藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2001年10月


1日
マーガレット・アトウッド『寝盗る女』
(佐藤・中島訳・彩流社)
 死んだ女が生き返るという設定らしく、初めの方に葬儀の場面も出てくるし、これはファンタジーだろうと思って買ったら、ただの悪女小説だった。三人の個性豊かな女性が主人公で、その一人が神秘主義に凝っていて幻視をするという以外は、普通の小説であった。きわめて行動的で有能で自立したこの悪女のおかげで、ろくでもない男と別れられたのだと考えれば、彼女もまた三人の女たちの仲間だとも言える。一般小説として読ませるけれども、初期の例えば『食べられる女』のような痛みを感じさせるものは既にない。ヒロインが若い女性から中年女性になったように、アトウッド自身も齢を重ねたのだ。

久美沙織『ドラゴン・ファーム』3部作(ハヤカワ文庫JA)
 ドラゴンが馬の代りになっている世界、ドラゴンと強い絆で結ばれている青年が活躍する。ファンタジーにおいて命とも言える世界設定がありきたりで、文章表現もたいして出来ないのなら、ストーリーでカヴァーしよう。それもダメならせめてキャラクターで頑張れば良い。キャラ小説でも、ファンタジーなら良しとしよう、というぐらいには私はジャンル・ファンタジーが好きである。だが……。

川又千秋『反在士の指環』
(徳間デュアル文庫)
 ルイス・キャロルのアリス・ワールドにヒントを得て現実と妄想の境を突き崩そうとする、果敢な試みであったSF連作長編『反在士の鏡』の完結編――なのだが、書き下ろしのオチがあんまりだった。これはどうなるんだろう?! と結構長い間考え続けた読者としては、文句を言う権利があるだろう。川又さんが小説がうまくないのはわかっているけれども、しかしアイディアだけでも見せて欲しかった。

ボルヘス『序文つき序文集』(牛島・内田・久野訳・国書刊行会)
 ボルヘス・ファン向け。ボルヘスが言う通り、序文などは提灯記事以外のものではありようがないく(核心に触れすぎることも批判がましいことを言うのも許されない)、しかもボルヘスの書き振りだから、ボルヘスと感性のあう人間にしか納得できないような文章になっている。ボルヘス文学の一環としてファンは充分に楽しむことが出来るであろう。ガウチョものとか未訳のアルゼンチン文学が思ったよりも多く入っているので、私にはそういうものを読むのもきつかった。これを読んでも、結局、本文にはたどりつけないわけだから。

4日
峯島正行『評伝・SFの先駆者今日泊亜蘭』
(青蛙房)
 漫画サンデー、週刊小説などを創刊した編集者にして有楽出版元社長による評伝。今日泊が「漫画集団」の影の首魁であったことを知り、親しく付きあってきた著者が、好意を籠めて語っている。作品として傑出したものとは言えないが、こういうものは出しておくことに価値があるだろう。

ロナルド・シーゲル『パラノイアに憑かれた人々』
(小林等訳・草思社)
 精神分裂病ではないが、何かしらの固定的な妄想から逃れられず、幻覚、幻聴などに悩まされる人々の症例を紹介する。『幻覚脳の世界』の著者らしく、妄想に嬉々として付き合っているように見える(見えるだけなんだろうが)。またコカインがこうしたパラノイアを生み出しやすいことから、著者は関わったのだろう。内容はかなり悲劇的。

ブライアン・フラウド画・テリー・ジョーンズ文『ゴブリンの仲間たち』
(井辻朱美訳・東洋書林)
 ジム・ヘンソンの映画『魔王の迷宮』のラビリンスのゴブリンたちを紹介する。徹底したオフザケの本である。著者は映画で美術監督を務めた人。

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』(千野栄一・姫野悦子訳・集英社)
 絶滅収容所の司令官の元で道化師として飼われていた四人のユダヤ人を描く。

5日
ダナ・ハラウェイほか『サイボーグ・フェミニズム』
(巽孝之・小谷真理訳・水声社)
 SFフェミ評論の基本図書の一つ。増補版。

榎本真理子『イギリス小説のモンスターたち』(彩流社)
 『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』からアンジェラ・カーターを経て『ドリーム・マシン』まで、イギリス小説を論じる。フェミニズム寄りの評論を展開し、コリンズやマードックを取り上げるなど、興味の方向性には若干似たものがあるので、興味深く読んだ。ドラキュラなどの分析はあまりにもなされ過ぎていて、もういらないと思うが、『ドラキュラ』と『パラ・イヴ』の構造の相同性を指摘し、時代の無意識的な女性嫌悪を反映すると論じたのはおもしろかった。

レーモン・ルーセル『額の星・無数の太陽』(国分&新島訳・人文書院)
 なにゆえ戯曲なのか、上演する意味はどこにあるのか、まったくわからない。訳者はもっともらしくルーセルの「無垢・無自覚・ナイーヴ」が我々を震撼させると解説するけれども、無自覚な作品に日々接している私は震撼などしない。その時代、シュルレアリストとの交わり、その他の雰囲気の中でそれを保ちえたことが、というのであれば、それは確かに恐るべき自己中心性(揺らぐことのない鞏固な自我)と言えるけれども。こうしたあれこれの註釈抜きには理解しがたい作品であって、ということはシュルレアリスム関連オタク向け作品ということなろう。但し作品自体はシュルレアリスムとは何の関係もない、きわめてフェティッシュな(その点はほかのルーセル作品と同じく)作品であり、前者は入れ子的にものにまつわる恋愛物語が登場人物よって語られるというもの、後者は宝の場所を探して物から物へと連想の糸をたどっていくいう暗号物語である。どちらにも若いカップルが登場するが、「無数の太陽」においてのその必然性は私には分らない。戯曲になっているということはこれを演ずるということであって、実際演じられたようだが、さぞや退屈きわまりなかったろう。ある意味では観客をスポイルするような自己充足的な内容であり、特に前者にはその傾向が甚だしい。もしも小説で書かれていたなら、私にも今少し評価できたと思う。

アン・ルーエリン・バーストウ『魔女狩りという狂気』(黒川正剛訳・創元社)
 フェミニズムの視点から魔女狩りを検証する。いささか論展開が強引であること、よく史書を読んではいるが、分析に深みがもう一つないことなどの難点がある。たぶん絶対的な史料不足のため、因果関係の断定が難しいのであろう。もうしばらくして史料が整ったときにさらなる突き詰めた論を期待したい。

ジョスリン・ゴドウィン『音楽のエゾテリズム』(高尾謙史訳・工作舎)
 フランス[1750~1950]秘教的音楽の系譜。ライプニッツからヴロンスキー、バイイ、そして現代まで。いろいろと知らないことが書いてあるうえ、考えさせられることが多く、おもしろかった。

井上雅彦監修『人魚の血』(光文社カッパ・ノベルス)
 オリジナルと既製品混合のアンソロジー。オリジナルでおもしろかったのはまず菊地秀行。次に菅浩江。

6日
目取真俊『沖縄/草の声・根の意志』
(世織書房)
 1999年から2001年にかけてのエッセイ集。沖縄の現状、日本の政治状況への絶えざる怒りの書である。こんなに怒っているのに、どうしてこの人の小説はあんなにも甘っちょろい感じしか与えないのだろう。ファンタジーを書くときにそれは顕著で、黒々とした鋭いものがない。私とは同じ年齢で、返還前に生まれてはいるものの、結局文化はかなりの部分共有しているわけで、所詮それが私たち、ポテトチップス世代ということになるのかもしれない。「この八月に見た映画で良かったもの」の一つにゴミ映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を上げているところを見ると、もともと甘い感性の人なのかも知れないとは思うけれど。(

佐々木涼子『バレエの宇宙』(文春新書)
 バレリーナは奇形である、というのはある高名なバレリーナのせりふだが、非現実的とも言える形で肉体を使用し、現実を超えようとするのがバレエである。ロマンティック・バレエで偉大な古典と称される「ラ・シルフィード」がノディエ原作、『ジゼル』がゴーティエ台本で、精霊との恋をモティーフとしているところからも、バレエがいかに深く幻想文学と結びついているかということを示している。トゥシューズとは、精霊の表現なのである。近代以後の展開についても多言は無用だろう。つまりバレエとは現実を幻想と化す装置だったのだ。(

四方田犬彦『ソウルの風景』(岩波新書)
 ソウル滞在記。韓国とは何か的概括に著者の興味はない。国家的なアイデンティティはたやすく変わる。人々の意識も変容する。容易にくくれる韓国はない。たくさんの韓国の意識があり、日本の意識がある。それはすべて他者性を帯びている。そうした認識から始めなければ、と著者は言うのである。(

田中芳樹『バルト海の復讐』
(東京書籍)
 15世紀末を舞台にした冒険小説。ハンザ同盟についての講義を三日ほど聞き、一日で書いたみたいに見える作品。一般の人にはこれでいいのだろう、たぶん。(

黒岩重吾『闇からの声』
(文春)
 風俗嬢ものの短編集。パスもいいとこ。(

7日
鶴見俊輔『夢野久作と埴谷雄高』
(深夜叢書社)
 対談などを含む書き散らされたものの寄せ集め。鶴見さん(もう80歳なんだ!)の言うような文学史の書き換え、検証を誰が行っているのか?

五十殿(おむか)利治『日本のアヴァンギャルド芸術』(青土社)
 これはきわめておもしろい一冊。近代日本の文学・芸術運動は海彼との関連を抜きに語れないが、その検証を続けている著者によるエッセイ集。研究書としては軽いものなのだろうが、非常に勉強になる。柳瀬正夢、東郷青児、村山知義など、新興芸術派の美術家たちを取り上げ、時代の中でどう判断されるべきかということを念頭に彼らの活動を観ていく。久米民十郎という画家を私はまったく知らなかったが、神智学やスピリチュアリズムの影響を受け、レーテルスム(霊ethersm)なるわけのわからない主張を行ったらしい。本人は震災でなくなってしまい、絵も残っていないようだ。

12日
ラザフォード『ロンドン』
(鈴木主税・桃井緑美子訳・集英社)
 そこそこおもしろいが、二流のエンターテイメント小説で、とても一万も出して買うようなものではない。ロンドンを舞台にその歴史と絡めるように複数の家系を追って行くものだが、各話があまりにも短いのに長い年月を追っていて、物語として粗雑。人間を描くのが主でないのかと言えば、そうではなくて、ロンドンの歴史の影にこんな人生もあったというのが全体の話だから、都市としてのロンドンの魅力があるわけでもない。つまり物語の素のままなのだ、この作品は。だからこんなにも厚い二段組なのに、軽薄短小な物語としか思えない。個々の家系の設定はおもしろいので、自分でキャラクターを生きたものにして、物語をふくらましていく分にはまあ読めるのである。その点『ハリー・ポッター』に似ている。
 それにやはり外人の我々が喜ぶようなものではないのだ。イギリス好き、ロンドン・マニアは別にして。ウィティントンと商売を一緒にした青年が主人公と言われてピンと来ないだろう、普通の人は。ともあれ、こんなに高価でなければ、いいのだが。ここやはりアクロイドの『ロンドン』に期待をかけたいところだが、これまた『鉄鼠の檻』みたいに分厚い本で、果して翻訳されるだろうか。

 『幻想文学』62号の誌面づくりと原稿書きに追われていて、本がほとんど読めない。今月中はこんな調子が続く。

14日
 『ナボコフ短篇全集2』(作品社)
 去年出たものの、下巻。上巻の方がおもしろかった。既読のものが多かったせいもあるかもしれないが。長編のエスキスみたいなものや、よくできた私小説のごとき心象風小説などが多く、幻想系の作品は数少ない。

17日
竹内洋著『大学という病』
(中公叢書)
 昭和初期の東京帝国大学経済学部の派閥闘争や官との癒着を描いたノンフィクション。明治40年から二十年にわたって変わらないノートで講義をし、先輩の書き込み、「ここで咳をする」というところで本当に咳をする教授、一年のうちの半分以上が休講の講義など、昭和の始めから、しかも帝大であっても、腐っていたのだということが良く分る。大学がダメなのはもはや20世紀初めからで、現在とまったく同じような内容の改革が叫ばれている。だがこのころの学生はさすかがにエリートなので、自分で勉強をするし、すぐれた論客はその頃のしてきたジャーナリズムで良い仕事をし、学生はそういうものを読んで知識を吸収していたということも書かれている。今は大学生がいちばん校外学習をしないのだ。大学が十年一日のごとしと言っても、それをもって学生のバカなことが免罪されるわけではない。
 海外の研究を紹介するしか能がない教授を辛辣に批判して大学から放逐された江戸っ子・大森義太郎や、同僚教授の妻と不倫に燃える一方で(日記に彼女との密会の模様が残されている。ほんとにバカなやつ)、昭和教養主義を唱導した(戦後たいへんな勢いで彼の本が求められたということだ)河合栄治郎を始めとする教授連の物語は、あまりにもおもしろすぎる。大学神話は崩壊して久しいが、帝大(東大ではない)神話はいまだ残っていよう。それをも完膚無きまでに打ち崩してくれる。教師というのはその環境からして視野狭窄に陥りがちだから、きちんとした克己心がないとろくでもない人間に簡単になってしまうのだ。大森に無能と揶揄された教授たちも試験はよくできたのであって、ただのバカでないところが(その頃から「バカセ」という呼称もあったという)まったくもって無駄な感じである。
 学部長に誰がなるのならぬのと傷付けあい、果ては官におもねって「学の自立」どころの騒ぎではない。象牙の塔ならぬ蛙の住む井戸の中のごとき様相。人間って情けない生き物なのだ。
 なお、昭和初期はジャーナリズムが一般化した時期なので、稿料がべらぼうに高かったということがよくわかった。総合誌では、流行作家で10円、大学教授クラスで5円というべらぼうな数字。ちなみに高級官僚の月収は450円ぐらい。帝大卒一流企業のサラリーマン10年勤続で300円ぐらい。流行作家は50枚書けばお大尽暮らしなのだ!(これはマジなんだろうか?)もっともこんな期間は本当にバブルのごとくに短いのだけれど(すぐに戦争に突入してしまう)。(京)

18日
テリー・グッドカインド『魔道士の掟3』
(佐田千織訳・ハヤカワ文庫FT・660円)
 愛情は判断をくもらせる。愛情は無鉄砲さとかデタラメさにつながる。さらに人を苦しめる。と私は読んだ。

日高敏隆『ネコはとうしてわがままか』(法研)
 ネコはもともと単独生活者で、愛情関係が生じるのは母子間にだけ。それも母が子に愛情を注ぐという形だから、子猫が泣けば母は飛んで来るが、母ネコが鳴いても、子猫が飛んで来るわけではない、ネコは子で、飼い主は母。これでネコの行動パターンは説明できる。ほかにもタガメのメスの子殺しの話、カマキリの卵と積雪の話などがおもしろかった。(京)

19日
奥泉光『坊ちゃん忍者幕末見聞録』
(中央公論新社)
 漱石の『坊ちゃん』のパスティーシュで、忍者修業をした青年が幕末の京都で事件に巻き込まれるという話。ただの歴史ものかと思っていると、最後の方になって、なぜか時間を飛ぶ事態が起きてくるが、それはどうみても余計である。新聞小説(京)

杉本秀太郎『品定め』(展望社)
 文学芸術的教養の高い仏文学者による折々の記。庭の話、蝶の話、平家物語から美術批評、書評まで、雑多なものをまとめている。こういう書き振りはものすごく苦手。(京)

21日
「20世紀のイタリア美術」展を現代美術館に観に行った。江東区民祭りをやっていて、協賛企画とかで年寄りや子連れが沢山いる。子供にはまるっきりつまらないような美術展(美術史を理解してないとわけのわからない作品が多いうえに全体の質がけして高くない)をよくも我慢して観てるもんだと躾けの良さに感心してしまう。なるほど古典というのは充分に古くなったから古典として新鮮なのだということがよくわかる。70~100年前のものは既に古典として観ることが出来る。そして前衛は前衛なりに現代的でおもしろいが、近過去のものはダサい。私には50~70年代ぐらいの美術潮流がいちばんカッコ悪くて、しょーもないものに見えるのだ。こんなもの麗々しく美術館に飾るようなしろもんじゃないだろう、と思うが、大層な保険をかけて海彼から運んで来るのであろう。最後の展示作品が何とアニメだったのだが、とても1999年の作品とは思えない古めかしい演出(50年代を思わせる)。驚くほど退屈で、わけも分らないから(見る人が深読みするだけのもの)、ワンリール(どころかワンクール)見終わらないうちにみんな出て行ってしまう。あーあ。こういうのって、作っている本人だけが楽しそうなんだよね。ゴムの上に刺したピンを電動で動かすという大バカな作品があって、思わず楽しんだが、それにつけてもピンスクリーン・アニメが観たい。良いDVDが出ないかなあ。

31日
 『幻想文学』62号の製作を完了。疲れた……。おまけに風邪をひいてのどが痛い……。

10月の雑感
 『幻想文学』のための執筆やら製作やらで、本は何も読んでいない。古い本を読み返したりしただけ。11月は新刊を読みまくるので、御寛恕あれ。アニメも観に行くぞ!