藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
●2003/6(最終回)
●2003/5
●2003/4
●2003/3
●2003/2
●2003/1
●2002/12
●2002/11
●2002/10
●2002/9
●2002/8
●2002/7
●2002/6
●2002/5
●2002/4
●2002/3
●2002/2
●2002/1
●2001/12
●2001/11
●2001/10
●2001/9
●2001/8
●2001/7
●2001/6
●2001/5
●2001/4
●2001/3
●2001/2
●2001/1
●2000/12
●2000/11
●2000/10
●2000/9
●2000/8
●2000/7

2001年1月


1日
秦恒平『清経入水』(角川文庫)
 清経は平重盛の息子で、源平合戦のさなかに若い身空で入水したことで知られており、ために後の能「清経」(入水の様を亡霊となって妻に語って聞かせる)の題材ともなった。この清経について考える己の物語を繰り広げたのが表題作で、清経の母は鬼だったのではという臆測が、若い頃の鬼山紀子との恋愛へと結びついていく。鬼をめぐる創作昔話や史蹟などが描かれ、伝奇と言えなくもないが、テーマはそちらになくて、胎内回帰を含む女人幻想にある。幻想小説ではあるけれども、取り上げようという気が起きなかった。

ヴィクトル・ユゴー『アイスランドのハン/ビュグ=ジャルガル』(小潟・辻・野内訳・潮出版社)
 政争により無実の罪で幽閉されている伯爵。その娘エテルと敵方の息子に当たるオルドネールは愛し合っている。ただしエテルは男の素性を知らない。オルドネールは伯爵の無実を証明するためのものを手に入れる旅に出、さまざまな冒険が繰り広げられる。アイスランドのハンとは無敵の山賊で、その名を神出鬼没さと残虐さでとどろかせている。ハンがキイポイントとなってすべては丸く収まるという波乱の浪漫。ハンとその子供をめぐる物語はマチューリン『バートラム』の影響下に書かれたものと言う。
 『ビュグ=ジャルガル』はサン・ドミンゴの反乱を舞台に、気高い奴隷と友情を結んだドーヴェルネ大尉の物語。ドーヴェルネの妻をジャルガルが愛しながらも決して手を触れようとしないなど、高潔も極まっている。

2日
ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』
(富士川義之訳・講談社文芸文庫)
 死に目に逢えなかった作家の兄の伝記を書こうとする弟の物語。兄の面影を求めていく過程で主人公が手にする、人間の生とは何か、他者はどのようにそれと関わることができるのか、という本質的な問題に触れていく。要するにクエストの物語。後半部でファムファタールが登場するが、これがすこぶるつまらない。作中で兄の作品が紹介され、メタノヴェルとなっている。ナボコフによるナボコフ論でもあろう。1939年の作としては目新しいか。

3日
辻井喬『変身譚』
(ハルキ文庫)
 現代と過去とを舞台に、かぐや姫やら葛の葉物語や蜘蛛の糸などのパロディスティックな物語を展開する。いまいちだんね。

8日
カルヴィーノ『パロマー』
(松籟社)
 初めて読んだ。観察し考え続ける人パロマーの思考を追っていく連作短篇集。これは笑わずには読めない。パロマー氏はその思考形態もアホらしさも私にそっくりなのだ。考え過ぎのパロマーの滑稽さがすばらしく表れているのが「あらわな胸」。ここまで戯画化されると、いささか自虐的な気分にもなるけど。カルヴィーノの思弁は時に詩になり、とても美しい。日常的にパロマー氏である私にも、この詩は真似できない。

9日
志水辰夫『きのうの空』(新潮社)(京)
 貧しい家庭に育ったらしい著者の自伝的要素が含まれている短篇集。戦後半世紀の世相とともに少年から初老までそのときどきの家族、友人、知人との確執を描いている。テイストは古い。

永井するみ『天使などいない』
(光文社)(京)
 女性が主人公の九編のミステリーを収録する短篇集。お話としてはきちんとまとまってよくできているのだけれど、後味がいまいちな話が多い。いかにも物語に出て来そうな(物語の中にしかいそうもない)厭な女が多いせいか。

竹内敏晴『思想する「からだ」』(晶文社)(京)
 からだ/表現/言葉の関係をめぐるエッセイ集。演劇、歌、弓、詩の朗読など、からだを使ったワークショップの体験を踏まえながら、からだがどれほど表現してしまっているかということを語っている。弓の話を読んでいたら弓をやりたくなった。いつかまたやれる日が来るだろうか。力を抜くことについての話もおもしろかった。力を入れるところ以外は脱力するって、本当に難しいんだよね。意識ってまったく厄介。

ハインリヒ・フォン・ヴリスロキ『「ジプシー」の伝説とメルヘン』(浜本隆志訳・明石書店)(京)
 十九世紀の民俗学者の蒐集した伝承集。半ば以上ヨーロッパ的だが、トリックスター的な悪魔の話などはロマ的な感じがしておもしろい。

10日
平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』
(作品社)
 1985年から88年にかけて書きつづられた書簡体の作品。架空の切手を描き続けた画家にあてた葉書の形になっている。平出隆と言えば、澁澤龍彦スペシャルのインタビューにも編集者として応えてくれた人だけれども、澁澤は「この作者には生来、やみがたい秩序感覚のようなものがあって」と平出のことを評したそうだ。この期間には澁澤龍彦が亡くなっており、そのことも書かれている。「秩序感覚」というのは澁澤自身のことでもないかという気もするが、似た者が相寄るということなのだろうか。

11日
ウィルキー・コリンズ『アーマデイル・中』
(臨川書店)
 正月に読んだ本の続き。悪女として名高いリディア・グウィルトがどのような女性なのかと思って楽しみに読んだのだが、悪女としての激越さのようなものはあまり感じられない。ナボコフが描くようなファム・ファタールのように厭な女には描かれていないのだ。『アーマデイル』は親の行為を子供が繰り返すという宿命論的なものと夢の予兆とが全体に影を落とす物語なのだけれど、リディアは悲劇的な夢の予兆を半ば信じると告白する。そのような繊細さは、悪女になりきれない悪女を感じさせる。
 この巻は、レ・ファニュよりはちょっとはましかというようなしょうもないギャグ・パート(横山氏によれば19世紀の長編小説の約束ごと)で始まり、リディアがアーマデイルの財産を奪うための計画を立て終わり、さあ実行だわ、というところで終わっている。下巻の刊行は未定!

佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』
(プレジデント社)
 本をめぐる製作・流通の現場のルポ。この本は出た途端に神田村から消えた、とは地方小の川上さんの弁。興味深い話題もあるとはいえ(ブックオフが近隣に出来ると普通の書店の万引き額が跳ね上がるとか)、所詮『幻想文学』のような超弱小とは関係のない話が多い。そうは言っても涙を禁じえない部分もある。これについては個人的に書きたいので、興味のある人はISIDORA'S PAGEを見て下さいませ。

12日
カフカ『失踪』
(池内紀訳・白水社)
 あまりにもすらすらと読めたのに驚いた。とはいってもインターバルが相当にあって、もう数ヶ月にわたってとぎれとぎれに読んできたのだけど。読んでいるあいだはすらすらいくということである。アメリカに渡ったユダヤ系の青年の彷徨を描いたもので、『エリス島』を読んでいたために、上陸の様子とか、ずいぶん違って感じられた。カフカ自身は体験していないことを、伝聞や資料を元に書いているのだろうけれど、カフカって一種のリアリズム作家なのだ、と感じ入ってしまった。青年は伯父に背いたばっかりに家を出されて苦労せねばならなくなるが、この厳しさがユダヤ的なのかな、と思う。ユダヤ人と神の関係。放浪後の生活は奴隷的奉仕とでもいうべきもので、ユダヤ民族の歴史のなぞりかとつい思ってしまう。しかしこうした読みはあまりにも浅薄である。これまでは『アメリカ』というタイトルで、「オクラホマ野外劇場」が最後にとってつけたように置かれていたが、これはカフカの意図ではなく、この章があまりにも全体とそぐわなくて、結局途中放棄された作品のようである。本書では「オクラホマ」という死後の世界のパロディは、断片として扱われている。新訳の出来はどうか、というのはわかりません! カフカのギャグ・センスがもう少し分かりやすく出る訳でもいいのではないかと思うけれど、きっと原文の雰囲気もこのように緊張感ばかり優先する感じなのだろうな。

北山修『幻滅論』(みすず書房)
 私は臨床心理学のことを何も知らないに等しいので、ここで問題とされている、言葉を使っての分析と情緒的な分析の海彼と日本とでの違いなど、いわば方法論的なところが何だかよくわからない。北山はこうした分析をどのように具体的に臨床に活かすべきだと思っているのだろう。そうしたところは示唆されている程度なので、門外漢にはわからなくて、もどかしい。
 浮世絵の母子像から乳幼児期の共同注視に着目し、愛の概念などを論じているあたりは、誰でも子育てを一度すればこんなことは自明のことだから内容的にはともかく、この論展開をみれば、私の世代であれば、当然「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心は今はもう通わない……」という北山の歌を思い出すにちがいない。なんと北山は自ら結論近くでこれを引用し、自論の傍証の一つとしているが、それは単に北山のオブセッションを表わすに過ぎないと受け止められるとは思わなかったのであろうか。まあ、ヒットしているということが(絶大なヒットと言っても良いだろう)、日本人の共感を呼ぶ、共通理解的なものであることを示しているという意味で挙げたのだろうけど。
 また、マリア・キリスト母子像のイコンと浮世絵を同日に論じるのはどうかと思うが、そこから去勢された母を充填する息子という見方がキリスト教の母を慰撫するキリストに対応するといった見解を引き出すのはおもしろい。夫婦・子供の三角関係も、フロイトのエディプス論に対して独自な見方を示す。下半身で夫に、上半身で子供に対応するという見解は当を得ている。妻は夫のものではない。もちろん子供のものでもないのだ。自律的に女性はそれを行ないうる。だがそうすると女が支配者になるイメージに私は囚われてしまう。そうでもなければ、それは女性における母性の濫用の強制であり、「虐待」だということになる。敷衍すれば生きているということすべてが同様の拘束を生む。愛のなせる技だと言って逃げることも可能だが、それはそれでいささかきれいごとめいている。
 愛が上下関係のあるところに生ずる上から下への視線であり、下から上へのそれは甘えと取られるが、甘えと見られているものの中にも下から上への愛もあり、それは愛という言葉のイメージとそぐわないため、存在自体が否定されるという。この論理展開はまったくおもしろい。愛するという言葉に含まれる優越感をこのように分析されると、痛みを感じるほどだ。
 恥、恩といった概念をめぐる分析もしている。こうしたところはかなりの程度臨床家向け。

森岡浩之『星界の紋章3 家族の食卓』(ハヤカワ文庫JA)
 ジントの祖国のその後。これはいくらなんでもだめでしょう。無理して書かなくてもいいのに。

ジョン・ベレアーズ『壁の中の時計』(三辺律子訳・アーティストハウス)
 1973年から始まった《ルイスと魔法使い協会》シリーズの第一作。「ハリー・ポッター」の原点として売りだされている。親を交通事故で失った少年が魔法使いの叔父のところに引き取られるという設定は確かに似ているところがなくもないが、原点とはとても言えないだろう。この作品の設定では、人間と魔法使いの差はただの資質ということになっていて、数学が出来るできないというのとあまり変わらないようだ。全体が何となくという感じで推移し、インパクトに欠ける。ホラーとして完成度を高めたほうが良かったのだろうが、児童文学ではそれも出来かねたのだろうな。

トレーシー・バレット『緋色の皇女アンナ』(山内智恵子訳・徳間書店)
 十二世紀のヴィザンチン帝国の皇女アンナ・コムネナを描く歴史小説。ジュヴナイルなので食い足りない。この人の生涯はこの程度の分量で書くにはおもしろすぎる。

13日
日向真幸来『神殺しの丘』
(ソノラマ文庫)
 四世紀末のブリタニアが舞台。歴史が好きということと歴史的な舞台を使って物語を書くということはまったく別のことである。カノンという音楽形式がこの時代にないのは承知の上で使ってしまいました、ごめんなさいと言うが、カノンという言葉のもともとの意味、当時も使われていた意味をどうするのか? その当時にはまったく存在しない概念でアナクロをやるほうがまだしもであろう。時代物語ということを考慮したときにあまりにも矛盾と疑問の多すぎる設定であり、キャラクターも同様である。冒頭数ページを読んだときにいけるかもと思っただけに、はずれたときの気分の情けなさといったら。

ナボコフ『ベンドシニスター』
(加藤光也訳・みすず書房)
 サンリオSF文庫から出ていたものの改訳版。翻訳がきつい本。解説にもある通り、あまりにも文学的な遊びと言葉遊びが多い。さらにほとんど詩的というしかない文章が並んでいたりして、訳者はもうしょうがないからと原文を掲げたりしている。こういう作品は訳者のセンス次第でどうにでもなってしまうので、何とも言いようがない。内容的には独裁政治(この均等主義って、例のすべての人間が一つにつながる思想を思い出させる)を背景にした残酷な不条理小説。ナボコフはテーマについての解説を自らしているが、その解説に沿って読んでもあまりおもしろくないように思う。主人公のクルークはあまり魅力的ではない。むしろ全体の雰囲気を味わうべきだと感じる。

ウィルキー・コリンズ『バジル』
(北川依子・宮川美佐子訳・臨川書店)
 これはしょうもない。身分違いの女性と一目惚れして秘密結婚するが、初夜は一年間お預けという情況でまずい事態が起き……というあまりにもあほらしい設定。未来を暗示する夢が出てくるが、夢の象徴性が泣くような種明かし。バジルの敵対者の身の上はどこかで見たような。とにかく初期の作品なので、まだ下手くそなんだろう。

たつみや章『天地のはざま』(講談社)
 『月神の統べる森で』『地の掟』に続く三巻。これは何かシリーズ名はないのだろうか。ヒメカよりもさらに強大なアヤの国がかかわってきて危機感が高まるところで物語は終わる。まさに中間の章。こんなにも自然神の威力の大きい世界で、どうやってアヤの国のようなものが成り立つのか? 作者はどう考えているのであろうか。

田口ランディ『モザイク』(幻冬舎)
 精神病者と関わる仕事をしているユニークな女性と分裂病の少年との聖的なものをめぐる触れ合いの物語。これはいくら何でもまずい。今まででいちばんつまらない。

ブライアン・W・オールディス『スーパートイズ』
(中俣真知子訳・竹書房)
 『A.I.』の原作(表題作)ほかを収録したSF短篇集。「スーパートイズ」は悪くない。でもその他はいまいち。オールディスって菜食主義者なの?

14日
ローズマリー・サトクリフ『アーサー王と聖杯の物語』(山本史郎訳・原書房)
 『聖杯の探索』の子供向けリライト。より一般的にはなっているだろうが、原典の魅力は損なわれている。

15日
ブルース・スターリング『タクラマカン』
(小川隆・大森望訳・ハヤカワ文庫SF)
 近未来SF。政治が絡むギャグが多いのだが、スターリングのギャグ・センスは私のとは波長が合わない。表題作は巨大施設の探索を描いているが、施設そのものがかなりぶっとんでいてまあまあ読めた。ルディ・ラッカーとのコラボレーション「クラゲの飛んだ日」はラッカーが参加しているだけあっておバカ度が増し、私は一応ラッカーのファンだから可愛いかなと思って読める。しかしスターリング・ファン以外には勧められない短篇集だ。

16・17日
『ホフマン全集』
(深田甫訳・創土社)『ホフマン1.2』(前川道介ほか訳・国書刊行会)
 『伝記M』の編集部からホフマンの伝奇ベスト10を書いてくれ、と突然言われた。書き手が最終的に見つからなかったのであろう。仕方ないので、ホフマン全集を読み返した。伝奇でホフマンというのがどうもね。ほかの原稿では「伝奇」に一応の意味づけをして書いたのに、それが崩れてしまうじゃないの。何となく我が定義に合致しそうな作品を選んだので(はずれているのもあるけど)、ちょっと歪んだセレクションになったかも。まあいいか。『牡猫ムル』を除く全巻、《ドイツロマン派全集》に収録されたものはそちらを優先し、ほぼ読み返した。ホフマンはやっぱりおもしろい。『悪魔の霊薬』は昔も今も好きだなあ。全然進歩していないみたいで哀しいけど、でもこういうのは基本的に好きなの! ホフマンはミステリ好きにもおもしろいのではないかと思うけど、こんなことを言うとまたミステリが分かっていないと言われるだろうか……。

20日
和田誠『指からウロコ』
(白水社)(京)
 雑多なエッセイ集。若き日の思い出、仕事の話、映画の話、音楽の話、交遊録など。失われた良き時代の思い出。

工藤庸子『サロメ誕生』(新書館)(京)
 19世紀後半のヨーロッパのオリエンタリズムに関する考察とフローベール『三つの物語』の中の「ヘロディア」、ワイルドの「サロメ」の新訳を併録。翻訳は詳細な注付きで、論考と合わせてそれを読むと当時の文学的なオリエント幻想・女性幻想などがわかるという仕組みになっている。 論考は二作の時代背景を語るものだから、全体としてはおもしろい。だが、この論考の中で「少女」とは何か、それは気位が高く、一人だけの美の世界を持っていて孤独で、性的にあいまいであることとしておこう、などというのはどうか。これって高原英理の『少女領域』の「少女」じゃないの? 当時の少女は無垢(処女)であると同時に無知(愚かさ)を表象することはあっても、そういう少女像ではなかったのではないか。少なくとも「サロメ」には当てはまっても「ヘロディア」にはあてはまらない。だからそんな少女が「サロメ」から出現したのだという論の展開ならまだ納得できるけど。

辻邦生『微光の道』
(新潮社)(京)
 晩年のエッセイ集。読書人・辻邦生の側面をありありと浮かび上がらせる。ロンサールの墓碑銘が最後に置かれたエッセイが最も死期に近いエッセイであるらしいのは、できすぎの感もある。また幻想と現実の被膜を描く作家だという自意識があることなども語られている。そうだったのか……。歴史伝奇とファンタジーの書き手であるという認識はあったものの、見えないものの手触りのようなものは辻邦生から感じたことはなかった。ちなみに辻の作品で好きなのは『背教者ユリアヌス』。といってもそんなには読んではいないのだが。

平井信行『天気予報はこんなに面白い』(角川書店)(京)
 NHKの天気予報キャスターが裏話などを語る。天気言葉のクイズがあるのだが、これは中学生程度で習うことが大部分で、つまり「常識」なのでは? だが、きっと分からない人も多いのだろうな、だからこんな言葉を使っていては通じにくいから平明な言葉に直そうと言ってその例が挙げてある。人々の語彙はこうして減っていくのか。

笹本稜平『時の潮』(文藝春秋)(京)
 サントリーミステリー大賞受賞作。これはたぶんテレビ化されるわけだよね。それにはぴったりの作品だと思う。実にまったくもって手慣れた感じであるが、あまりにも定型的すぎ、私は読むのにたいへんに苦労した。

22日
笙野頼子『愛別外猫雑記』
(河出書房新社)
 パス。買うのではなかった。悲惨な状態の捨猫を拾って世話して千葉に家を買って引っ越して……。文体だけが頼りの、内容には何の意味もない小説(だよね?)だが、文体もどうというのでもなく、凄みに欠ける。

23日
ロバート・ジョーダン『選ばれし者たち』
(斉藤伯好訳・ハヤカワ文庫FT)
 第五部《竜王戴冠》の第一巻。でも要するに前のそのまんまの続き。解説で小谷真理さんが語る、90年代半ばのハーヴァード大学ファンタジー創作講座の講師から聞いた「衝撃の事実」。受講中の学生はトールキンを読んでいないのがほとんどで、ジョーダンを読んでいるのだそうだ。いくつかの点からいかにも合衆国の小説だとは思うが、《竜王》シリーズはおもしろくはない。翻訳しか読んでいないから不安は少し残るにしても、小説も下手だ。
 日本でも同じだと思うけれど、前時代に較べてレヴェルの低い現代の先行作を読んでさらにレヴェルの低い作品が量産されていくというパターンではないか。要するにつまらないものがスタンダードなんだから、つまらなくてもオッケーなわけだ。それもまた一つの幸福ではあろうが。

ゴールデン&ホルダー『死霊の王』(矢口悟訳・ハヤカワ文庫FT)
 TVドラマのノヴェライズ《ヴァンパイア・スレイヤー》の第二弾。パスもいいとこ。はいはい、もう買わないってば。

メリンダ・メッツ『ロズウェル』(金子司訳・ハヤカワ文庫SF)
 TVドラマのノヴェライズ。一種のミュータントもの。だがロズウェルと言えばもちろん円盤、にエイリアンである。それ以外何があるのか。だからミュータントじゃないのだが、しかしミュータントものパターンの物語としか言いようもない。
 ブックカバーを使わないと恥ずかしくて持ち歩けないような本。

ボリス・アクーニン『堕ちた天使~アザゼル』(沼野恭子訳・作品社)
 《エラスト・ファンドーリン》という純情な美青年捜査官を主人公にしたミステリ。歴史伝奇風。ロシアのエーコと言われる日本文学研究者の小説だそうだ。タイトルがね、それでエーコとか言われればね、つい買ってしまうよね。で、設定は悪くないと思うし(ミステリなので言えない)、展開もまあまあ。かなりギャグ的要素も強い。だがどこか食い足りない。笑わせ方もキャラクターの描き込みもどこか中途半端。エラスト以外はあっさり引っ込みすぎるという感じか。

ボブ・カラン『ケルトの精霊物語』(荻野弘巳訳・青土社)
 ケルトの神話的存在をめぐる解説とそれをもとにした再話集。イラスト多数。どうもいまひとつ。イラストも一見(あくまでもちょっと見)リチャード・ダッド風で悪くはないけど良くもなし。翻訳もいまいち。要するにどっちでもいい本。ケルトはもういいのでは、というところもある。

ローズマリー・サトクリフ『アーサー王最後の戦い』(山本史郎訳・原書房)
 『アーサー王の死』の世界。子供向け。

24日
ジャン・ラスパイユ『引き裂かれた神の代理人』
(殿原民部訳・東洋書林)
 相澤啓三さんが『幻想文学』60号でベスト3に選んでおられたもの。伝奇Mに使えるかと思ったが、本が来るのが遅すぎて、間に合わなかった。確かに伝奇ではある。アヴィニョン捕囚後に起きたいわゆる大分裂に材を取り、対立教皇の系譜が現代まで密やかに生き延びたという物語を作り上げる。大分裂とそれに続く教皇たちの行状を語る著者の舌は嘲弄に満ちる。一方、著者の宗教者としての理想は放浪の教皇ブノワの系譜に託されている。だがそれもヨハネ・パウロ二世の時代に終わりを告げる。ブノワの後継者はもはやいないのだ。一度としてカソリックの信者になったこともない私には、この結末の意味するところは完全には掴みかねるが、奇跡をも軽々と起こす至純のブノワの死は、エクレシア・カソリケの完全な終わりとも取れる。一方では近年の教皇にも奇跡を起こしたもののあることが語られているから、そういうわけでもなくて、二つの一致したときに訪れる再生への思いが込められているのかもしれない。教皇、枢機卿に当たるものがカソリックの神学校で学んでいたことを知って神父が胸を詰まらせるあの感じからすると、やはり後者なのか。
 本書もまたこの世にはないものを描くがゆえに涙を誘う。ただし小説として優れているかと言えば、題材の割には今一つの感は拭えない。

エリザベス・ヘイドン『ラプソディ』(岩原明子訳・ハヤカワ文庫FT)
 ハヤカワ文庫FTで久々に出た真っ当な作品。やれうれしや。ファンタジー好きなら買って損はない。根の国の旅のところはかなり魅力的だ。三部作の第一部で続刊が待たれる。ただし、この展開でいくと、陥りがちなパターンがあるように思う(三角関係みたいな)。そこをうまく切り抜けたら絶賛しよう。

『スノウ・クラッシュ』(ハヤカワ文庫SF)
 買うんじゃなかった~。スピード、犯罪、VRの未来的合衆国を舞台にした、キッチュな話。こういうのはパス。

25日
リチャード・グレゴリー『鏡という謎』
(鳥居修晃ほか訳・新曜社)
 サブタイトルにその「神話・芸術・科学」とあるが、話は科学寄り、それも量子論を交えた光子などの話まで至るが、それを用いて鏡・視線・反射などといったことについて魅力的な論が繰り広げられているわけでもなく、期待外れ。芸術などはひとわたり触れているが、この程度のことなら、ちょっとこの方面に興味がある人なら知っている。値段がこんなに高いのだから、もっとマニアックなものにしろと言いたい。「人体は水平に関して対称」などという奇妙な記述は誤訳か著者がヘンなのか。ガードナーの『自然界における右と左』は完全に(あるいはわざと?)誤読して非難しているし。本書を読むのであればこのガードナーの一冊と多田智満子『鏡のテオーリア』を読むべし。

26日
ボリス・ヴィアン『心臓抜き』
(滝田文彦訳・ハヤカワepi文庫)
 自分は空虚であって他者の精神や感情を吸収することで内面を満たさねばならないと考えている精神科医ジャックモールが奇怪な村で遭遇するのは……。半世紀前の作品とは思えないほどに現代的な作品。bk1

『ボルヘスの『神曲』講義』(竹村文彦訳・国書刊行会)
 九篇のエッセイを収録。ボルヘスは『神曲』が大好きで、最高の賛辞を捧げている。このエッセイは『神曲』を書いているダンテに寄り添う形で、評釈がなされている。詩的であると同時に論理的でたいへんにおもしろいが、しかし短い。だからブレイクの神曲の挿画がカラーで挿入されている。訳注は本文の短さを補うべくとても丁寧。でもやっぱりちょっと高い。

エリナー・ファージョン『ムギと王さま』(石井桃子訳・岩波少年文庫)
 名作短篇集。普通のおとぎ話とは格が違う。このウィットがたまらない。

アラン・ジョミ『無伴奏組曲』
(松本百合子訳・アーティストハウス)
 バッハ、第四番である。著者は音楽家で、処女小説らしい。小説を書こうなんて考えない方が良かった。きわめて拙劣である。
 ユダヤ人のチェリスト・カールはテレジンの収容所でカミーラと愛し合い、結婚する。軽率にも子供まで作ってしまい、その結果カミーラは移送され、そのまま生き別れになる。戦後カミーラはカールを死んだものと考え再婚する。カールは彼女の死の決定的な証拠がなかったため、彼女を探し続ける。音楽家としてそれなりの成功を収めたのち、引退した彼は偶然カミーラの娘に出会うが……。どうでもいい話だ。

27日
ジェリー・スピネッリ『スターガール』
(理論社)
 レオの通うハイスクールへの転入生はスーザンと言ったが、スターガールと名乗り、常軌を逸していた。彼女は世界のあらゆる人の幸せを欲しているように、そしてそのために努力しているように見えたのだ。すぐさま彼女に魅かれたレオだが、ためらいがある。彼は常識人なのだ。エキセントリックなものへの憧れはある。けれどもそれを真に理解しようとはしない。そんなレオをスターガールは愛する。それもものすごく。だがレオは拒否し、スターガールは去ってしまう。
 これは何とも言えない痛々しい話だ。ファンタジーではないが、非常に近い感触を持つ。ここまでエキセントリックな彼女は、人間ではないだろう……。人間ではないものが人間の社会で生きて、人間を愛してしまうのはつらかろう。これに較べると『ロズウェル』はあまりにも脳天気だ。
 ここに描かれる合衆国の田舎は、日本とは比ぶべくもないたいへんなムラ社会である。常に共同体の一員でいることを強制される。これが合衆国の現実、若者の意識を映しているものなら、それはかなり気味が悪い。

大林太良『山の民水辺の神々』
(大修館書店)
 あじあブックスの一冊。サブタイトルが「六朝小説にもとづく民族誌」であり、『捜神記』『異苑』『太平広記』などの志怪小説を地域別、項目別に分類して地域ごとの信仰や生活などをそこから垣間見ようとしたもの。掘り下げ不足。ちょっと書いてみたというようなものか。

28日
伊藤遊『えんの松原』
(福音館書店)
 平安時代が舞台の児童文学。怨霊もの。

大村次郷写真・大村幸弘文『カッパドキア』(集英社)
 別にどうということはない写真集。悩んだ末にやはり買ってしまった。中学生の頃、この地で修道生活を送ることを夢見た。ありがちなことで恥ずかしいほどだけれど。本書で地下都市の構造など見ていると、憧れの気持がなお湧いてくる。

29日
『ユトク伝』
(中川和也訳・岩波文庫)
 チベットの医聖ユトク(8-9世紀)の伝説。神話的な物語であって、現代日本ではファンタジーとして読むのがいちばんわかりやすいと思う。どうして青なのか。篤胤の『仙境異聞』なんかも青だし。よく分かりませんね。

日野啓三『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』
(集英社)
 短編集。八編を収録。うーん。パス。

井山弘幸・金森修『現代科学論』(新曜社)
 科学史と社会科学の中の科学論の概説。入門者向け。のわりには例によって高い。思わず部数計算したくなる。

トマス・ハインド編『アリスへの不思議な手紙』(別宮貞徳・片柳佐智子訳・東洋書林)
 ルイス・キャロルの書簡とキャロルの描いた絵、テニエルほかの挿画などを配する。キャロルは10万通の手紙を書いたと言われているがそのごく一部。多くは子供向けに書かれたものでナンセンス・テイル、なぞなぞなどを含むものもあるが、ただの愛情表現も多くあるし、事務的な手紙や出版関連の手紙などもあって、日本版のタイトルはいささか羊頭狗肉気味である。編者のスタンスもいさか気になる。

ベアトリス・フォンタネル『図説ドレスの下の歴史』(吉田晴美訳・原書房)
 フランスの下着の歴史。図版多数。しかし食い足りない。フランスの合衆国に対する微妙な視線が面白いといえば面白いか。

30日
佐藤哲也『ぬかるんでから』
(文藝春秋)
 『日本SFの大逆襲』に収載された表題作ほか95年前後の短篇13篇を収録。bk1

ゴールディング『通過儀礼』(伊藤豊治訳・開文社出版)
 無惨な海洋小説。19世紀初頭のオーストラリアへ向かう船の上。国教会の牧師の陥る過酷な世界……というのも間違いのように思う。ゴールディングは難しい。キリスト教にかなりの関心ある人向け。あるいは残酷小説愛好家向け。

網野善彦・石井進編『北から見直す日本史』(大和書房)(京)
 道南にある上ノ国勝山館跡発掘調査20周年記念シンポジウム記録。知識の薄い私にはたいへんにきつい一冊だったが、アイヌと和人の関係についての新たな知見を得た。

イヴ・シュヴルレ『比較文学』(福田陸太郎訳・クセジュ文庫)
 個別的な作家研究・作品研究以外の、ジャンル論、潮流論、時代論などあらゆる横断的な文学研究を比較文学としてその研究の現状と基本文献を列挙する。
 文学における翻訳とは何か、というような話から本書は始まるのだが、もとの文も悪いのだろう、翻訳がすさまじい。「外国のテキストも、ときとしてあらかじめ、かなり遠くからやってくることを詫び、しばしばこのようなものであるとそれを描くような、特殊なアプローチの仕方をしばしばする。」おいおい、何が言いたいんだ? 前後の文脈からも判断がつきにくい。だいたいアルトーを援用したこの周辺の意味はまったく理解に苦しむ。こうした文章は、文化的な遠さは理解するのに迂遠な手続きを要求する、ということを身をもって示しているということか? 

佐藤雅美『槍持ち佐五平の首』
(実業之日本社)(京)
 時代物の短編集。武士のいじめ、ごり押しなどがモチーフ。取り調べ記録が残っているものを元にしたものか?

高橋順子『けったいな連れ合い』(PHP)(京)
 著者は詩人。夫は車谷長吉。車谷の奇人ぶりがわかる。強迫神経症のために幻覚・幻聴に悩まされていなくても、充分ヘンなのである。こんな夫と付き合えるとは、さすがに強い女性は違う。

31日
ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』
(嶋田洋一訳・ハヤカワ文庫SF)
 なかなかおもしろかった。SFのおもしろさとは何かということについて考えた。

山内志朗『天使の記号学』(岩波書店)
 スコラ哲学者の評論。取り立ててどうということは書いてない。あまり好きな語り口ではない。装丁がきれい。

井口正俊・岩尾竜太郎編『異世界・ユートピア・物語』(九州大学出版会)
 学生のためのテキスト。つまり初心者向けでやたらに啓蒙的である。日本語がひどいものがある。内輪で作っているから手を入れる人がいないんだろうなあ。


5月の雑感 前半は伝奇Mに忙殺された。結局60枚くらい書いたのだ。この際と思って読み返した作品や初めて読んだ作品が多数あり、その点ではおもしろかったのだが。藍読日記に書く気力までは出なかった。志のある方は伝奇Mをご覧下さい。
 5月18日、私個人のサイトのために横山茂雄さんにお話を伺ったのだが、その後、横山さんはこれから国書刊行会へ行くとおっしゃる。なんと日影丈吉氏の資料が見つかったとか。それで図々しくも付いていった。日影丈吉ファンの礒崎編集長が段ボール二箱ぶんぐらいをどっと出してきて、順番に中身を見せて下さったのであるが、これがすごかった。自作の切り抜きや使用済みの原稿のほか、未定稿がいろいろとあったのだ。戦時中のものから晩年のものまで。自作に関するメモ、フランス語で書かれた日記だか何だか、俳句や短歌のノート、翻訳、エトセトラ……。日影先生って結構まめな方だったのね。興奮しつつ、二時間近くそれを見るのに費やした。世の中にはこういうこともあるのか。至誠天に通ず、などと言えば大げさだが、日影丈吉全集を是非とも作りたいという礒崎氏の志がなければ、こういうことにはならなかったのだ。日影丈吉というのはやはり正当には評価されていない作家の一人だが、この全集を機に一人でも多くの人に読まれてほしいものだと思う。