藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2001年4月


3月25~31日
たむらしげる『ファンタスマゴリアデイズ』(メディア・ファクトリー)
 また買ってしまった。意志薄弱である。ロボットのランスロットと酒飲みの発明家フープ博士のファン タジー漫画。さまざまな亜人種が住む小惑星が舞台。この亜人種や惑星の奇妙な生態系がおもしろい。と はいえ、要するにいつもの調子で、絵もいまひとつ美しくなく、うーん。タイトルがいいので買ってし まった、それだけのことか。ランスロットは好きだ。昔からこのロボットは好きなのだ。ちょっといじら しすぎるけど。もうちょっと意地悪いことを言ってもいいと思うよ。
有馬哲夫『ディズニー千年王国の始まり』(NTT出版)(京)
 内紛で危機に陥ったディズニー・プロダクションズを立ち直らせ、ABCネットワーク、インフォシー ク巨大メディア企業にのし上げた現社長アイズナーのやり方を中心に、80年代後半以降のディズニー社を 描くドキュメンタリー。話半分で聞いておこう、という感じのノンフィクション。 ドリーム・ワークス の社長カッツェンバーグが、アイズナーにいびり出されたのだとは知らなかった。本書を読んでいると カッツェンバーグに同情的な気分にもなるが、しかしドリーム・ワークスのアニメは、同情すべきものと は言えない。アニメ制作の親玉だったカッツェンバーグを慕って、多くのスタッフが移籍したというが… …。アニメーションにおける技術的勝利は、人間の手仕事で決まる。それをどこまで重視するか、重視で きるか(金を費やせるか)、ということでアニメーションの質が決まる。ドリーム・ワークスは今後良い 仕事をするかもしれない。だが、まだディズニーの技術力には勝てないのだ。ストーリーとかキャラク ターもディズニー社を越せていない。もっと新しいものが必要だろう。
榊莫山『莫山夢幻』(世界文化社)(京)
 エッセイ集。書の良し悪しや芭蕉のことなどが書かれている。カリグラフィはよく分からない。
鹿島茂『文学は別解で行こう』(白水社)(京)
 著者は文化史の人だと思っていたが、『ブヴァールとペキュシェ』が修論だったのだそうで、仏文学者 なのだ。なのに文学の評論集はこれが初めてらしい。といっても三分の一は文学の話じゃない。マルク ス、ワーグナー、印象派の話などがあって、そちらの方がおもしろかったりする。本書の中では『八十日 間世界一周』は英ドル信用の話だというのがいちばん興味深く読めた。(私はこの話は最後の落ちだけが 重要な数学系の話だと思っていた。)著者はもともとユーモア作家であるらしく、ギャグ調の解読と語り に特徴があって、とにかく楽しくは読める。
佐藤淑子『イギリスのいい子日本のいい子』(中公新書)(京)
 自己主張と自己抑制をどうバランスを取って子供を育てていくか、という話。類型的に言うと、イギリ ス人は自己主張も自己抑制も強く、日本人は自己抑制が強く自己主張が弱い。アメリカ人は自己主張が強 く、自己抑制が弱くなる。社会文化的にそうなるように強いられる、ということだが、もちろん図式的な 話。どう子供を育てればバランスよい子供になるかの助けには全然ならない。 実際子育てをしてみて… …長男は自己抑制も自己主張も強く、現実対応型の大人びた少年であり、次男は自己抑制が強く自己主張 が苦手な一方で自我は発達しているので、結局現実との軋轢を避けて自分の世界に閉じこもるというタイ プ。社会的な要因でそうなったわけではないだろう、たぶん。家庭環境は大きい。だが、やたらに理屈っ ぽくて奇妙な母親の息子や、出来過ぎた兄を持つ弟に、なりたくてなるわけでもない。理解のある先生に 恵まれるということも自己主張・自己抑制という点では大事。まあなにごとも運次第というべきか。 スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』(雨沢泰訳・アーティストハウス)
 愛娘ナオミとベン・ストラウブ(ピーターの息子)のために書いたファンタジー。骨子は紋切り型。結 末があっけない。ナオミとベンが登場し、最後には結ばれるところも、語り手が顔を出すところも、趣味 には合わない。 これは出来過ぎの兄を持つ冴えない弟の不幸の物語でもあった。弟を主人公にした続編 を読んでみたい。 アニメ化の予定もあるとか。ディズニーを始めとするアメリカのアニメで映画化され たところが頭に浮かぶ。このイメージを裏切ってくれないと、とてつもなくつまらないものになりそう。
アナトール・フランス『ジョカストとやせ猫』(白水社)
 二編を収録。「ジョカスト」はミステリ・タッチだが、ミステリとして読むと失敗作。皮肉な運命譚と も読めるが、そうだとしても成功していない。「やせ猫」は呑気な遊学生活とラヴ・ロマンスを組み合わ せた青春小説。
アナトール・フランス『聖女クララの泉』(白水社)
 悪魔・精霊・異神などをめぐる短篇を収録。少し長めの「人間悲劇」がおもしろい。一種の失楽園のな ぞりとなっている。
アナトール・フランス『螺鈿の手箱』(白水社)
 「聖母の軽業師」ほか多数の小品を収録。霊界の恋人を得る「レスリー・ウッド」のような神秘ものと 革命期を描いた作品とが収録されている。フォーンと暮らす修道僧を描いた「アミクスとセレスタン」が よい。
アナトール・フランス『バルタザール』(白水社)  シバの女王との愛に幻滅したバルタザールを描く表題作ほかの短篇と、少し長めの妖精物語「アベイユ 姫」を収録。催眠術ものの「ピジョノー氏」が、一種の魔性の女ものではあるのだが、笑える。「リリト の娘」はリリトの娘が登場するが、魔性の女が善悪の彼岸にいるとされる点に興味を引かれる。 フラン スの女性観についてとやかく言っても仕方ないのだが、しかしやはりこうしたものはもはや歴史的に読む べきではないかという気もする。
M・H・ニコルソン『円環の破壊』(小黒和子訳・みすず書房)
 17世紀の詩の変遷を語り、時代の科学思想が文学に落とした影響について見ていく。数学がそのまま詩 として表現されているところに感慨を覚える。 二百年経てば、その時代の科学精神も奇妙に見える。今 では別の科学が佇立しているのだから。今の私たちもすぐにそうならないと誰が言えるか。 『2001』(早川書房)
 SFアンソロジー。おもしろいと思ったのは瀬名秀明「ハル」。人の動きを模倣するなめらかな動きの ロボットのイメージ。おそらくはCGのイメージ(モーション・キャプチャー)から来ている動きの模倣 という技術は、しかし機械にそれを実現させるとしたら、きわめて難しいものになるにちがいなく、どの ような技術的なハードルを越えることが必要になるのか、そこに考えられる技術革新というのは何か、と いうような際限のない、物語を離れたあさって方向への夢想を誘う。また、とても似ているものやなめら かなものが感じさせる漠たる嫌悪というのも実に良い観点。ほかには牧野修の物語の人形という奇想と野 阿梓の観念的なファンタジーが印象に残った。野阿梓の描く、無秩序が好きで、価値のあるものは何かと いう問い掛けを嫌悪する、という赤の女王の宿敵・ローズ・セラヴィ、シャンブロオの一族の女が素晴ら しいではないか。
ボルヘス&カサレス『ブストス・ドメックのクロニクル』(斎藤博士訳・国書刊行会)
 かつてラテンアメリカ叢書の一冊として出たものの再刊。装丁はきれいになったけれども、中身は一 緒。ボルヘスの中ではいちばん好きな、と言ってもいい短編集。町全体が芸術となったり、料理の色が芸 術となったり、完全に住めない建築が存在したりするばかばかしさ。同時にそれがある意味では現実化し てしまったというくだらなさを同時に味わえる。つまり今だからこそさらにおもしろくも悲しく読める 本。たいへんに高尚な解説が付されているので、それを参考にいくらでも深読みすればよい。
ローズマリー・サトクリフ『アーサー王と円卓の騎士』(山本史郎訳・原書房)
 マロリーの『アーサー王の死』を初めとしてアーサー王物語群のさまざまな作品をもとにして構成され るアーサー王物語。パーシヴァルが登場するところで終わるのだが、続編として『アーサー王と聖杯の物 語』『アーサー王最後の戦い』とがあるようだ。サトクリフはアーサー王物語の魔術性と神秘性を称揚し ているけれども、それは簡潔な文体で、神話的なエピソードを語っていくあたりに現れている。というか 表そうとしているように見える。しかしもともと歴史物語の書き手であるサトクリフは、いまひとつ煮え 切らない。神話的というほどまでにイメージが昇華されておらず、一方で、歴史物語の持つリアリティと か重厚さとかいったものにも欠けている。よくできた再話、ぐらいのインパクトしか読者に与えない。  ところで「ガウェインと世にもみにくい貴婦人」にはちょっと驚いた。もう少し詳しく調べたい。
斉藤洋『ジーク2 ゴルドニア戦記』(偕成社)
 金の目と銀の目を持つ混血王子のさらなる冒険。というか戦争参加記。ブラウニアの女王が正当な女王 を幽閉して、竜の玉の力を用いて竜を操り、ジルバニアを攻める。安直。
おのりえん『メメント・モーリ』(理論社)
 平凡な少女ほほ。彼女の家では専制君主的な建築家の父親が、非凡たることを家族に要請している。母 親はよくできた妻であり母であると同時に、画家という非凡な存在だった。しかしほほは「とろい」とい う自己認識があり、自分を家の中で無用の存在だと感じている。こんな家を出たいと願うほほは空飛ぶ鬼 にさらわれて別世界に入り込む。 これはなかなかよくできた話。ただ、平凡な少女が……というのはで きればやめてほしいものだ。冒険の終了後もほほは外面的には平凡なままで、帰っても父に愛されること はないだろう。結局、ほほは家を出るまでたいそう苦しい生活を強いられることになろう。自分をこの体 験によって支えながら。その苦労を思うと、ぞっとする。それだけによくできた物語とも言えるのだが。
マルク・レヴィ『夢でなければ』(藤本優子訳・早川書房)
 サンフランシスコが舞台。フランスとアメリカを行き来しながら建築家をやっているらしい男性作家の デビュー作。肉体的には意識不明の植物状態、しかし霊体は抜け出してある青年と接触ができ……という ような話。北村薫『リターン』を思わせるが、もっとサスペンスフルで、愛情にあふれ、感傷的かつある 種理想的で、ドリーム・ワークスによる映画化というのもうなずける。
ヴィクトル・ユゴー文学館・第一巻『詩集』(辻・稲垣・緒方訳・潮出版社)
 『諸世紀の伝説』ほかの詩集の代表的な詩を収録。ユゴーは降霊術に凝ったことで知られるが、その代 表的な詩である「闇の口」(抄訳)ほか宗教的な色彩の濃い『静観詩集』、歴史的視点に立った形而上学 的な詩「サテュロス」を含む『諸世紀の伝説』など、翻訳で読んでもおもしろく読めるものが含まれてい る。
怪異の民俗学『鬼』(小松和彦編・河出書房新社)
 馬場あき子、谷川健一などは言うに及ばず、池田昭とか深沢徹とかも単行本収録時に読んでいるのだ が、ろくに覚えていない。あまり興味がないのだろうな、きっと。鬼と楽器の関係を考察する稲垣泰一 「鬼と名楽器をめぐる伝承」は未読にて、興味深く読んだ。
ダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想』(山口泰司監訳・青土社)
 ダーウィンの進化論が決定的なパラダイムの転換(人類は自律的な進化の果てに現在ある、そこには機 械的なもの以外の何もない)を要請していることを力説、いまだに神秘的な作用をそこに認めようとする 科学者の態度に疑義を呈したうえで、進化論を全面的に肯定。S・J・グードルなどの欠点もあげつら い、ミームという考え方を援用して文化を論じようとする。要するにミーム論である。ミームは文化的な ものの一単位(遺伝子のような)で、それが人間の脳に一時的に宿って自己複製していくという考え方。 ロボットが人間と同じに見えたらそれは人間と同じだとか、つまらないことが書いてある。もちろんバリ トン・ベイリーのロボットものなどを思い出して、キリスト教文化圏は違うからなあとは思うものの、苦 労して読んでこの程度の説教では、割に合わない。おまけに人間には知り得ないことはない、という考え 方も出て来たりして、なんというか……パス。
パスカル・キニャール『シャンボールの階段』(高橋啓訳・早川書房)
 失われた秘密をめぐる怪奇幻想ミステリとあるけれども、この程度ではミステリという感じがしない。 ミニチュアを蒐集、その方面で売買で商売をしている、一種の骨董品屋であるブルジョワの主人公。女性 を本当には愛することができず、幼児的なミニチュアへの愛情におぼれている。だが彼は一つのバレッタ (髪留め)からある少女の幻影につきまとわれることになる。それは彼の胸をかきむしる。彼女は誰だろ うか。記憶は隠蔽されており、手がかりは見えない。だが……。どちらかと言えば恋愛小説。キニャール 作品の中ではあまりおもしろくないと思う。
石川弘義『マスタベーションの歴史』(作品社)
 マスタベーション論の古典である18世紀中葉の稀覯書、ティソの『オナニスム』に出会ったことから、 オナニスム論を展開する資料を集め出した著者は、それらに描かれるオナニスムにたいする観念をおもし ろく読み取り、それらを手際よくまとめて提出している。マスタベーションの歴史ではなく、マスタベー ション論の歴史である。 時代背景、つまりその時代の思潮とか宗教に関わる情報が極端に少なく、歴史 を標榜するものとしてはいささか食い足りない。ライヒをノーマライゼーションの進め手として見ている と著者は言うが、それならばそうした思想を育んだライヒ自身についてももう少し詳しく触れるべきでは ないかと思うし、またエレン・ホワイトのマスタベーション排撃の演説を引用して、19世紀後半の「キリ スト教関係者の見方をストレートに語った資料の一つ」と位置づけるのはどんなものかと思う。それが ヴィクトリアン・アメリカの宗教的状況を端的に表している可能性はあるにしても、平均的な意見とは見 なしがたいのではないか。なにしろ禁欲主義で高名な教団の説教師なのだから。あまりにもキリスト教的 なものを軽く見過ぎているのでは?
吉田武『虚数の情緒』(東海大学出版会)
 「中学生のための全方位独学法」と銘打たれているが、ごく簡単な整数論から始まって虚数を中間点と して数学の応用としての場の量子力学まで突っ走ってしまう本書は、とても中学生向けとは思えない。せ めて微積を習ってからではないと何を言っているのかわからなすぎると思う。つまり数式とか書かれてい ることはわかっても、それが表現しているものの意味をつかめないのではないか。ちなみに数学だけはよ くできる下の子に読ませようとしたが失敗した。単に数学はおもしろいと思わせるためなら別の方法があ るだろうし、本当に場の量子力学を伝えたいと思っているのならこれではダメだろう。
 虚数の情緒を感じて欲しいというのも無理な話だと思う。オイラーの公式は美しい、とかそんなことは 子供は絶対に考えない。もっとも数学者を目指すような子供向けなのだと考えれば話は通る。 数学者は 自分の感性が奇妙だなんていうことは考えたことがないのだろうか。小学生向けの算数の本にすら、この 公式は美しい、てなことが書いてあることがあるが、そんなことを考えるのはまったく特殊な人間だけで はないか。また、簡潔で揺るぎないものが美であるというドグマからも、そろそろ逃れてもよいのではな いかという気もしないではない。
 数学は近似的に物理現象を記述するけれども、実は目にはまったく見えない、計測不能なほど微量な、 しかし無数の要因の複合的な絡みあいの結果、たまたま今は近似的に表現されるだけであって、実は数学 の公式なんて物理現象(つまり現実)には全然使えないものなのだ、と考えたことは、きっと物理学者と か数学者はないんだろうな。いや、「うまくいく」という言い方をよくするところからみると、きっとそ ういうことも考えないではないのだろうが、そんなものは結局観念的なものに過ぎないと思うのだろう… …これは当たり前すぎた。
 数学はイデア界のもの。これを科学の最高位に置くという発想は、もともと宗教的だったりして?
ポール・セロー『ワールズ・エンド』(村上春樹訳・文藝春秋)
 旅、移住など、異郷にいる人々の、緊張感あふれる時間を描いた作品九つを収録。「文壇遊泳術」は異 郷にいるわけではないが、場違い、というテーマが含まれていて、これはある種のキーワードにもなって いよう。しかし全体にあまり興味は持てず。皮膚の中に卵を産み付けるハエ(皮膚下を蛆がはいずり回 る)にたかられた男の話「真っ白な嘘」は井上夢人の小説を思い出させた。グロい。
東雅夫編『陰陽師伝奇大全』(白泉社)
 岡野玲子の漫画、夢枕獏の戯曲から、三島、澁澤龍彦、花田清輝を経て辻井喬、小松、荒俣宏まで、陰 陽師的なものが出てくる作品を収録する。長尾豊「女に追ひかけられる」、郡虎彦「鐡輪」など、やけに マイナーな作品、しかも前者は陰陽師とはほとんど関係ないものが採られていたりするのは編者らしい。
ワーズワス&コールリッジ『抒情歌謡集』(宮下忠二訳・大修館書店)
 「老水夫の歌」などを含む世にも有名な詩集。ちょっとした勘違いで買ってしまったが、安く出ていた ものだから、よしとしよう。何と言っても「土牢」「囚人」でしょう。ワーズワスというのは理論派で、 ある意味でわかりやすいが、コールリッジというのは、まったく奇妙な暗鬱さを持っている人だ。私はそ れをゴシック的と感じる。しかしまあこんなものを読むためにこの一冊を買うのは、普通ならばからし い。
スティーヴン・ブルックス『夢のアンソロジー』(小川捷之・石井朝子訳・誠信書房)
 さまざまな文学・哲学書などから夢を集めたもの。決して有名どころを集めているわけではないが、か といってマイナーなものばかりかというとそういうわけでもない。ただ幻想的な視点というのは欠けてい るので、つまらない夢も多い。「誕生から死まで」「世の中のこと」「夢の世界」の三部に別れている。 アルテミドロス『夢判断』(2世紀)、アストラフィカス『夢判断』(4世紀)から多く採られている。ま たユングも多い。アナ・キングズフォード、サー・トマス・ブラウン、ド・クィンシー、コールリッジ、 ラスキン、サウジーあたりも目立つ。ほかにはクリスティーナ・ロセッティの詩が圧倒的におもしろい。 本全体としてはそんなにおもしろくはなく、こういうものを読むとボルヘスのユニークさがよくわかる。
キラン・デサイ『マサラ』(村松潔訳・新潮社)
 サンパトは生活していくことがいやでたまらない。郵便局勤務のあいだは他人の手紙を盗み読むことば かりしていた。だが、ある絵はがきに触発され、郵便局長の娘の婚礼で尻を丸出しにしたばかりにクビに なり、グアバの木の上に隠棲してしまう。そして通りかかる人に、彼らの秘密(手紙に書いてあった)を 語ったものだから、聖者に祭り上げられる。ねじの狂った母は特製料理を作り続け、偽聖者を暴く団体の エージェントはサンパトのわけのわからない言葉に毒され、サルたちはグアバ園でふざけ回る。不意にす べてが断ち切られる結末まで、とめどないばか騒ぎの続く、マジカル・リアリズム風の小説。
イワン・シマトゥパン『渇き』(柏村彰夫訳・めこん)
 男は歴史学を学ぶが、ゲリラとなり、その後「移住者」となる。開拓をして暮らすのである。だが、あ まりにも乾期が長く続くために生活は破綻する。そして男は、見捨てられた村にただ一人残って際限なく 井戸を掘り続けるが……。 とにかく偏執狂的に前へ前へ、あるいは別の場所へと移動しようとする男の 物語である。死にそうになっても何かにからめ捕られることを避けて自由でいようとする。奇妙な男の独 り相撲的な戦い。だが雨は降らず、男の友は一人ずつ死んでいき、しかし男だけは助けられて生き残り、 最後には町の建設へと向かう。これは男の友情と、死をもこえる本質的な情動を描いている。ユニークな 文章で、奇異な世界が描かれ、一種の寓話ともなっている。
4月2日
ボルヘス『無限の言語』(旦敬介訳・国書刊行会)
 『審問』『わが期待の根拠』『アルゼンチン人の言語』の三冊の初期評論集から19篇を選んだもの。初 期の評論について、ボルヘスは否定的な見解を示しているが、なるほど『続審問』などに比べると今一つ の感は拭えない。しかしみごとにボルヘスではあり、またポストモダンでもある。ボルヘス自身が20代で あり、年代も1920年代ということを考えると、そのことだけで実に凄いことだということが分かる。ただ し歴史的に見て、またボルヘス研究的に見て凄いからといって、そのものがおもしろいということにはな らない。やはりボルヘス・ファンにお薦めの一冊ということになろうか。
3日
ロバート・パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(栗木さつき訳・主婦の友社)(京)
 なぜだまされるのか? 社会性の高さゆえに私たちは信じやすい脳を持っているから、というのが答 え。もちろん本書の眼目はなぜ騙されるのかにはなく、こんなものにも騙される! というような告発の 書だ。ホメオパシー、ビタミンO、超越瞑想、健康に効く磁力、永久機関を謳うエネルギー・マシーンか ら有人宇宙ステーション計画・常温核融合までが槍玉に上がる。おもしろくはあるのだが、絶対お薦めと いうほど出来の良い本ではない。たくさんの連載の中から選ばれたというわりには、話題が重複している し、温暖化についての歯切れの悪さの一方で、TMに対する揶揄のところでは、いささか非科学的な態度も 見られるといった具合。こうした本が攻撃的な態度であることは、信用性を失わせるもとだと思うので、 そういう点でもあまり感心しないが、著者としては攻撃というより、ユーモアのつもりなのかもしれな い。エネルギー・マシーンの話は聞いたことがなく、おもしろかった。
ジャック・ザイプス『おとぎ話の社会史』(鈴木晶訳・新曜社)
 名のみ高かったフェアリー・テイルの社会的分析の書の邦訳。思っていたよりも物足りなかったのは、 あまりにも邦訳が遅きに失し、本作の影響を受けたようなメルヘン論をたくさん読んでしまったからだろ う。共感するところもあれば意見を異にするところもあるが、物語におけるステレオタイプとそれの果た す社会的役割など、問題意識を共有しているため、ともかくも興味深く読んだ。フェミニズム、言説によ る支配などに興味のある人には基本図書の一つと言っても良いような一冊。
アポストロス・ドキアディス『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』(酒井武志訳・早川書房)
 数学者が主人公の魅力ある小説がないものかと思っていたら、なんと、数学者が主人公の小説が翻訳さ れた。これはしかし「魅力ある」とは言えないような気がする。ゴルドバッハの予想に取り憑かれたペト ロスは、他者に手柄を奪われないために汲々とし、袋小路に入り込む。小説だかノンフィクションだか、 似たような話を読んだことがあるような気がするのだが、この閉鎖的で、名誉心ばかりが先行する狂的な 数学者は、数学の魅力を読者に伝えないし、同時に人間としてのおもしろみも伝えないように思うから。  ペトロスが一方的にライヴァル視する薄幸の天才ラマヌジャンをその内面も含めて小説化したらどんなも のになるだろうと、思う。私が考えているのは、ジョン・バンヴィルの天文学者三部作のようなものだ。 もう少し深みのある、あるいは複雑で意外性のある人間像が、数学者を通して描かれたら……。
6日
アネット・カーティス・クラウス『銀のキス』(柳田利枝訳・徳間書店)
 吸血鬼もの。もうすぐ17歳の少女のラヴ・ロマンスでもある。あれこれ考えがちの、いわば感受性の豊 かな少女が、身近に生じた死を通して、吸血鬼の青年と惹かれあうというヤング・アダルトもの。精神的 に幼い人向け。
荻原秀三郎『神樹』(小学館)
 諏訪の御柱を始めとする、神のよりましとしての神樹をめぐる民俗学書。カラー図版多数。内容的には いささか専門的であり、宇宙樹をめぐる神話・習俗を扱ったものとして括ることは出来るのだが、全体と してのまとまりが今一つなので一般の読者にお薦めしたい本ではない。
『ダニエル・キイスの世界』(ハヤカワ・ダニエル・キイス文庫)
 来日講演記録、ヒッキーとの対談、作家たちのエッセイ・評論、作品紹介などで構成されたキイス読 本。おもしろかったのは巽孝之の評論。多重人格には個人的には興味なし。
7日 ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(雨沢泰訳・NHK出版)
 突然世界が白くなる、という病に侵された人々を描く寓話的な作品。とてもおもしろかった。bk1
クリストファー・プリースト『イグジステンズ』(柳下毅一郎訳・竹書房文庫)
 クローネンバーグのSFホラー映画のノヴェライゼーション。脊髄にポートを作って体感ゲーム機を ジャックインさせると完全なVR空間でのロールプレイが楽しめるという設定で、ゲームデザイナーをヒ ロインに不気味な世界が展開していく。映画としてはSFXによる不気味なオブジェを楽しむ、というだ けのもので、ほとんど捻りのない結末。ノヴェライゼーションというのは、まあそれだけのものだから。
デイヴィッド・ゴードン・ホワイト『犬人怪物の神話』(金利光訳・工作舎)
 ドッグマン伝承に関する著作。インド神話とアウト・カーストを主題とする専門的な神話研究。タイト ルからはもっと一般向けの、ドッグマン伝承のルーツや関係性、その心理学的な、また歴史的な意味を分 かりやすく示す書物かと思ったのだが、そうではなかった。そうしたテーマは語られてはいるが、それは メインではなく、詳細なインド神話・中国神話の読み込みに真骨頂がある。
8日 エンツェンスベルガー『ロバートは歴史の天使』(丘沢静也訳・晶文社)
 ベストセラー『数の悪魔』の著者による物語。ぼーっとしやすい少年が、何らかの画面に見入ること で、その描かれている世界に入り込んでしまうというもの。歴史を遡って、いろいろな階層の少女たち や、自分の曽祖父母に会ったり、親友と瓜二つの盗賊や偉大な数学者に巡り合ったりする。あまりおもし ろくはなく、何がテーマなのかもよくわからない。
ブライアン・ラムレイ『タイタス・クロウの事件簿』(夏来健次訳・創元推理文庫)
 オカルト・ハンター=タイタス・クロウ(とその近辺の人々)の活躍を描く短篇を集めたもの。クトゥ ルー神話を背景にちらつかせ、「凶々しい」を連発。おもしろいものもあるが、一流の作品とは言えず。

9日

怪異の民俗学『幽霊』(河出書房新社)  近世を中心に幽霊に関する論考を収録。
東野圭吾『片想い』(文藝春秋)
 女であることに違和感を覚える美月は、男性ホルモンを投与しつつ、男性風に生きていたが、人を殺し てしまう。自首しようという彼女を、アメフト部のかつての仲間である女性(主人公の妻)が押しとどめ る。受刑者になったら男ではいられなくなる、それでいいのか? と。何ともわからない理屈である。そ して……。
 トランス・セクシュアルがテーマになっていて、それに関わる秘密がミステリを解く鍵にもなっている という、異色作。主人公は一見いい男だが、非常に自己本位で、性差のことを扱う局面では彼は「分から ない男」として軽蔑される。だが、彼の視点で展開する以上、彼をある程度魅力的で自覚的な人物に仕立 てる必要があり、そのために友情だのなんだのを持ちだし、何となく最後にはいい男に見せようとする。 結局作品として首尾一貫した印象を与えない。主人公の妻の言動もよくわからない。なぜさっさと離婚し ないのか? 作者が性差のことを勉強したために、普通の男はそれだけで批判されるのだということを認 識しており、しかし一方で作者自身が普通の男なので、視点としては主人公に添わざるを得ず、というよ うな矛盾から、このようなやたらにばらけた印象の作品となったのではないだろうか。 東野圭吾の小説 は好きになれないものが多い。『秘密』は比較的読めたが、それ以外のラヴ・ロマンス系、SF系の作品 はまったくつまらない。この作家の手にかかると、ヒロインが「浅薄で厭な女」にしか見えないのでうん ざりするし、ファンタスティックな設定がメッセージを発するための装置以外のものに見えないために白 けてしまう。ちなみに本書は、真性半陰陽が登場するが、ファンタジーではない。

10日 玉置彰宏・浜田淳司『IT文明論』(平凡社新書)(京)
 IT全面肯定派による近未来予測。予測自身はごく自然なものだが、この楽天的な考え方を見ている と、電気がなくなったらどうするのか、と考えることはないんだろうか、と思ってしまう。
クリス・ミード『フクロウの不思議な生活』(斎藤慎一郎訳・晶文社)(京)
 フクロウの概説書。フクロウ類の総合的な特徴、餌の捕獲、営巣、子育て、寿命、病気から、傷ついた 鳥の応急手当や自然への返し方、巣の作り方までかゆいところに手の届くような書き振り。さすがに自然 保護の先進国として名高いイギリス。ガイ・トラウトンのフクロウ画がきれいで楽しい。

11日
ロバート・ジョーダン『竜魔大戦』7・8(斉藤伯好訳・ハヤカワ文庫FT)
 第四部完結。まるで牛歩戦術みたい。ペリンとトゥー・リバーズの物語は一応完結。アル=ソアとアイー ル人との関係に決着がつき、ナイニーヴたちの探索は一応の成功を見せる。みんな疲れ果てているが、ほ とんど話がすすんどらんではないか。何より悪いのは、同じフレーズが多すぎることで、これだけの時を 経ながら精神的な発展もなんら見られない点だ。「頑固」という言葉ですべてが説明付くとでもいうよう に、主人公たちの性質は変わらず、行動パターンも同じ。話がそう長くはないのなら許せるようなことだ が、あまりに長すぎる。

12日
ジュリア・クリステヴァ&カトリーヌ・クレマン『〈母〉の根源を求めて』(永田共子訳・光芒社)
 タイトルに騙されてはいけない。〈母〉としてのクリステヴァやクレマンが前面に出ていることは確か で、それはそれで不気味でおもしろいが、むしろ女性性と聖なるもの、そして宗教的なものを巡っての対 話である。往復書簡という、メールではない古典的な形式が、すれ違いを生み、険悪な雰囲気を醸し出 す。そしてそれをいささか自己弁護的に回収していくという一連のプロセスが、きわめて卑近な人間性を 見せる。だが、こんなことは日常レヴェルで誰しもやっていることであり、それをおもしろがるだけでは どうしようもない。聖なるものと宗教の違いなどについては、論としては感性的なもの流れてしまう傾向 がある。ただ、フェミニズムにおける宗教的な背景の大きさについてはとにもかくにも感じるところが あった。

14日
横田忍『赤ん坊殺しのドイツ文学』(三修社)
 ドイツのシュトルム・ウント・ドラング時代に、嬰児殺しの母親の残酷な刑罰に異議を唱える側面を持 つ社会派の赤ん坊殺し文学が書かれた。典型を作り上げたビュルガー「タウゼンハインの牧師の娘」をは じめとする主たる作品を紹介(前掲作などバラッドになっているものなどは全訳に近いものもある)し、 解説する。「少年の魔法の角笛」の民謡からシラー、ゲーテ(『ファウスト』)、ブレヒトにまでいた る。大道歌芸人によるベンケルザングの影響のあることが興味深かった。同時にその特異性(まじめな社 会性)をきわただたせるために、世界の赤ん坊殺しの文学を瞥見していく。その掉尾を飾るのが日本文学 で、「ぼっけえ、きょうてえ」である。嬰児殺しという根源的な恐怖に訴えかける作品と見るところは、 たぶんホラー読者にはない新鮮な感覚か。水子ホラーなぞありふれすぎていて、それがインパクトをもつ とは考えにくいので。日本には間引き文学ならたくさんありそうだ。例えばその背景がなければあり得な い『ユタと不思議ななかまたち』など。
 なお先行する評論があるらしいが未読なので、評価すべきところを間違っているかもしれない。ともあ れ、初めてこういうコンセプトのものを読んだのでおもしろかった。

海野弘『癒しとカルトの大地』(グリーンアロー出版社)
 《カリフォルニア・オデッセイ》の第四巻。このシリーズのほかの作品を読んでいないので、どういう 立場の本なのか疑問に思った。オルタナティヴ・アメリカを描こうとしているということはわかるが、海 野弘自身はこの霊的カリフォルニアをどう見ているのか、いまひとつ判然としないのだ。オカルト的なも のに熱狂するカリフォルニアのエピソードを羅列するだけで、その検証、もしくはその理解となるための 事実関係などをきちんと書かないと、こうした本はいたずらなオカルト肯定になりかねない。オカルティ ズムを扱う本で、たまたま関連書を連続的に入手できたからといって、お導き……めいたことを書くの は、ギャグのつもりかも知れないが、笑えない。

15日
スティーヴン・オズメント『市長の娘』(庄司宏子訳・白水社)
 16世紀前半のドイツ、貴族に対抗する市民勢力を担うハル市長ヘルマン・ビュシュラーは、奇妙な姿で 皇帝に直訴し、歴史に名を遺した人物である。その長女アナは堕落した喧嘩好きの娘として不名誉な覚え 方をされているが、真実はちがったのではないかと見る歴史書。裁判記録、恋文、当時の社会状況 からアナの半生を再構築するミクロ・ヒストリーである。宗教改革と魔女裁判の時代に、アナのような生 き方はどんなにかストレスのたまるものだったろうかと思う。思ったほどにおしもしろくはなかったが、 当時の理性、合理精神、規範について、考えさせられた。遺産をめぐる争い、政治家が司法と結託したと き、市民の権利がどのように踏みにじられるか、など、現代とどう変わるというのか。

16日
私市保彦『フランスの子供の本』(白水社)
 フランス児童文学の概説書。伝承文学の中でも子供に喜ばれそうな「狐物語」などから説き起こし、妖 精物語、ジョルジュ・サンドの読物やノディエの子供向けファンタジー、トゥルニエ、ユルスナール、ボ スコなど現代の文豪による児童文学からダニエル・ペナックの作品までが取り上げられる。さらに、青春 文学についても別立てで概観している。取り上げられる作品数が圧倒的。にもかかわらず、アナトール・ フランスの「少年少女」やその他の妖精物語がなく、レオポルド・ショヴォーの『ルノー君のお話集』、 プレヴェールの絵本や物語がないのはどうしたわけか。まさかアナトール・フランスの作品を知らないな どということはあり得まい。同じ白水社から出ている本もあるのだから。まったくどうしてだろうか。

物集高音『冥都七事件』(祥伝社)
 早稲田の学生崩れの雑文書きを狂言廻しに、ご隠居然とした大家が怪事件の謎を解く。天狗礫と池袋の 女、夜泣き石、花魁消失、河童のごとき妖童、お化け電車など、いかにも怪奇党的な題材を求めている。 達者な書き振り、怪を怪のままにとどめるものもあるあたりは、いい。幕切れも予想されたものながら、 堂に入った結句。しかしミステリとしては苦しいのではないか。

17日
ユルク・シュヒーガー『世界がまだ若かったころ』(ロートラウト・ズザンネ・ベルナー絵・松島富 美代訳・ほるぷ出版)
 一見寓話風の、実はメタノベルに近いファンタジー短篇集。こういうのは好き。bk1

ディック・キング=スミス『ゴッドハンガーの森』(金原瑞人訳・講談社)
 神の森(ゴッドハンガー)にスカイマスターと呼ばれて畏敬される鳥がいた。その偉大な鳥と森の動物 たち、そして動物の残忍な殺戮者である森番の物語である。スカイマスターが登場するとすぐ彼がイエス の分身であることがすぐわかる。スカイマスターが「今日はある者のために、また明日はほかの者のため に、そしていつかは、森のすべての生き物のために」命をかけようと語るとき、そのような神がいてくれ るのであればと思っている自分に気づく。物語はこの後、ますますスカイマスター=イエスとなり、三博士 の礼拝(出生時の思い出話)、十二使徒、磔、復活という具合に進んでいく。悪(森番)は打ち倒される が、その悪は人間悪そのものでもある。悲しい物語だ。森は守られるけれども、それは束の間だろう。人 間は森を穢し、再び神を屠るだろう。

ヨアンナ・ルドニャンスカ『パパは異星人』(田村和子訳・未知谷)
 母と主人公の二人暮らしの家庭に、ある日宇宙船をベランダに横付けにし、異星人がやって来た……。 夢とも現実ともつかない不思議な感覚がこの小説にはある。主人公の少女は少年に間違えられるし、のん べの星好きは偉大な天文学者と言われている。いったい何が現実なのだろうか。あるいはすべては自分の 夢想や幻覚なのか。主人公はさして悩まないのだが、読者はこの物語は何だろうと思う。実に奇妙な作品 だ。父親との関係が描かれているところは『竜の年』にも似るが、こちらの方が理解しやすく、物語とし ても読みやすい。ただし怪物を倒すということに関わる著者の象徴的手法は、いささか陳腐であると感じ る。

堀切和雅『「ゼロ成長」幸福論』(角川oneテーマ21)(京)
 消費生活からおさらばしよう。人生にはもっと豊かな生き方があるはず。コマーシャルは見ないよう に! だって。(コピーライターの範国くんがどんな意見を持つか聞いてみたいね。)友人知人などに話 を聞くという軽い体裁になっていて、年収二百万の建築家や穂村弘が登場する。著者は岩波書店に勤めつ つ劇団を主宰していたそうだ。

18日
ポール室山『ワシントン政治を見る眼』(中公叢書)(京)
 日本のメディアは合衆国の新聞を引き写しているところが多いので、合衆国が間違えばそのまま間違っ てしまう。またあちらのメディアには明らかな党派性がある(日本の比ではない)。従ってそこをよく見 きわめて米国新聞のコラムなどを読もう。ユダヤ人のコラムニストは説得力があるので騙されないように しよう――って、差別じゃないの? まあいいんだけど。読者対象は外交に携われるような官僚と大手の ジャーナリスト。
怪奇探偵小説傑作選3『久生十蘭集~ハムレット』(ちくま文庫)
 日下三蔵編。「推理小説系統の作品に対象を絞った作品集」と言い、「推理小説、怪奇小説、冒険小説 の代表的傑作を一巻にまとめるというコンセプトで編集した」と言う。日下さんの推理系には怪奇・冒険 が含まれるわけか。昔の〈探偵小説〉の意味で推理小説を使っているのかもしれない。代表作を収めたと いうだけあって、高名な作品が読める。私はどちらかと言えば「黄金遁走曲」系列の話の方が好きだが、 このコンセプトからははずれるのか長すぎるのか。30歳ぐらいまでの怪奇&ミステリ愛好者ならば、まず 読んでいるだろう作家・作品だから、読んだことのない若い人におすすめ。若い人におもしろいのだろう か、とは思うけれど。「ハムレット」は今回読み返してピランデルロの戯曲を思い出したけれど、十蘭は 暗い。この小説集に収められた作品の、どれも計ったような暗さであることよ。滑稽味すらも陰鬱さに加 担するかのようだ。
夢羽『時の鎮魂歌』(文芸社)
 これは自費出版の本なのか? ダイナフォントで本文を打つのはやめて欲しい。書体を変えるのにもも う少し工夫をしろ。とにかく読みにくくて仕方がない。 考古学者のチームが禁断の遺跡に入り込んで恐 ろしい目に遭う、という話。こう要約すると身も蓋もない内容なので、前段がかなり長く、そこで全体に 説得力を持たせようとしている。それはある程度成功しているのだが、しかし、人付き合いの初歩の初歩 も知らずに二十歳過ぎまで来た自己中心的なしょうもない男が、どうしてこの主人公のように変われたの かが分からないため、その点で評価が下がってしまう。しかも後段はその男がミノタウロスと対決して やっと新しい生き方を手に入れる、という展開になり、全体として主人公像がうまくとらえられない。地 獄でのばかげた騒ぎの夢はおもしろかったが。
ソルト著『ヘンリー・ソローの暮らし』(山口晃訳・風行社)(京)
 ソローの古典的な評伝。

19日
重松清『口笛吹いて』(文藝春秋)(京)
 短篇集。〈勝ち組・負け組〉がモチーフ。そんなの一面的な見方だよ、というのがテーマだろうが、こ ういうものをリアルに見せたいのならば、やはり日常的リアルさが欲しい。高一の娘を語り手にした話な ど、設定に切実さがまるでなし。都市銀30年勤続男性の年収を考えてみよ。 ところで、『銀のキス』も そうだったが、16歳にもなって父親にこだわる娘というのが理解不能である。重松のは男が書いているか らただの幻想だと言いきってしまえるが、『銀のキス』の作者は女性だったし。理想の父、すばらしかっ た父の幻影があると、このように思うものなのだろうか。経験がないのでわからない。それとも父は神の アナロジーだと思えば良いのか? それはそれで堪え難いしなあ。
平山壽三郎『女人しぐれ』(講談社)(京)
 『美人伝』の長谷川時雨と『雪乃丞変化』の三上於菟吉の夫婦生活を描いた小説。遊び人で有名だった 於菟吉がこんなに殊勝だったのか、姉さん女房の時雨はこんなに鷹揚だったのか、嘘臭いと思ってしまう が、その道の研究家でもなし、文句の言える筋合いでもない。ここに描かれた作家群像はおもしろい。  昔の大衆作家は現代の漫画家だったのだなと思う。過労で多産で早死にする。石ノ森章太郎が亡くなった という報道があり。『ジュン』の遥かに遠い幻。

24日
エンツェンスベルガー編『「愛」の悪魔』(川西芙沙訳・晶文社)
 『ゴッケル物語』などで知られるロマン派の詩人クレルンス・ブレンターノは29歳のとき、16歳の少女 アウグステと駆け落ちした、のだそうだ。本書を読むまで知らなかった。それは19世紀初めのドイツでは 相当なスキャンダルであったらしい。本書はこの顛末に関わった人々(クレメンスの妹のベッティーナ、 親友のアヒム・フォン・アルニム、法律的な相談に乗った若きグリム兄弟、クレメンスの妹グンダと結婚 した法学者ザヴィニーなど)の書簡で構成されている。資料に語らせよう、という手法をエンツェンスベ ルガーは取ったのであり、それは、本当のところはわからない、という印象を読者に与えるだろう。クレ メンスの伝記上では、アウグステは我儘で突飛で自由奔放でそして「厭な女」となっており、クレメンス の周囲の人間は確かにそう見ているが、果してどうだったのか、と思わせる。少なくとも、アウグステは 16、7とは思えないほどしっかりした女性で、ヒステリックだったとはしても熱狂的にクレメンスを愛し ており、一方、クレメンスが男性としてはかなりの程度魅力に欠ける(愚痴っぽくて現実対応能力に欠 け、吝い)ということはわかる。アルニムとベッティーナ・ブレンターノは当時まだ結婚していないが、 この二人のあいだでやりとりされた書簡の幸福さに比べると、クレメンスとアウグステはの手紙は不幸で あったとしかいいようがない。また不思議なのは、アウグステが上流のブルジョワ階級なのに、やたらに 金銭的束縛を受けているように見える点だ。エンツェンスベルガーは「後見」という形で「脅し取られて いた」と言っているが、この点については、フェミニズムの歴史家の立場ならおもしろいことが言えるに ちがいない。
 原題は「あるロマンティックな女性への鎮魂歌」。アウグステはロマン派詩人たちよりよほどロマン ティシストであったとする編者の立場を示している。邦題はアウグステがクレメンスに「おまえの中に悪 魔がいる」と罵られたこと、その悪魔を愛の悪魔としてアウグステがとらえたことによるが、同じエン ツェンスベルガーの『数の悪魔』がベストセラーになったことをあてこんでのタイトル付けからまず発想 されたものに違いなく、編集者には悪いが、その感覚はダサすぎる、と言いたい。

26日
 『伝奇M(モンストルム)』という東が企画した雑誌のために、〈伝奇純文学ベスト50〉という原稿を 書かねばならず、そのためにさまざまな本を読み返している。東は〈伝奇〉のもともとの意味(彼はそれ を怪奇幻想文学と捉える)に還るのだ! と言いつつ、しかもなおかついわゆる伝奇的ということを考慮 せよ、という。あまりにいい加減である。こんな指示に従っておれるか。だいたい〈伝奇〉のもとの意味 は、怪奇幻想小説でも何でもなく、ただの小説の意味だろう。中国では小説は稗史から出ているとされる ので、〈伝奇〉には巷間に流布している異事奇聞を物語の体になしたというニュアンスがあるのではなか ろうか。ともあれ、言葉は時代に連れて変化する。江戸時代の伝奇には不思議な話という感じがあったか も知れないが、明治期にはロマンの訳語として伝奇があてられたという。だから伝奇小説、伝奇ロマンと いうのは奇妙な言葉なのだとも言えよう。現代の辞書では「伝奇」を「空想的夢幻的な話」としているも のもある。しかし一般にこの意味で伝奇という言葉を使うだろうか? 今、〈伝奇〉にはどんな意味が持 たされているだろう。私がイメージするのは、国枝史郎にしろ半村良にしろ、荒唐無稽な歴史小説であ る。その歴史が現代にまで連なって何かしら物語を展開させているとしたら、それもまた伝奇である、と 感じる。つまり、〈伝奇〉というのは、今なお中国語的なニュアンスを響かせた言葉であって、どこかし らに空想的な巷説・史伝といった意味あいを持っているものではないだろうか。一般の人の意見も聞いて みんと思い、谷澤くんに聞いたら、伝奇には興味ないけど、国枝史郎とか、純文学なら花田清輝とか澁澤 龍彦かな……という、安心するような答え。これで突っ走ろう。「それにしても」と谷澤くんに言われ た。「どうしていちいち細かく定義してからガイドにかかるのか?」。それはですね、茫洋としてまとま りなくなってしまうのを防ぐためです。例えば今回のお題の純文学(この言葉も茫洋としていて大嫌い) にしても、〈怪奇幻想小説〉なんていう意味に〈伝奇〉を捉えてベスト50を挙げるとしたら……まったく 別の視点を導入して別のセレクトになる。どんな切り口も可能で、そしてそれに応えるだけの知識もある わけだから、ある程度きちんと定義づけをしておいてからでないと、作品すら選べなくなってしまうとい う可能性もある。だからそうするのです。根性がせせこましいというのもある。つまり……こうした定義 で選んだのだから文句つけるな、とあらかじめ言っておくということ。
 というわけで、その線に沿って本を選んで読み返したりしているが、例えば『露伴全集』のどれどれか らこれこれを拾い読みし……などとやるのはあまりにも煩雑なので、読んだが落とした、というものだけ を挙げていく。本文に興味のある方は『伝奇M』を見て下さい。そこで挙げている作品は、ここ数年の作 品を除いてすべて読み返している。6/6発売だそうだ。
伊藤整「街と村」(新潮社版全集)  それぞれ「幽鬼の街」「幽鬼の村」と言う。夢を描いた小説に近いような感じで、小樽と生れた村それ ぞれで死んだ人々の霊、過去の幻影に出あうというもの。「村」の方はもうちょっと土俗的な感じだった と思ったが、勘違いで普通の幻想小説だった。夢文学の好きな人にはお勧めできるか。しかし今、何で読 めるのだ? 昔はみんな新潮文庫に入っていたものだが。
塚本邦雄「荊冠伝説」「獅子流離譚」(ゆまに書房版全集)
 前者はイエスの、後者はダ・ヴィンチの伝記だからと思ったけど、やっぱりこれを入れるのは無理だね。 高城修三『糺の森』
 これは全然ちがった。タイトルからして「榧の木祭り」みたいな作品かと思ったのだが、普通の小説。
三枝和子『鬼どもの夜は深い』
 鏡花賞を受賞した作品なれど、土俗的というほどでもない。むしろ情念的。

27日
中上健次『千年の愉楽』
 『千年の愉楽』はピカレスク・ロマンではある。あまり伝奇という感じはしないのだ。
タマーシ・アーロンほか『トランシルヴァニアの仲間』(岩崎悦子編訳・恒文社)
 19人の作家による19篇を収録した短篇集。ファンタジーではないが、象徴的・寓話的な作品を多く含む。  「人間のなかの野獣」は絞めようとした鶏の目を見て我が身に引き寄せた兵士が鶏を放免するという 話。それで先日見たアニメ「チキンラン」(ドリームワークス)を思い出した。  アードマンのクレイ・アニメの長篇で、養鶏場の雌鶏が大脱走する話。雌鶏のようなと言えば、愚かで 何の考えもない、ということになるが、この雌鶏たちは人間同様に考える。そして人間の鼻を明かして脱 走に成功する(当然のことながら)。この映画は、どうしても自分たちは鶏を食うということを思い出さ せる(私は菜食主義者ではない。雌鶏を飼い、卵を採っていたことだってある)。ただのお話として、鶏 のヒロインに感情移入して見るのが難しいのだ。かといって哲学的に見られるほどのものではない。展開 は、飛べるという触れ込みのアメリカ雄鶏がやってきて(イギリスの話なのだ)、というあまりにもパ ターン化されたもの。だからこそ鶏という異化作用が必要だったのだ、と言われれば、それはそれで頷く よりないのだが。結局一時間余り何を見ていたか、ひたすら細部を見るよりなかった。小道具や仕掛けの おもしろさ、動きのおもしろさ。アードマンのアニメは「ウォレスとグルミット」のクレイ・アニメとは 思えないほどのスピーディな動きをスピルバーグが褒めたというので圧倒的な知名度を得た(プッチンプ リンの宣伝をここしばらくやっていた)のだが、物語性重視の展開であるため、そうした動きのおもしろ さとして特筆すべき点はなく(もちろん金&時間はかかっているが)、「ウォレス」風の小道具のおもし ろさだけが目立つ。ドリームワークスに厳しいわけではない。今夏のディズニー・アニメも息抜きのお遊 び作品なのはまちがいなく、大したものではないだろう。あとはジプリに期待するのみだが、異界テーマ のこのアニメが出た途端にまたそうした言説が世に溢れるかと思うと、それはそれでまたうんざりするよ うにも思う。気にしなければいいだけのことだが。ああ、ハンガリーから遠く隔たった。
パーヴェル・ヴェジーノフ『消えたドロテア』(松永緑弥訳・恒文社)
 著者はブルガリアの現代作家。表題作は特異な能力を持つ分裂症の少女に魅せられながらも、怖れに よって彼女を永遠に失う中年の音楽家を描いた中篇。切ない恋愛譚であり、人間的な物語である。所長に 依存して生きていた課長が、所長の死と共に生きる術を失い、遂には見えなくなってしまう「ある幽霊」 を併録。もう四年の前の本だが、出ていたことを知らなかった。わずか200ページに満たず、2000円もす る。魅力的な作品で、翻訳も良いと思うが、悲しいくらい高価である。
太宰治『お伽草紙・新釈諸国噺』
 前者は語り替え。後者は再話。おもしろいけれどやめにした。伝奇という印象が薄い。太宰という人は 基本的にユーモア作家なので、何を読んでもおもしろい。とにかく子供の頃に読んでたいそう感動してし まったものだから、例えば玉手箱の煙は忘却という恩寵なのである、などというのは、自分が考えついた ことのようにすら思うほどだ。
日本幻想文学集成『神西清』『正宗白鳥』(国書刊行会)
 前者では「雪の宿り」などがちょっと使えるかもと思ったので読んでみたが、やはりダメだった。私は どうやら神西が嫌いなようでもある。正宗は今まで読んでいなかったので読んでみたが、一種のグロテス ク文学ないし妄想文学。松山俊太郎先生の篤実な解題がすばらしい。こういうふうに書きたい、と思えど も、ままならない。

29日
ジルベール・シヌエ『サファイアの書』(阪田由美子訳・NHK出版)
 『幻想文学』60号で石川實先生がベスト3に挙げておられた作品。確かに歴史伝奇ではあった。宗教小 説でもあった。ただし物語としては単純きわまり、人物もありきたりにしか描けていない。とても厚いの に半ばが暗号解読で(しかも論理的なのではなくて、知識と連想に頼るタイプ)、ミステリ好きな人なら ば……というところ。
山本ひろ子『大荒神頌』(岩波書店)
 『変成譜』などの宗教史家による小説集。こんなものが出ているとは知らなかった。民俗学的体験を小 説に仕立てたものや歴史に材を取ったものなどが収録されている。
谷崎潤一郎『吉野葛・蘆刈』(岩波文庫)
 やっぱり伝奇というのとはちょっとちがうかも。前者は奇談ふうの随筆、後者は幽霊談。

30日
莫言『豊乳肥臀』(平凡社)
 うーん。日中事変あたりから始まる変な歴史小説。とにかく変。荒唐無稽さとユーモアには欠けていな いが、でも長すぎ。

櫻井稔『雇用リストラ』(中公新書)(京)
 元労働省・労働基準監督官の書いた、給与削減、希望退職、解雇に関する概説。大企業人事部と労働組 合幹部向けの本。法律面での実際を示しているが、結局何を言っているのかというと、自由競争社会なの だから経営優先で解雇が起きるのは当然だということ。別に言われなくてもね。公務員だけは実績判断と いうのが難しい、なぜなら市場的に結果が出ないから、というのはいささか大ざっぱな感じ。著者の考え 方が体制寄りなので、おもしろくはない。


4月の雑感 春休みである。もちろん子供がであって私がではない。とはいえ長期にわたって山梨に帰れるので、そちらで雑事を離れてゆっくりと本を読もうと思ったのだが、結果はご覧の通り、積み残しがだいぶ出た。3月30日には雪が降り、驚かされた。10センチ以上も積もる雪はこの時期たいへんに珍しいのだ。春の淡雪なのですぐに消える。でも雪に降られては、山には登れない。というわけで、かなり遅くなってから、14日に山に登った。桜は満開である。まだぼけなどは咲いていない。野草の類もせいぜい菫ぐらいか。諸般の事情により深田久弥の亡くなった茅が岳に行かざるを得なかったのだが、たとえほかに登る山がなくとも、二度とここには来るまいと思った。たかだか三度目だが、ろくな思い出がない。
 前川道介先生が、勲三等瑞宝章を受章された。前川道介訳怪奇幻想小説短篇集の制作を進めている最中なので、こういう偶然はまことに嬉しい。20日前後はこの仕事に集中し、初校を出した。連休明け早々には手直しされた翻訳による決定稿が出来上がる予定なので、6月には刊行できるのではないだろうか。
 それにしてもまったく何となく過ぎた4月であった。