐあとに横順の任侠冗談SF「昇り龍、参上」があるあたりの落差が何とも言えぬ。自分ではこうしたことは決して出来ぬであろうと思う。さすが夢枕獏である。 榎戸洋司『少年王』(角川書店)
 暗殺者である少年がターゲットを求めてやって来た学園で奇怪な待遇を受けるSF。小説の体をなしていない。表紙の絵の奇怪さを見るだけで技量の知れるイラストレーターの、デッサンが狂いっぱなしの絵がカラーで何葉も挿入されていて、無駄。本人はエロティックな絵だと思っているのであろうな、きっと。 沢里樹『王母の竜水』(文芸社)
 中国の神仙界を舞台にしたファンタジー。パス。 押井守『アヴァロン――灰色の貴婦人』(メディア・ファクトリー)
 ヴァーチャル・リアリティの中でのパーティを組んでの冒険的ファイトが金になるような近未来が舞台。一人称による説明が延々と続く箇所があまりにも多く、小説になっていない。もっとも設定資料の一つとでも思えば腹も立たない。もちろん映画は観に行くに決まっている。 今野敏『神々の遺品』(双葉社)
 タイトルからしてグラハム・ハンコックのいただきであるのだし、いまどき「ピラミッドとUFOの謎が……」というような引き句を掲げられても……と思いながらも、ここまで手垢にまみれた題材を使うのであるから、ちょっとはエンターテインメントしているにちがいない、と思った私が大バカだった。小説にすらなっていないぞ、これは。サヴァン症候群という言葉のいい加減な使い方にもうんざりする。最低な気分。 小松左京『題未定』(ハルキ文庫)
 これまで読んだことのない本だったので、買ってみた。ダメダコレハ。歴史改変物の一種で、作中作の形をとるからメタフィクションではあるのだが、これは長篇(中篇?)のネタではあるまい。 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡素な報告』(染田秀藤訳・岩波文庫)
 1542年、スペインのフェリーペ皇太子に、スペイン人のインディオに対する無残な扱いを訴え、暴虐をこれ以上のさばらせないようにと嘆願したもの。説明の要もないか。「フアン・セラノの手記」などを読んだので――いや、アホな本ばかり読んだので口直しに。 鹿嶋敬『男女摩擦』(岩波書店)
 日経の家庭欄の記者が、男女問題について自らの取材で得た情報を駆使して論じたもの。知らない情報がそう多くはなかったのだが、近年の不況が女性に対してたいへんに厳しいものであるということを示す一つの資料として、パートタイマー、派遣業の労働時間、待遇、賃金の資料があり、これは興味深かった。企業がどんなにパートをいいように搾取しているかがあからさまにわかってしまう。中でもすごいのが年間3000時間働いて、300万円の収入を得るという複合就労の女性たちの例である。これがいかに言語道断な数字かは、誰にでもすぐにわかろうというものだ。365日休みなく働いて一日八時間労働、日曜と盆暮れの休みをとれば10時間労働である。著者は、過労死の赤信号が点滅すると言っているがさもありなん。要するに彼女たちは正社員とはなれないのである。昼間は派遣で正社員と同様に働き、夜はファミレスなどで深夜までアルバイト。時給は平均千円というわけである。こんなことがあってもよいのか、と思うが、生活のために働かねばならないのだという。私たちの豊かな生活は、発展途上国などの搾取によって成り立つ部分が大きいわけだが、こうした国内弱者に拠るところも大きいのだということを強く感じさせられる資料であった。 ベン・C・クロウ『ジャージーの悪魔』(西崎憲監訳・ちくま文庫)
 アメリカ合衆国の人物、自然、歴史にまつわる恐ろしい話、奇妙な話、トール・テイルなどを集めたシリーズ。魔女の話がこれが編纂された戦後すぐのころには自然に生きていたのだと思わせるあたりが怖い。ただのアリ・ババをアリ・ベイビーにして舞台を合衆国にしただけの話が、なんともとぼけている。こういう感性は好きだ。 牧野修『病の世紀』(徳間書店)
 突如発生する悪夢のように残虐な事件。それはすべてウィルスのせいだった! とする、考えようによってはとんでもなく大バカなSFホラー。だが、惨虐としかいいようのない殺人表現があまりにもリアルであり、気が狂った人々の存在感が圧倒的で、なおかつ登場人物のキャラクターが決まっているために、おもしろく読める作品になってしまうのである。
 「SFマガジン」掲載の短篇「バロック」や連載中の「傀儡后」も病気もので、牧野修にとって2000年は病気の年だったのか? 瀬名秀明『BRAIN VALLEY』(角川文庫)
 単行本刊行時にあまりにも評判が悪かったので、読まないでいた本だが、なるほどこれはひどい。何を描きたい小説なのだろうか。息子がゲイであることに悩む主人公のキャラ設定がどう見ても変だし、ヒロイン(?)のメリーアンは母親失格のマッド・サイエンティストに見える。その他の登場人物もホラー的設定のためにみんなまともではなく、これでは誰に感情移入して読めばいいのかわからない。基本的にプロットがないし、SFとしてはレセプターに天国や地獄や神を感じるものがあるとするだけで、これって脳内麻薬をちょっと変化させただけの説なので、おもしろみに欠けるし。下手に蘊蓄が傾けてあるのもねえ。脳の説明はまあ全体にかかわることだから許すとしても(それにしても長すぎ。ある種のSF一派みたいに科学知識を大衆に広めるのがSF作家の務めとでも言うわけだろうか)、アブダクション妄想とか臨死体験についてなんで長ったらしく説明する必要があるのか? もちろんないのである。(幻視者として賢治、ブレイク、ドストエフスキー、ランボー、ネルヴァルなどの名前が挙がってる。それだけでも恥ずかしい。)
 情報を入れるのが小説として売れるから入れるの? 本当に情報を入れるのがおもしろいと思っているの? それがなくても小説は書けるというのに。クーンツはSF作家としてはダメだと思うけれど、彼の理屈抜きのひたすらなサスペンスには本当に迫力があって、つい読まされてしまう。エンターテインメントってそういうものでいいんじゃないの。その上にプラスアルファが出てくることはあるだろうけれど、それは決して情報の力によるものなんかではない。 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社)
 七世紀末、天皇という称号とともに日本国という国名が定められたことにこだわり、日本とは何かという問題はそこから問い直さねばなるまいと語る。日本人とは日本という国政の元にある人々だというが、まったくその通りで、そんなことは、日本が単一民族ではないと認識すればあまりにも当たり前のことだ。しかし、方言がわからないことをもって国が違うとするのはどうか。鹿児島人でもなければ鹿児島弁は確かにわからないだろうが、きわめてわかりにくいだけであって、日本語の骨格はきちんと持っているのだから。日本人という意識は、今の国民のたいがいは持っているであろうし、それは明治以来の教育(例えば明治半ば以降に徹底され始める方言の使用禁止、天皇を祖とする大家族制度という歴史認識など)、対外戦争(日清・日露)によって刷り込まれたのかも知れないが、持ってしまったものは容易には変えがたい。私などは沖縄の人にヤマトンチュウですね、と言われたら、甲州人です、などとはとても言えない。沖縄から見ればそりゃヤマトだな、と思うだけである。
 本書は《日本の歴史》全26巻の序に当たる巻であり、全体を総括するという意図を持っているために、網野流に近世までの日本史をたどり直したものとなっている。これまでの仕事の要約のような駆け足の記述で、読み慣れた目にはもはや新鮮に映らない。個人的には「長山靖生氏に教示を賜った」というような記述があってすっかり驚いてしまったが、その余の点では、むしろ驚くようなことは何もない。またもやサントリーの社長の「熊襲」発言に絡んでいるところあり(それも二箇所も)、このような駆け足の叙述の中で、しつこくもまた繰り返しているところを見ると(他の著書にも同じ記述がある)、本当に怒り狂っていて許せないのであろうなあとは推察される。 アナトール・フランス『青ひげの七人の妻』(白水社)
 新版で復刊された《アナトール・フランス小説集》の11巻。四編を収録。諷刺的、かつ諧謔的な作品。随所に見られる女性蔑視をどうしたものか。そこさえ無視すれば、その諧謔を楽しむことが出来るのだが。 ラフカディオ・ハーン『日本の面影』(池田雅之訳・角川ソフィア文庫)
 「東洋の第一日目」「盆踊り」「神々の国の首都」「杵築」「子供たちの死霊の岩屋で」「日本海に沿って」「日本の庭にて」「英語教師の日記から」「日本人の微笑」「さようなら」を収録。いつ読んでも、ハーンの日本についての随筆は、幻想的だ。もちろん幻想ばかりではないのだろうが、夢というフィルターを通したかのように、おぼろに美しいものばかりが列挙されている。特に「東洋の第一日目」では、日本は国民もみな小さくて妖精の国のようだと語るのだが、妖精の魔法を信じることが過去の日本では可能だったということなのだろう。ハーンの文章を読むと、我々もまた、西洋的な学問からすれば研究対象であって、文化人類学の学者が我々の習俗を観察しに来てもおかしくないのだということが、思い出される。私たちはついそのことを忘れてしまうのだけれど、それは今でもそうなのだ。 赤坂憲雄責任編集『東北学』3(作品社発売)
 民族学・歴史学の雑誌で、今回は『狩猟文化の系譜』。列島各地の古今の狩猟文化、人身も含めた供犠などをテーマとした論考を集めている。全体としては興味深いのだが、テーマが偏っているだけに似たような論考があるのは仕方のないこととしても、このあまりにも詳細な表を多用する専門性はもう少しどうにかならないものか。一般人の興味を引くという意味で、アイヌからアリューシャン一帯における狩猟文化の見取り図を提示するとか、またもっと食文化の方に分け入っても良かったのではないかと思う。……と言ってもこんな雑誌は一般人は読まないのか。ならこれでいいわけだ。
 専門的な知識を得るという意味以外で、おもしろかったのは、中村生雄の「動物供養は何のために」と山下欣一の「奄美・沖縄の動物供犠」。この二人の論はわかりやすくて納得できる。
 巻頭座談会がつまらない。鶴見俊輔が「南京大虐殺はしないでくれよ」と繰り返すのがわからない。戦争になっても過度に野蛮な行為(強姦した揚げ句に女子供を殺して略奪をほしいままにする)だけは勘弁してくれ、という意味なのか? 戦争(侵略)反対のレトリック? 経済的侵略ということだってあるだろうし、私たちは知らぬ間に何をしているとも限らないのだが。
 もう一つ、赤坂の柳田オブセッションがわずらわしい。なんでもかでも柳田を引き合いに出すが(柳田は読んでいないと言っているインタビュー相手にまで!)、彼の業績を追うのが民俗学の務めではないことは明らか。例えば日本人論との関わりでいうのなら、上からの国民意識の形成のための努力にどう反応してきたのかを個々人の側からさまざまな事例を拾い上げて検証していくのが民俗学であって、その節における柳田の功罪に拘泥するのは民俗学ではないはずである。そんなに柳田柳田と思うなら、柳田文学研究家だと開き直ればいいのに。 ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(松永美穂訳・新潮社)
 これは去年の年間ベスト10に入ってしまった文芸書(しかもドイツ文学の翻訳!)である。未読の複数の人にどうして売れているのですか、と聞かれたが、読んでもいなかったので、売れていると評判になったからでしょ、と答えたが、読了しても、それと同じ答えしか返すことは出来ないなと思った。なぜ売れるのかまったくわからない、全然わからない。小説は下手ではないことは確かで、「舌を巻くほどの傑作」(池沢夏樹)とはまるっきり思わないが、そこそこ書けている。たぶん売れるのは癒しの物語と捉えるからなんだろうなあとは思うが、私の読んだ感じでは、これはそういう物語ではない。以下に二つの読みを示すが、これから読んでみようと思う人は以下の文を読むべきではないと考える。どうでもいいや、と思う人だけ読んで下さい。
 15歳の少年が、36歳の女性ハンナに恋をする。情事を繰り返すが、彼女は不意にいなくなる。六年後に再会したとき、彼は大学生で裁判の傍聴席に、彼女はアウシュヴィッツの看守として被告人席にいた。彼女は文盲だがそれを隠し続けるために看守の道を選ばざるを得ず、裁判でも自らのものではない罪まで引き受けて無期懲役となる。彼女を愛したことは罪だったのかと問いかけながら、語り手は朗読のテープを送り続ける。模範囚として出所の日に彼女は自殺し、やがて主人公はこの物語を語りだす……。
 罪ある者を愛したのは罪か、また自分は本当に真摯に罪を負ってしまった女性に向かっただろうか、罪は永久に償えないものなのか、という問いかけがなされる物語だが、作者の答えは、状況によって人はまさに罪の自覚すらなく罪を犯すけれども、だがそれはやはり断罪されるべきであるし、また、無知であることも同様に罪なのであって、そうした罪は許されることはなく、罪を背負いつつも生きねばならないのが人間だ、と言っているように見える。いかにもドイツらしい真面目さを感じるが、ナウシカではないけれども、生きていること自体が罪だけれど、愛の名の元にそれを許そう、というようなところへは持っていかないわけで、「希望にあふれている」ようには全然見えない。私はドイツ人ではないから、ショアーの歴史を背負うということの重さはようわからないので、絶望に自己満足しているような不愉快な作品だと思ってしまう。
 もう一つ、うがった読み。
 これは回想録であるからして、自己隠蔽の力学が作用する。つまり、世間的には非難されるべき看守を務めていた彼女を愛したことは罪だったのか、と問いながら、罪ではないだろうという答えを予想している。そして罪ではないと知りながら、罪を負っていると演ずることで、語り手は自己憐愍という快感を得る。彼は愛愛、裏切り、という言葉を連発するが、15歳の少年の恋情は、性欲のはけ口であったから彼女に夢中になったという風にしか読めず、罪のある女性をさらに罪深く利用したかもしれないという恐れが、その奥には隠蔽されているのだ。これは語り手が最も認めたくはないことにちがいない。語り手がテープを送り続けるのは、彼女をやはり愛しているのだというメッセージを装いながら、ハンナにアウシュヴィッツで死んだ少女のことを決して忘れさせないための拷問の道具であり、それを感じ取るハンナは文盲から脱して、ショアーの歴史を振り返り、自らの罪を深く深く意識する方向へと傾いていく。語り手にとって朗読という行為は、自分を殺された少女に仮託することに近く、自分もまた被害者なのだという妄想を育み、罪深い自己から逃れる手だての一つとなる。裁判で彼女に声をかけないのも、手紙を決して送らないのも、本当は愛してなどいないということの無意識の現われであって、それを自覚しているからこそさらにそれを深く隠蔽しようとするのだ。あーあこれじゃまるっきり変態を描いた小説だが、このような読みをするなら、驚くほどうまい作家と言うことも可能だろう。
 うー、なんてばかなことに時間を使っているんだろう。この本が売れたということが本当によくわからないのだ。どっちの読みでも一般的テーマとは言えないから……別の解釈なのであろう。
 もっともアウシュヴィッツはなかった、というような言説がまかり通るような国では、本書がベストセラーになることは多少とも喜ばしいことなのかもしれない。 ニール・ゴードン『犠牲の羊たち』(仲村明子訳・徳間書店)
 本書はホロコーストもののミステリーで、海外の現代のミステリーが大方そうであるように、推理小説的なおもしろさはほとんど期待できない。多少のサスペンスはあるが、それも薄い。むしろホロコーストとイスラエルの建国をめぐる一種の伝奇小説なのだ。で、本書の帯に『「シンドラーのリスト」「朗読者」を超える傑作』とあったので、『朗読者』がそれ系列の作品だということを知って読んでみたわけである。さて、本書で問題になるのは、『シンドラー……』でもそうだが、選別、という収容所で殊に残酷さを際立たせる概念である。出国して助かった人も結局は選別されたということだ。小説としてはいまいちだが、イスラエルの現在向いている方向が危険であるがゆえに、説得力はあり、特にイスラエルの私と同世代以下の人々の感情はどうなのだろう、というふうに想像させられた。 ロラン・ゲッチェル『カバラ』(田中義廣訳・クセジュ文庫)
 二年前の本。古代からスペイン追放後に至るのまでのユダヤ神秘主義の歴史をたどるが、ある程度の知識(グノーシス、ネオ・プラトニスム、カバラの基礎知識)が無くては読みこなせまい。しかしそれにしてはボリュームがなく、読み返してちょっと確認する、というようなことには使えるか。一般向けという感じがしないが、カバラ関係でそんな本があるか! という声も聞こえてきそうな……。
 クセジュ文庫を並べた私の書棚に田中義廣の名前がやけに目立つ。ほかに人材(神秘主義とフランス語ができる)はないのか? いると思うんだけどね……。 箱崎総一『カバラ』(青土社)
 1986年の本で、どうやら読んでいないようだ。心理学者が、ユダヤ人の心性に魅かれて書きつづったもので、体系的とはお世辞にも言いがたく、記述はそちこちで重複したりどこそこに飛んだり。カバリストとその時代背景などを知るには存外良い本かも知れない。セーフェル・イェツラー、ゾーハルなどの部分的な翻訳があり、これだけではかえって誤解を招くかもしれないが、個人的にはおもしろいと思う。
 心理学者らしく、フロイトとユングに言及があり、フロイトとカバラの関係を軸に官能性の問題に触れているところ、メルカーバーとユングの幻視体験とUFOとに連関を見いだしているところなどもおもしろいと思ったけれども、メルカーバー自体に種々の相があることを思えば、単純な類比は危ういのかもしれない。門外漢なのでよくはわからない。
 カバラって本当にわからない。本を読んでもキリスト教神秘主義のように単純ではなくて、実感的にすごくわかりにくい。まあいずれにせよ、女性は今でも排斥なんだろうなあ。 フランク・ディレイニー『ケルトの神話・伝説』(鶴岡真弓訳・創元社)
 ケルト神話の再話集。再話は……好みの問題だが、私はもっと古典風なのが好き。大岡信の訳と須永朝彦の訳、どちらが好きかと言われればやっぱり須永朝彦というような。 5日
リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』(斉藤・山岡・大川訳・岩波書店)
 私的充足と公共的正義は両立しないという視点に立ち、想像力で人の痛みを思いやることで連帯する。つまり哲学より文学だということを主張する本。そしてアイロニストの集うリベラルな社会を理想とするようだ。著者の言うアイロニストというのは相対主義的な感覚の持ち主で、私はその中に入る。リベラルというのは残酷さはだめ、人の痛みや苦しみに敏感であるということらしい。この二つは両立しそうもないが、アイロニストであることを自分の内面のみに向ければ両立が可能だということになる。私のような立場の人間にはもう道は閉ざされていると言っても良い。だが本書は最後まで読んだら結構おもしろかった。私事的なことと公共的なことに引き裂かれる感じはとてもよくわかる。またナボコフの話がおもしろく、ナボコフこそ読むべき作家だったのだ、とまたしても思ってしまった。短編集を読んで、全面的に読み返そうとは思ったのではあるが、もう一つ動機が増えたことになる。でもいつのことになるやら。 ピカート『沈黙の世界』(みすず書房)
 1948年に出された沈黙論。現代にこそ読まれて欲しい古典的名著の一つ。言葉の背後にある沈黙こそが言葉を支え、存在を支えるとする。非常に美しい言葉で端正に語られ沈黙の価値は、心の深淵に届く。ただ、顔と沈黙、農夫と沈黙、自然と沈黙、美術と沈黙などの中間部は、観照にはなっておらず、まったく恣意的に沈黙を語る、要するに詩になってしまっている。また、「万事はラジオから発生する」「ラジオはもはや言葉に耳を傾けないように教育する」などは、ナチス・ドイツを経てきた人の卓見であろう。
 なおピカートは『われわれ自身のなかのヒトラー』を書いた人である。 H・A・イーグルハート『女神のこころ』(現代思潮新社)
 世界各地の女神像と女神神話を集めた画文集。試みとしては悪くないと思うのだが、もう少し量が欲しいし、これじゃなくて……と思うところがある。また、フェミニズムの中でも、自然・大地に連なる女性性を賞揚する一派の書物なので、「気づき」「瞑想」「祈り」といった特徴的な言葉が語られる。私の個人的な事情によるのだが、こういうものに肉体的に拒否反応が起きてしまうので、いかんともしがたい。だが、著者の言いたいことは理解できるし、実践するのも決して悪いことではないとも思う。 6日
ジョン・アーヴィング『ウォーターメソッドマン』(新潮文庫)
 尿道が奇形である青年が、水を多量に飲むということでそれに伴うさまざまな不都合を紛らしているが、手術を受けて普通にする。そして同時にずっとかかずらってきた文学博士になるための論文を仕上げる。彼は自分の居場所を見つける。愛を、生活を発見する。モラトリアムで無責任な青年が、そこから抜け出て人生を生きようとし始める物語で、まったくの青春小説。卒論に続く第二作目だというのに、なんて巧い小説家なんだろう。とはいえこの話は40歳の私には胸に迫るものがない。若い人のための小説。 7日
I・ピーターソン『カオスと偶然の数学』(今野紀雄監訳・白揚社社)
 確率とランダムネスをめぐる数学関係の一般啓蒙書。中学校の算数レベルの確率から話が始まるのに、いつの間にかさしたる解説もなくポアンカレ断面の話などが出てきてしまうので、どんな読者に薦めたらいいのか困ってしまうような本だ。フラクタル・ドラムの話が興味深かったのだが、私の頭で理解が行き届くように書いていないのが残念である。科学の啓蒙書はおおむね話題が似たようなものになるので、何度も読んだ話が出てきたりするのは仕方ない。ただ、この著者はきちんと具体的な証明や数式などを示すべきときにそれをしないので、たいへんにわかりにくいところと、お話的におもしろいところとの落差がある。数学と現実の関わりを語るところや、数学の学際的研究(?)――物理学は言うに及ばず、生物学、工学、経済学などとの――の話題は、数学への興味をかき立てるのにいいと思うのだけれど、もっとおもしろく書けるはずで、啓蒙書としてはBクラスという感じ。 クリス・クラウス『アイ・ラヴ・ディック』(落石八月月訳・新潮社)
 「文学・アート・現代思想でオトコに迫る人妻クリスのスノッブな恍惚と苦悩」というので、よほど硬派な話を会話の話題にする(で、男に逃げられまくる)のかと思いきや、まるで大したことない。私小説の装いの書簡体小説。クリス夫妻はポストモダンの知の仕掛け人だそうで、そうしたことにモデル小説的な問題がからんで海彼では話題になったらしいけれど、日本では売れないよね。フェミニズム小説としては部分的に共感できるところもなくはないけれど、恋愛小説としてはパス。もちろん幻想小説ではない。 8日
マンフレート・ルルカー『シンボルのメッセージ』(林捷・林田鶴子訳・法政大学出版局)
 ルルカーの遺作。これまでのシンボル研究を一冊の著書にコンパクトにまとめようとしたもので、集大成であると同時に見取り図的でもある著書。 鶴岡真弓『装飾の神話学』(河出書房新社)
 装飾的なものにも隠れているシンボリズム、神話的イメージを解説したもの。詩(というか行分け散文)やちょっとした創作風に書かれていたりするところもあり、比較的気楽な感じの連作エッセイ。 ウィルキー・コリンズ『アーマデイル』上(横山茂雄訳・臨川書店)
 脳天気に育った青年と苦労人の青年の絡みあう宿命を描いた物語。本書はコリンズの悪女ものとして最も名高い著書らしいが、上巻では彼女はまだほとんど姿を見せない。次の巻が早く出ないかなと思う。コリンズって小説がうまい。エンターテインメント作家として人気を博したというのがよくわかる。 9日
レ・ファニュ『墓地に建つ館』(榊優子訳・河出書房新社)
 ダブリン近郊の村を舞台にその人間模様を描いたもの。恋の鞘当て、決闘騒ぎ、金の貸借、さらには過去の殺人事件から現代の殺人までもろもろの犯罪。しかし現代的な意味でのミステリとしては読めたものではなく、典型的なゴシック小説的趣向が一部で使われてはいるものの、ゴシック小説というのはどうかと思うし、ホラーとも言えまい。どう読んだら良いものやらというような喜劇的な調子と、神経症的な恐怖と憂鬱の描写とのミスマッチは、私にはとても楽しめるようなものではなく、ひたすらかったるかった。 10日
平井呈一『真夜中の檻』(創元推理文庫)
 怪奇小説二篇とエッセイを収録。東雅夫による平井呈一小伝を付す。先駆者への敬慕の念なくしては生まれなかったであろう一冊。 『伝説は永遠に』2・3(ハヤカワ文庫FT)
 2は『真実の剣』『炎と氷の歌』『パーンの竜騎士』、3は『時の車輪』『ゲド戦記』『オステン・アード・サーガ』『ディスクワールド』の外伝を収録。タッド・ウィリアムズの『オステン……』は英国中世的な世界像を持つ別世界ものだが、この外伝集の未読作品で、唯一読んでみたいと思わせるものだった。『真実の剣』も比較的おもしろかった。外伝は、やはり正編を読んでいないとしっかりと楽しめないものと思う。ましてや正編が好きでなければ。 岩井俊二『ウォーレスの人魚』(角川文庫)
 ミッシングリンクとしての人魚を描くSF。進化論のアルフレッド・ウォーレスが人魚を育てていたという設定で、近未来に人魚が捕獲されたことから起きる騒動を物語る。普通。 デュ・モーリア『鳥』(務台夏子訳・創元推理文庫)
 全九編を収録する短篇集。細やかな情感にあふれた描写が緊迫した展開へと変転していくさまがみごとで、小説の巧さを感じさせる。最後の展開に驚かされる「番」のほか、本書にはなんと山岳幻想ものというか、一種のシャンバラ幻想的な「モンテ・ヴェルタ」という作品が収録されている。山と神秘なものの関係を綴り、山の中にある不思議な修道院を描いている。デュ・モーリアは長篇を四つ読んだことがあるだけで、本編の存在を知らなかったのはたいへんに恥ずかしい。「真実の山」として集英社の文学全集に入っていたもの。 松村栄子『紫の砂漠』(ハルキ文庫)
 ジェンダーをめぐるファンタジーのあるSF。しかしSFにする必要性がほとんど感じられず、著者はSF的な感性に欠けているとしか思えない。私の感覚からすると構成が緊密ではなく、作品自体を美しいと感じることができない。11月に読み始め、結局読みさし読みさしで、最後までこんなに時間がかかったのは、文体があわないせいだろう。高原英理の解説は立派だったけれど、パスな作品。 11日
デニス・ヴァンダース『天界を翔ける夢』(川副智子訳・ハヤカワ文庫SF)
 身体を捨て、仮想世界で永遠に生きることを望んだ人々が大多数を占める未来。その世界に入ることを拒んでいる青年がビン内の美女に恋したのだが……。ミステリ的な展開のラヴ・ロマンス。ビンの設定自体納得できないのに、それは前提として物語を楽しめと言われても難しい。唯一インパクトがあるのは、列車の中の死体(ビンに脳の記憶を移した人々の死体)が灰になるというアウシュヴィッツ的描写。全体としてはパス。 グレッグ・イーガン『祈りの海』(山岸真編訳・ハヤカワ文庫SF)
『SFマガジン』で読者賞を取った表題作ほか、11編を収録するオリジナル短篇集。本書のテーマは二つに絞られ、意識(脳)と「我」の関係、というのが一つ、差別などのからんだ政治的問題と科学との相克が一つ。その二つを宗教を媒介に結びつけたのが表題作、というような図式的な見方もできる。「放浪者の軌道」もそう。これはおもしろかった。かなり読める。 ロバート・シルヴァーバーグ編『遙かなる地平』1・2(ハヤカワ文庫SF)
 SF長篇シリーズの外伝を11編収録したもの。どのシリーズにも思い入れはなく(まったく読んだことのないものもあり)、各編もファンタスティックというわけでもない。唯一ベアのホジスンに捧げられた「ナイトランド」はそこそこ楽しく読んだ(ナイトランドそのものだから)。しかし全体としてはパス。 12日
島田雅彦『彗星の住人』(新潮社)
 恋愛小説。叶わぬ恋に命を懸ける宿命の血筋の人々を、四代にわたって描く。聞き手は五代目。ファンタジーではない。小説としては上手だと思うけれども、興味は持てず。 瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)
 小説家が主人公。小学校六年生当時の自分をモデルに、SFファンタジーを執筆中。しかもそのSFファンタジーの一つの鎖を自分が成しているという、メタノヴェル。子供が主役ということもあり、また主人公の作家があまりにもナイーヴなので、読後に「よくがんばりましたね」という桜のスタンプが浮かんで仕方なかった。露骨にすぎるメタノヴェルは、私見によれば小説がうまく書けないことの証明のようなものだが、昨今の読者はこれくらいはっきり書いていないとわからないのかも知れぬ。作者は最初に比べるとずっと小説がうまくなっているし、これからもっと良いものを書くかもしれない。 13日
ローレンス・ノーフォーク『ランプリエールの辞書』(青木純子訳・東京創元社)
 ラ・ロシェルの攻囲をネタにした歴史伝奇ミステリ。パス。
 ミステリって本格でも変格でもつくづく好きではないらしい。まったく無用に人が死ぬ。主人公は意味もなく生き残る。おまけにああした歴史的暴虐に突飛な解釈を施しているとなれば、なおさらのこと、それが自分の感性にあわない場合は、とんでもない愚作に見えてしまう。多視点過ぎるのも、どうでもいいところで二視点叙述をするのも気に入らない。『幻想文学』ではミステリ・ファンの森村進さんが褒めているので、きっとミステリ好きにはおもしろいのだろう。 セオドア・ローザック『フリッカー』(田中靖訳・文藝春秋)
 物語は1950年代半ばに始まる。映画マニアの青年ジョナサン・ゲイツが、映画批評の得難い先達である女性に出会い、彼女の弟子・愛人となって映画研究の学者となっていく。彼らはひょんなことから入手したマックス・キャッスル監督『われら万人のユダ』を観、そこにとてつもなくおぞましいもの、生命を忌避させる何かを感じ取ったものの、その卓越した伎倆に驚嘆し、彼の発掘を学者としての売りにしようとする。ゲイツはそれに成功はするものの、キャッスルの映画には西洋の隠された宗教史にまで絡む秘密があった……。というわけで、インチキなカタリ派の解釈をもとに、世界の破滅、人類への憎悪というテーマを盛り込んで、なおかつ映画趣味満載で作られた物語である。
 稲生平太郎は『幻想文学』46号で本書を取り上げ、「架空の傑作群を文章で喚起するしかないという点には、そもそも映像の記憶が存在しない以上、大きな無理がある」と言っているが、私は延々と語られるサブリミナル的な技法やマックス・キャッスルの映像がなければこの小説は読み終えられなかっただろうと思う。映画には暗いので、映画批評小説としての魅力はわからないのだが、映像の表現には充分魅了された。私の場合小説は自動的に映像に変換されるので(誰でもそうなのかと思っていたら違うらしい。そういう人はどうやって小説の内容を思い出すのであろうか。できれば教えて欲しい)、映像の言語表現は必然的に映画の中の映画となる。その感覚自体もまたおもしろいのだ。
 アニメ狂としては、ラストに出てくるキャッスル監督の最後の作品がことのほか印象的で、そのキャッスル自身のテーマは別にしても、ある種の感動を覚えずにはいられない。ものを作りだす人間の目と手に魅了されているからかもしれない。
 この作品は、冒頭部分のあまりのかったるさゆえに三度挫折し、ようやく読み終えた。小説としては、中盤の白子の天才少年が登場する辺りから三文小説的になり、一種堪え難い展開になるし、決してすごく好きな作品というわけではないのだけれども、心捉えられる大作ではある。『ジョン・ランプリエールの辞書』と並行して読み進めていたせいもあるだろうが、私にとってはずっと良質の作品で、作品そのものを味わうこともできた。 14日
クラーク&バクスター『過ぎ去りし日々の光』(冬川亘訳・ハヤカワ文庫SF)
 時空を自在につなげる画期的な技術の確立をめぐる物語。あらゆるプライバシーと過去が目の当たりにできるという状況がもたらす悲劇を扱い、さらにネットワーク的人類の可能性についても述べている。ああ、またしても同一化の欲望と、不死の欲望。あらゆる魂の蘇りなどという企画(神の計画だ!)よりは、この世は地獄である、すべてに死を、という『フリッカー』で繰り返し語られる教義の方がなんぼかましだと思ってしまう。 15日
柴野民三文・茂田井武画『山ねこせんちょう』(銀貨社)
 何でも食べてしまう山猫ボンシイクのナンセンスな冒険を描く怪作絵本。「たいへんせわになった。おれいにたべてやろうか」って、アプロみたいな主人公である。過去の印刷が書き版と呼ばれる特殊な方法であったため、茂田井自身の原画のタッチが損なわれている(かなり線が粗い)。 末広喜久『塔』(集英社)(京)
 ガロアのエピソードが途切れ途切れに現われる冒頭から数学ネタの小説かと思ったが、みごとに違った。いろいろな性的妄想と醒めない夢をモチーフとした幻想小説である。すばる文学賞受賞の新人の小説。パス。 青野聰『翼が生える位置』(集英社)(京)
 アジアを追究している映像作家・究太郎を中心に、彼に関連のある人々を描く。普通の小説。 16日
辻仁成『サヨナライツカ』(世界文化社)(京)
 婚約期間に婚約者ではない女性との恋愛に溺れた青年の話。男のエゴむき出しのすごく女性差別的な作品だと思うが、著者には自覚がないのであろうな。問題外。 大久秀憲『ロマンティック』(集英社)(京)
 故郷でひと夏少年野球ティームの監督をすることになった青年と友人たちの物語。すばる文学賞受賞の新人の小説。パス。 小谷野敦『恋愛の超克』(角川書店)(京)
 仰々しいタイトルだが、雑誌に載せた恋愛、結婚、売春、性愛関係の雑文を収録するエッセイ集。人生に意味を付与するような恋愛は一部の人にしか与えられないものであって、恋愛を過大視するのはやめよう、恋愛とは縁のない人間もいるのが現実だ、ということのようだ。ただし恋愛、愛、恋という語の使用状況が曖昧であり(自分で認めながら曖昧なまま使用している)、恋愛に縁がないとは熱烈な両思いに至らない、という意味に読める。
 著者の本は、かなり以前『八犬伝綺想』という本を読んだきり何も読んでいなかったが、どうやらその間に『もてない男』という本で有名になったようである。なかなかおもしろく読めたが、フェミニスムに興味のある人にとっては、という条件付き。反論してきた人間への再反論という側面があり、有名な学者・論客批判が大いに含まれているので、学者間の争いの構図を見るという点でもおもしろい。とはいえ、本書よりも前の著作の方がおもしろいという可能性もある。なにしろ読んでいないからその判断はできない。私としては遡ってまでわざわざ読む気は起きないし、今後この人の著作を買い求めようとも思わない。 ジョルジュ・ペレック『エリス島』(酒詰治男訳・青土社)
 エリス島はアメリカ合衆国のハドソン川河口にある小島。自由の女神の至近だという。この島は19世紀末から20世紀前半にかけて、移民を一時抑留し、検査、入国手続などをする場所として使用された。1600万の人がエリス島に渡り、この島から元の世界へと戻されたのが25万人だという。本書はこのエリス島をめぐるドキュメンタリー映像のシナリオである。著者のイメージで構成された前半部と、1979年時点でまだ生きていたエリス島体験者へのインタビューによる後半部とから成る。ペレックは一つの〈場所の記憶〉を喚起することに成功していて、きわめて印象深い一冊。『W』がおもしろかったので、題材的にはさほど興味のない本書を手に取ったが、歴史全般に興味のある人にはおもしろく読めると思う。買うほどでもないか。 川上弘美『おめでとう』(新潮社)
 ふわふわした感じの恋愛小説集。憑く幽霊が出てくる話があるが、別にファンタジー短篇集ではない。パスパス。
 私は著者にまったく興味が持てない。文体が嫌いだ。話される内容もつまらないとしか思わない。なにのなんで本を買うのかというと、東が「川上弘美ってそこらじゅうで評判になっている」と言うからである。朝のテレビ番組の調査によれば人が「みんな……」という時は「2、3人からせいぜい20人」らしいから、「そこらじゅう」というのもどうせ数名のことだろうが、「どうして『幻想文学』の書評で取り上げないのか」(58号の女性ファンタジー特集ではきちんと取り上げた、念のため)と訊かれると、なんだか不安になるではないか。私がまちがっているのかも。あるいは何かすごいのを書いているのかも。で、読めばやっぱりつまらない。それも今度のなどはおそろしくというほどにつまらない。冒頭の一作などちょうど多和田葉子が似たようなものを書いているので、川上の文学としての弱さ、つまらなさが実によく理解される。多和田も常に良い作品を書くというわけではないが、まだしも言葉が力を持っている。人からなんと言われようと、もう二度と買わない。 17日
浅暮三文『夜聖の少年』(徳間デュアル文庫)
 近未来・遺伝子操作もののジュヴナイルSF。 18日
斉藤直子『仮想の騎士』(新潮社)
 ルイ15世、ポンパドゥール夫人の宮廷に仕える美麗な青年騎士の物語。ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。よほど駒がなかったのであろう。一応歴史伝奇なのだが、文体も構成もなにもあったものではなく、普通なら単行本になるようなレヴェルではない。 19日
ハイドン・ミドルトン『最後のグリム童話』(ベストセラーズ)
 ヴィルヘレムの娘から見たヤーコプの最晩年の姿を中心に、グリム・モチーフの童話風作品とヤーコプの過去の人生の三つの部分で構成されている。『本当はおそろしいグリム童話』まんまの装幀なのでクズかと思ったが、そうでもなかった。まあまあか。とはいえファンタジーとしての構成に緊密を欠き、グリムの生涯を語るものとして読んでもいささか薄手である。挿画はたいへんにひどい。 20日
A・C・アモール『オスカー・ワイルドの妻』(角田信恵訳・彩流社)
 ワイルド夫人コンスタンスの評伝。資料があまりないのだろう、隔靴掻痒というか、はっきりしないことや記述不足が多いのだけれども、そこそこおもしろいのではないか。良きパパ・ワイルドの姿を見ることができる。また一八八八年、コンスタンスがブラヴァツキーを見物に出かけ、結局〈教団〉(としか書かれていないが、神智学協会のことだろう)の秘儀を受けているという記述がある。一箇所言及があるだけなので、いったいこれはその後どうなったのかわからないが、この人に漏らしてはならぬとされるイニシエーションの模様をすべて夫に伝えていたということも書かれていて、ほほえましい。コンスタンスがこのころ政治運動に多少の関わりをもったという記述もあり(具体的には女性の被選挙権を認めさせる運動や衣服の解放などにかかわっている)、当時はアニー・ベザントも女性活動家として知られていたわけだが、そうした女性解放運動とオカルティズムの関係というのはどうなっていたのだろうか、と思う。精神的なつながりはあってもおかしくないだろうが、具体的な何か社会運動としての、というようなものがあったのだろうか。こんなことを研究しているフェミニストも世の中にはいるのだろうか……。 川村二郎『白山の水』(講談社)
 水にこだわった鏡花論。自分自身が持っている土地の記憶にもこだわっているところは私小説的(帯の惹き句によればセンチメンタル・ジャーニー)。ドイツ文学を持ちだすのは比較文学論風。総じて話はとりとめなくゆらゆらとゆらいで、穏やかなときの河口の水のよう。それにしても鏡花はいろいろな読みを許容する、真にユニークな作家である。彼の作品の解読は、恐ろしくて私などにはとてもできないが、しかしながらぴったりくる鏡花論に出あうこともまずない。川村先生とは『銀河と地獄』の昔から合わないのだけれど、しかし教わるところは大きい。bk1 ボルヘス『英文学講義』(中村健二訳・国書刊行会)
 あまりにも分量が少ないために、英国文学の流れを有機的に追うことも、作家を過不足無く取り上げることもできなかったので、最重要作家の主要作だけを取り上げて概説したというような体のもの。ここで取り上げられている作品ぐらいはせめて読め、というようなものか。こんなわずかなページの中に、読んでいない作品がたくさんあるのが悲しい。またボルヘスマニアではないので、選択作品にどのようにボルヘスらしさが現われているのかもよくわからない。訳者の解説に説得力があるので、マニア以外の人はそれを読んでから本文を読んだほうがおもしろく読めると思う。 21日
長野まゆみ『絶対安全少年』(作品社)
 少年が作った辞典、猫の短篇のほか、エッセイを収録。詩画集のようなものは除いて全作品を購入、読んでいる作家だが、いまだにどう評価したらいいのかとまどうようなところがある。詩歌を取り上げたエッセイがいい。

22日
田口ランディ『コンセント』『アンテナ』
(幻冬舎)
 『コンセント』はシャーマンの誕生を、『アンテナ』ではそのシャーマンの介在によって癒されていく青年を描く。かなりおもしろいのだが、SMの女王がシャーマンというのはちょっと。この方法論は心理学的なものなのであって、宗教的なものではないのでは……と感じてしまう。とてもよくできたロール・プレイの療法を見ているような感じというか、ある種合理的な超自然理解で構築された新興宗教風な小説というか。ニューエイジ系の説教寓話に近い感触。ただしあれほどにばからしくはなく、あるところではものすごくリアルで(自伝的要素が入っているのだと思う)、よく書けている。

23日
佐藤健一・田村善次郎『十二支の民俗誌』
(八坂書房)
 一般向け。「申」では猿回し復活に尽力した友人の思い出が縷々綴られていて、そこだけ破格。

24日
ジョン・ランチェスター『フィリップス氏の普通の一日』
(高儀進訳・白水社)
 普通の一日ではない。クビになったのにそのことを告げられない50歳のフィリップスが、会社に行く振りをして家を出た、リストラ一日目を描いたもの。息子と会食するし、銀行強盗に出くわすし、かなり特別な日なのである。ただ小説としては別に興味も関心もわかない。会計士なので何でも数字にしてしまう癖があり、ダッドの絵は10点中8点とか、そういったところはおもしろくなくもないが、私にとって切実なテーマでも何でもないので。もちろんファンタジーではない。

清水義範『銀河がこのようにあるために』(早川書房)
 SF。これはダメだ。2099年、けっこう平和な世界に突然訪れた危機的状況を描いているが、この結末はあんまりでは?

北川想子『ぼくとジンベイ』
『幻想文学』に美術展評などを書いてくれている高山直之君の、昨年春に亡くなった知人の童話集。プロの作品集ではなく、自費出版なので、小さな冊子の体裁で、三編の童話が収録されている。特に表題作が優しく切なくて、こんなふうに生きられたらどんなにか幸せだろうと思う。希望者には無料配布するそうそうなので、下記まで連絡を。
〒504-0909 各務原市那加信長町1-47 村瀬輝代美

25日
《怪異の民俗学》5『天狗と山姥』
(河出書房新社)
 これは小松和彦の論文集なのだと思って無視していたのだが、単に小松責任編集の論文アンソロジーなのだった。なんてバカ。bk1

30日
森まゆみ『森の人 四手井綱英の九十年』(晶文社)(京)
 里山という言葉で集落のそばにあって生活に密着した山を指す言葉の創始者。自然保護・森林研究者として高名な人のインタビューを著者がまとめたもの。自然保護関連の書物として、また登山関連の本としておもしろかった。私はこの系統のものはあまり広く読んではおらず、この本に書かれているような森の性質については知らないことが結構あった。
 自然保護というと、大学時代の西江雅之の講義を思い出す。最も効率良く保護するのは自然保護をしようと訴えかけるために行動するのではなくじっとしていること、という話。だが行動しなければじっとしている仲間を増やすことはできないし、結局これは自然を優先するなら人など死ねということにもなる。自然を求めて行動することはことごとく(田舎に家を建ててしまうのも山に登るのも、もちろんスキーなども私のやってきたことはみな)自然破壊につながるし、こうしてパソコン使うこともそうだし。というようなことを考え出すときりがなく、考えても何もしないのだから考えるエネルギーすら無駄だという考えもあろうが、ともかくも日ごろから念頭を去らぬ一事ではある。無農薬農業を実践していて、頭が下がるような生活をしている友人にしてからが、きれいごとは一切言えない、好きでやってると開き直るぐらいしかないと言っているほど。難しすぎる問題。

平井正『ヒトラー・ユーゲント』(中公新書)(京)
 その成立過程に重点を置いた概説。歌とプロパガンダ映画の紹介にも力を入れている。

ビアス『悪魔の辞典』(奥田俊介訳・講談社)
 新撰・新訳。ビアスは文学的に上等なものにするために捨て去った、雑誌等掲載時のものを新たに編纂している。復活したものの中にはおもしろいものもあるが、凡庸なものも多々あり、ビアスが捨てたくなった気持ちはよく分かる。果してビアスには文学的に認められてしまうと、こんなふうにクズも発掘されて公の目に晒されてしまうということがわかっていたのだろうか。いみじくも「FAMOUS」の項には「目立ってみじめな」とある。
 まったくの余談だが、大学時代、この奥田俊介の英語の授業(必修単位)を一年間受けた。ビアスの怪異譚集を読んだのだが、それはおそろしく退屈な授業であった。当時から『悪魔の辞典』と言えば奥田の翻訳で、こんなにつまらん授業をする人があれを訳しているのかと関係ないことばかり考えていたものである。

31日
大野晋・上野健爾『学力があぶない』(岩波新書)(京)
 とにかく新学習指導要領があまりにもひどい。知れば知るほどひどいので、それに反を唱える以上、多少気に入らないことやバカなことが書いてあっても良しとする。ともかくも真面目に教育問題を考えている一冊。文学というごく狭い範囲に限っても、数学力・国語力の低下はその全体的水準を引き下げる。こうしたことは、環境問題と同じで、人間どうせ滅びるだけだ、日本も日本語も日本の文学もどのように変質していってもかまいはしない、それがなぜ悪い、と言われれば、有効な反論はできないのだが、私はそんな世界はまっぴらだ。

ジョルジュ・ミノワ『未来の歴史』(筑摩書房)
 占い・未来予測についての歴史。あまりにも厚い。定価もそれに見合う高さ。相当の知識は得られるが、専門家向け。予兆関係の占いには突飛なものが多いが(東洋文庫にいくつか翻訳がある)、雷の占いが精密な大系をなしているというのを初めて知った。7月24日の落雷は政変、とか。ここまで言えるためには相当の体験の積み重ねが必要ではないかと思うが……。
 翻訳の話だが、「糠に釘」等とすべきところが「立板に水」となっている。これは誤訳の問題ではない。どうしてこういうことをしてしまうのか、性格の問題なんだろうか。なぜか正反対の意味を書いてしまったり、まったく意味のちがう言葉を持ってきてしまったり、時には別の人名を書いてしまったり、そういうことを私はあまりにもしばしばやってしまうので、似たようなことをやっている人を見ると、あーあと思いながらも同情に耐えないのだ。きっと日常生活でも苦労しているなあと。落ち着きがないのでそうなるのだが、自分がそうだということを知っているものだから、自分のしてきたことすべてが不安になる。何度も確かめに戻る。すべてを確かめられないから、結局どこか抜ける。で、こうなる。
 この翻訳何千枚になるのだろう。いやたいへんなものでした。

ハワード・ターナー『図説科学で読むイスラム文化』(青土社)
 イスラム中世の数学・天文学・占星術・地理学・錬金術などについて概説したもの。もう少し交渉史的な側面があればもっとおもしけいと思う。たぶんそこまでやるのはたいへんなんだろうが、そろそろグローバルな形での文化史がもっと考えられていいはず。『未来の歴史』でもそういう視点が弱い。占星術は西洋の占いの本流となっていくので、当然イスラムのことも出てくるが、記述不足である。

1月の雑感。いつも同じことを言っているが、本が読めない。今月から来月半ばまでは『幻想文学』の編集の仕事が入るので読めないのに決まっているのだが、本が山になっているのを見ると憂鬱である。1月は例年事務関係の仕事があり、そのことで最低三日は時間を取られるのもきつい。おまけに27、28と山梨に帰ったら大雪で、雪掻きは二時間ばかりしただけだが(諦めた)、帰路が死にそうだった。高速が使えないので、一般道を行くのだが、雪が沢山残っているので速く走れない。たいへんに混む。朝の10時半に家を出て、浦和に着いたのが夜の7時半というありさまであり、一日つぶれてしまった。
 その車中でUTY(山梨放送)を聴いていると、お国言葉でしゃべろうという特集をしており、郡内の言葉ってやっぱりがさつだなあと痛感。聴きながらこういうふうに聞こえるわけよね、とつい笑ってしまう。東京弁もそうだが、せかせかした語尾のきつい言葉は他県の人には綺麗に聞こえないだろう。完全な方言をしゃべるのは無理だが、ある程度再現できるものにこの郡内の言葉と秩父地方の言葉がある。(東京弁は共通語と混ざってしまってかえって喋れない。神田あたりの友人たちと話す時には少し戻れるかも知れないが、彼らも皆今は地方住まいだから分からない。)秩父あたりではひだるいという言葉を使うが、方言の辞典など見ると、これは九州地方でも使われたりするもののようで、その間はどうなっているのか……というようなことを考え出すと夜も眠れない。方言の研究者には、出身地方から来る文体の差異(単語ではなく、一見共通語で書かれているようなものの中のてにをはの使い方の違いのような)という気の遠くなるようなことを調べている人もいるが、言葉というのはまったくもっておもしろく、魔物のようなものである。マスメディアによってなまりも危殆に瀕してはいるが、これが果してどうなっていくのかについては考える気力もない。