藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
●2003/6(最終回)
●2003/5
●2003/4
●2003/3
●2003/2
●2003/1
●2002/12
●2002/11
●2002/10
●2002/9
●2002/8
●2002/7
●2002/6
●2002/5
●2002/4
●2002/3
●2002/2
●2002/1
●2001/12
●2001/11
●2001/10
●2001/9
●2001/8
●2001/7
●2001/6
●2001/5
●2001/4
●2001/3
●2001/2
●2001/1
●2000/12
●2000/11
●2000/10
●2000/9
●2000/8
●2000/7

2001年6月


3日
青木良輔『ワニと龍』(平凡社新書)
 「龍」は実在した動物だった! という帯の引き句に釣られてつい買ってしまったが、実は動物学的なワニの本であった。編集部によれば「児童書以外で日本で市販される最初のワニの本」とのこと。文学との関わりで言えば、レヴィアタンも龍ももともとワニであったと語られている。もちろん文献的にも生物学的にもそのあたりがきちんと解説されているから説得力はあるので、興味のある方はご覧いただきたい。ワニの進化、系統などを中心にその形態的特徴、性質などについて述べている。動物嫌いだそうで、語り口はときに嫌みとも取れるが、案外おもしろい読物であった。

巽孝之『2001年宇宙の旅講義』(平凡社新書)
 キューブリック監督『2001年宇宙の旅』が与えた衝撃、その影響を現代から捉え返すと同時に、クラークの作品がどのように映画と違っていて、それが現代のSFにどれほど直結しているかについて語ったもの。

ジョルダーノ・ベルティ『天国と地獄の百科』(竹山博英・柱本元彦訳・原書房)
 原書房のこの手の本は一切買うまいと決めている(内容がないため)のだが、あまりにも取り上げるべき本がないため、ついに買ってしまった。やっぱり特に薦めたいような本でもない。
 この手の本が氾濫しているので、何が最も信頼に足り、これ一冊でよいといえるのだろうか、と考える。結局自分もごちゃごちゃと一杯持ってて、使い分けているわけだな。

4日
ジャンニ・ロダーリ『二度生きたランベルト』(白崎容子訳・平凡社)
 エジプトで聞いた「名前を呼べば命は不滅」という秘法を実行した大金持ちの男爵ランベルトの物語。後半部で繰り返されるランベルトの合唱に、おもわずぞくぞくされられた。ものすごい傑作というほどのことではないが、ロダーリの提唱する「開かれた物語」が実践されていて、反響や余話などが章の終りごとに配されているのもちょっとおもしろい。

5日
ランダル・ジャレル文・モーリス・センダック画『夜、空を飛ぶ』(長田弘訳・みすず書房)
 幽体離脱した少年が、フクロウと出会ってその物語を聞くというもの。夢を思わせる世界。センダックの絵はノスタルジーそのものである。
 私はこのアメリカの詩人が大好きなのだが、日本ではあまり紹介されないみたいなのはなぜだろう。詩の翻訳は確かに難しいのだけれど。

『武井武雄』(河出書房新社)
 武井を紹介するヴィジュアル本。子供の頃から見ている画家だからか、否定的には見ることができない。ナンセンス童話も好き。

奥泉光『鳥類学者のファンタジア』(集英社)
 ジャズピアニストのヒロインが、やはりピアニストだった祖母のいる1944年の冬のベルリンにタイムスリップして、宇宙の音楽を味わう話。一挙手一投足を描くのはいい加減にやめてくれないかな。源氏物語のように、とは言わないが、もう少し別の書き方があるだろう。一人称で通したのは立派と言えば立派だが。
 ジャズの話がたくさん出てくる。ジャズ・マニアならきっと別の感想もあるんだろうな。「ジャズを聴く人間は孤独である。……ジャズは陶酔を通じて人を覚醒させる。絶望の淵にあって、かすかな勇気を与えてくれる音楽」というようなことが書かれており、違和感を感じる。これは一応ラスト近くの決めの台詞なのだ。音楽はもともと人を鼓舞させるところがあるわけで、音楽のこの効用はジャズに限らない。一方ではそういう鼓舞の面は厭だという考えもあるわけだしね。
 いろいろなミュージシャンへの言及があるが、なぜかケルンコンサートだけは「嫌いだ」とヒロインによって断言される。「でも自分でそれ風にやると気持良い」ってなことが書かれているから、演奏者であるヒロインの気持ちはいまいち理解できないが、たぶん奥泉さんはあれの通俗的な感じが嫌いなのだろう。ふうん、私は好きだな。頭の中で再現できるくらいだからかなり好きだ。だいたいこのページを見ていれば分ってしまうに違いないが、私の趣味はたいへんに通俗的なのである。
 でも今このページを見ている人でも、奥泉の小説を読む人でも、ケルンコンサートと言われてすぐに頭に浮かぶ人はどれほどいるのだろう。それを聴く人は絶対に奥泉の読者よりはるかに多いはずだが、重なっている人間となると? それ風に演奏したということがどれほど伝わるというのか。だいたいそれ風のそれの部分だって聴き手によって感じが違うだろうし。趣味の世界がこんなに多様化している御時世に、作品中に固有名詞を持ってきて具体的な描写表現に替えることをどのように考えるのか。一方では、風俗的なものは長いスパンの中で古びて文学を色あせさせる、といった言い方にもどれほどの信憑性があるのかと思う。
 ともあれ、この作品では著者は確信犯的にやっているわけだが、それによって投げ出してしまう読者だって多いのではないだろうか。私は人並みにジャズを聴くから、ありきたりな固有名詞しか出していない(つまり一般に配慮している)ことがわかるが、その方面に興味のない人にはそんなことさえわからず、ただもううんざりするのではないか。
 55号の山口雅也インタビューで、「エリック・ドルフィーのように」とタイトルをつけたのは、その言葉を聴いて、なんてかっこいい、と思ったからなのだが、ドルフィーがどれぐらい『幻想文学』の読者に分るのか、と言われれば、私にも何とも言いようがない。
 音楽を扱う小説は難しい。思えば山之口洋の『オルガニスト』というのはその説明がほどほどだった。高野史緒の場合は音楽を言葉で表現してしまうから、そういう問題にあまり直面しない。篠田節子はどちらかと言えば奥泉に近くなる。バッハを聴かない人には分らないよね、というようなところがある。たぶん聴いていなくても物語そのものを楽しめるのだろうが、音はきこえにくいに違いない。何にしても、音楽小説というのは難しいのだ。

井上雅彦編『物語の魔の物語』(徳間文庫)
 アンソロジー。メタ怪談、作者自身が物語に取り込まれてしまうような怪談を13編収録。分量的にやや物足りず。
 倉阪鬼一郎「猟奇者ふたたび」という短篇が収録されたので、私のところにも本が来たのだけれど、これは最初に読んだときは大爆笑の一篇だった。この作品の季刊「怪奇小説」のオフィス、古くからの『幻想文学』の読者は御存知だろうが、『幻想文学』の事務所をもとにしている。「朽ちかけた駄菓子屋の二階の三畳間」というのはまったくその通りで、今は整備されてしまって影も形もないが、ここで私は「あたら青春を棒に振」ったのだろうか? ただし人の座る隙間もないというのはフィクションで、ちゃんと4人ぐらいは入れるほどのスペースが常にあった。編集長の南が東のもじりであるのはいうまでもないが、この作品のようなかっこよさは微塵もない。キャラクターが全然違うと大笑いしたら、そんなことはない、そのものじゃないかと東は言ったが、そんなことを言うところからして南とは大違いである。京極夏彦へのインタビューで、あの登場人物が実在の人物に対応しているという話を聞いたとき、私はこの「猟奇者ふたたび」を思い出し、きいさんもこれをシリーズ化すれば結構あたるんじゃないかと心中思ったものである。『幻想文学』の周辺には使えそうなキャラがたくさんいるのだ。ともかくも、この一篇は出来が良くて、きいさんの短篇の中では気に入っている。未読の方は読んでみて下さい。

西垣通『IT革命』(岩波新書)(京)
 情報技術に関する概説書。消費という観念から逃れられない、それを除いた経済活動というのが考えられない現代というものを思う。

6日
岩田準子『二青年図』
(新潮社)(京)
 岩田準一の手記という形で乱歩との関係を、肉体関係も含めて描く。著者は岩田の孫娘らしいが、何を考えているのか。岩田のマルチタレントぶりはすべて男色がらみで、唯一の拠り所が己の美貌だったみたいではないか。小説としては拙劣でかなり読めないが、孫が書いているということが、乱歩(や夢二や熊楠)に興味のある向きにはやはり問題になるだろう。

城野隆『妖怪の図』
(新人物往来社)(京)
 怪奇ものではない。水野忠邦の時代を舞台に、その政策に抵抗した作家たち、犠牲となった学者や文芸家を描く連作短篇集。表題作は国芳の土蜘蛛の絵をめぐる一篇。「物怪の街」では晩年の平田篤胤が描かれるが、やけに明るい爺さんでイメージが狂う。馬琴も登場するが、小説に描かれた馬琴としては最も善良な馬琴なのではなかろうか。この連作では要するにいやなところのある人がほとんど登場しない。敵役の鳥居耀蔵を除けば、せいぜい京伝くらいか。口当たりはソフトだが、これでいいのか、という思いもしないではない。

山折哲雄『鎮守の森は泣いている』(PHP研究所)(京)
 エッセイと講演記録。大きな活字の、特にこれといった内容のない本。山折哲雄はパスだ。数年来まったく信頼していない。本書の中でも、癒しという言葉が嫌いだとか戦前の天皇制が疑似的一神教だとか、ふだん自分でも思うような当たり前のことが書いてあったりするのだが、そうすると自分のこれまでのそういう見方はまちがいだったかも、というふうに思ってしまうぐらいだ。偏狭な自分を確認したくないので、日頃読まないようにしているが、仕事なので仕方ない。

利倉隆『エロスの美術と物語』(美術出版社)
 圧倒的な量で推すシリーズ。一応フェミニズムへの目配りもある。

シルヴィ・バルネイ『聖母マリア』(船本弘毅監修・創元社)
 知の再発見双書の一冊。期待したほどには刺激的な画像がなかったが近代の写真が良かった。

7日
中村融・山岸眞編『20世紀SF』
1~4(河出文庫)
 英米SFのアンソロジー。SFは時代に左右されやすいジャンルだということを改めて感じる。正統派の作品が多く、SFファンあるいはSFに興味のある人向け。ファンタジー読者にまでは薦めない。

8日
『竹斎』
(岩波復刊文庫)
 教養が足りなくてパロディがよくわからない。滑稽と諷刺の小説として名高いのだが、子供を殺したり目の玉を飛び出させたり、むしろひどい話だと思う。

9日
ニコラス・シェイクスピア『テロリストのダンス』
(新藤純子訳・新潮文庫)
 60号で新藤さん自身がベスト3に挙げていた小説。ダンス・シーンに琴線に触れぬでもないものがあったが、幻想とは言えないよね。ペルーが舞台なので、フジモリ問題が騒がしい時期に読むのは、まったく別な感慨あり。バレリーナとテロリスト(革命)とは、カルペンティエル『春の祭典』を意識したものか。

アナトーリイ・キム『リス』(有賀祐子訳・群像社)
 多視点多重構造の奇妙な作品。テーマの分裂がやや見られ、完全な印象は与えないが、ユニーク。

11日
スティーヴ・エリクソン『真夜中に海がやってきた』
(越川芳明訳・筑摩書房)
 ミレニアム幻想はあるにしても、ファンタジー色は薄い。親子問題がテーマか? いちばん興味のないテーマなんだが……。

12日
山本昌代『イギリス通信』
(荒地出版社)(京)
 イギリス滞在記、なのだが、名所案内風の紀行的エッセイ。『魔女』(ファンタジーではない、念の為)の姉妹品。イギリス滞在とエッセイ出版に関わることで新潮社に怨み骨髄? その顛末を書いた「諸問題」では、『波』を出してる山本がデビューした「S社」だなんて、嫌みなこと。うーん、純文学作家の考えることはよくわからない。『波』の連載で海外滞在を支援するだなんて、発端からして変だと思わなかったのか? 林望のようなエッセイでないと本には出来ないという編集者の言はもっともだろう、失礼な言い草だけど。それは、この内容では二の足を踏むだろう。もちろん「それより小説をくれ」というのもものすごく失礼でふてぶてしいが。

川崎草志『長い腕』(角川書店)(京)
 横溝正史ミステリ大賞受賞作。人口に比して殺人事件件数が異様に高い地域出身の女性が、故郷で起きた事件の謎と両親の死の謎に迫る。ゲーム関係の著者はその知識を巧みに使って、おもしろいネット・ホラー的なミステリを展開。これはなかなか読める。ただし、文章が拙い。添削したい。かなり良く出来たヒロインに「しょんべん」など言わせるのはまずい。建築ネタで、安易に家相などを持ちだすのはダメ。……と、いろいろと細かいところで文句をつけたくなるが、それでも今回は前回よりずっと良い。主人公の住んでいるのが上尾で、会社が埼玉新都心。これは私の居住地域で、いつもお世話になっている図書館が出て来たりする……。
 選評では、27歳が書いたという「しびとのうた」の方が評価が高い。しかしこちらになったのは、作品としてのまとまりを評価されたからだろう。タイトルはいまいちだけど、「しびとのうた」ってどんなのだろうね。

富士川義之『ナボコフ万華鏡』(芳賀書店)(京)
 出来の良いナボコフ論集。作品解題、ナボコフ伝記、ナポコフ論リストなどのデータを含む。今夏『ディフェンス』の映画化『愛のエチュード』が公開されるのに合わせて? この映画の日本タイトルのだささはいったい何だ!

シドニー・パーコウィッツ『泡のサイエンス』(林一・林大訳・紀伊國屋書店)(京)
 ビール、エスプレッソ、パンといった食品、シェービングクリーム、発泡プラスチックといった実用的な発明品から生命の中の泡状のもの、海の泡、宇宙の泡まで、さまざまな泡と泡構造のものを取り上げる、啓蒙書。泡の魅力が伝わる好著。最近のケーキにムース類の多いこと! 泡のものが売れるのは、贅沢な時代だということ。柔らかさと甘さが好まれる時代。

13日
ロバート・グレーヴズ『この私、クラウディウス』
(多田智満子・赤井敏夫訳・みすず書房)
 第四代ローマ皇帝を描く歴史小説。祖母リウィアがすごい。いささかスケールが小さくて申し訳ないが、我が国の持統天皇などを思わせる。国の安泰を優先させるために邪魔者を消していく烈女である。本書を読むと、女は賢くて残酷で大胆、男は臆病で愚かで純情という感じになる。たぶん子供を何人も産んでも長く生き残れるような女たちは、もともとすごくたくましいということもあるのだろう。中でも印象深いのはクラウディウスの最初の妻ウルグラニッラ。女の規格をはずれている彼女が、愛するヌマンティナ(女性)の仇を討つために取る行動が、何とも荒々しい。クラウディウスの一人称小説としてのおもしろさも随所にあって、冒頭やラストのユーモアは秀抜だ。
 多田智満子はアルトーの『ヘリオガバルス』にもシリアの公女たちのたくましさを描いたエッセイを寄せているが、本書でもやはり似たような立場を見せ、その源をグレイヴズがずばぬけて賢い姉に敬服していたためとしている。どんな姉だったのか。
 翻訳に多田智満子の文体を読み取って楽しむということがあるため、仕事の合間に少しずつ読み、異様に長い時間がかかった。もっと早くに読み終えられたら良かったのだが。
 なお、あとがきに「気力充実した壮年の赤井氏……」とあり、ちょっと複雑な気分になった。赤井さんとは三つしか年が違わない。確かに客観的に見ればそんな年なのであろうが、私はそうした充実とはほど遠いところをさまよっている。

怪異の民俗学7『異人・生贄』(小松和彦編・河出書房新社)
 若尾五雄の「人柱と築堤工法」がお薦め。ファンタジックな伝承を合理的に説明しようとするこの人の科学的民俗学(?)が好きだ。正しい正しくないではなく、とにかくその論理系の中ではきちんと筋が通っているところがいいのだ。この生贄関連の論文を見ても、編者が悪いのかもしれないと思うが、人身供犠があったのかなかったのかと、こだわるのはそればかり。動物の供犠に関わる文化交渉的な、歴史的な視点のあるものだってあるだろうに。イヨマンテについては、先月読んだ『北から見直す日本史』に学ぶべき点が多いと思う。経済的(異文化交流という可能性が含まれている)歴史学の側面から考え直すべきではないかという示唆は、例えばもっと宗教的心性というものを深く洞察すべきではないかという考えと同じ程に尊重されて良いと思う。

14日
イーディス・シットウェル『英国畸人伝』
(松島正一・橋本槙矩訳・青土社)
 新装再刊本。English Eccentrics 人間というゴミの山の中から出て来る死んだように硬直した一つの姿勢、それが著者の定義するエキセントリックである。常識はずれの人々が紹介されるが、著者のアイロニカルなユーモアはもしかすると日本では伝わりにくいのかも、と思う。

古谷嘉章『異種混淆の近代と人類学』(人文書院)
 カルチュラル・スタディーズからの批判に、文化人類学からどう答えるかを模索するこのシリーズは、自身の立場に意識を澄ませれば澄ませるほど身動きがとれなくなる、という情況を甘受しながら進みだそうとする点で、実に興味深い。本書で語られる、ネイティヴなどの立場で戦略的本質主義を取る(西洋側の期待するネイティヴ像を演出して見せる)のはいいが、それが固定化すれば抑圧につながる、という視点など、著者自らの立場にも応用できるような言説だ。異種混淆=ハイブリッドな情況についても、それを理想化して讃美するのは西洋(=権力者)の御都合主義であって、むしろ首尾一貫していなくて非合理であるという点においてハイブリッドであることを是とする。
 あとがきには、既存の支配的言説内部の一問題として消費されたくない、と語るが、それは難しいだろう。こうした問題提起自体が、あまりにも解決が見えなさすぎる問題であるために、本質的に「実践に力を与える」ようなものとはなりえない。既に同様の問題意識を共有している人でなおかつ実践者である人が、共感的に読む、そのような書物ではあるまいか。しかしこれは実践者ではない私の言うべきことではない。一般の読者の一人としては、経済的な問題やアメリカ帝国主義の傘下にある日本という位相を考えないわけにはいかず、いろいろな意味で閉塞感を感じざるを得なかった。

15日
倉阪鬼一郎『サイト』(徳間書店)『四重奏』(講談社ノベルス)『ワンダーランド・イン・大青山』(集英社)
 『サイト』は作家とインターネットと書物がセットのスプラッタ・ホラー。『四重奏』はミステリ。『大青山』は田舎ファンタジー+ホラー。

江森備『王の眼』
1・2巻(角川書店)
 古代エジプトを舞台にした話。延々と続くものの第一部のようである。

谷口裕貴『ドッグファイト』(徳間書店)
吉川良太郎『ペロー・ザ・キャット全仕事』(徳間書店)
 第2回SF新人賞受賞作。どちらも精神感応を扱い、それぞれテレパス、機械と、超人SFの二つの方向をおもしろいほど単純に示し、かつ犬ものと猫ものである。片やみんなのため正義のため、片や己の自由のためという具合にいちいち対照的なのは、どうしてか。新人の作品に多くを期待しないが、それにしてももう少し世界の手触りのようなものが描けないものか。テラフォーミングの惑星、大戦後のフランスと言い条、ロシアあたりに進攻された中央アジア、近未来の東京でも変わらないようでは、仕方ない。

17日
カフカ『審判』
(池内紀訳・白水社)
 この作品はあまり好きではない。ただ戦後の文学・映画などに与えたこの作品の影響力というものをぼんやりと思う。

19日
小西聖子『ドメスティック・バイオレンス』
(白水社)(京)
 普通に訳せば家庭内暴力ということで、子供から親への親から子供への、また年寄りなどへの暴力も含まれるが、もっぱら夫婦、恋人などのパートナー間で発生する暴力について言う。たいがい男が女を殴るという構図で、精神的なダメージもドメスティック・バイオレンスに含むのだそうだ。学歴の高い男の方が妻に暴力をふるったことがあるという統計結果(他書による)は、外面からは何とも判断できないドメスティック・バイオレンスの難しさを象徴する。

樋口有介『海泡』(中央公論新社)(京)
 小笠原を舞台にした青春ミステリ。興味なし。探偵役の主人公の父親が海と女をテーマに描いている画家で、号100万円で売れるのだという記述がある。瞬間的にとてつもなくつまらない絵が思い浮かんだが、小説全体がそんな感じである。

上條さなえ『子どもの言葉はどこに消えた?』(角川oneテーマ21)(京)
 児童文学作家で児童館の館長を務めた著者が、自分が接した子供たちや友人の教師から聞いた子供の話などを紹介する。著者は善良ではあるのだろうが、ものを書く資質に欠けている。

斎藤一郎『幸福論』(平凡社新書)(京)
 仏文学者がフランス文学、雑誌、映画その他に表れたフランス式幸福について解説。挙げた事例の何についても「やれやれ」としか言わないような軽いコメントには、読んでいてうんざりさせられた。本人は洒落ているつもりなのだろうが。ただ、田辺貞之助と平岡昇のやおいにしたくなるような友情(二人で家族風呂に入ったとか)についての話はおもしろかった。

宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社新書)(京)
 日本におけるイスラム教徒(ムスリム)のイメージが悪いのは合衆国の言説操作の影響が大である、とする立場から、イスラムへの公平な理解を求めてイスラムの社会と宗教を解説する。

21日
小林恭二『モンスターフルーツの熟れる時』(新潮社)
 小学校時代の友好関係をネタにした幻想小説。帯に「最高傑作」などと書くセンスから編集者は卒業すべし。新しいのが出るたびに最高傑作なんだろうが、これが最高傑作では、つまらない作品しか書いていないみたいではないか。

舟崎克彦『ぽっぺん先生と帰らずの沼』(岩波少年文庫)
 ぽっぺん先生シリーズでは、『笑うカモメ号』『どろの王子』が好きだが、『帰らずの沼』も悪くない。

22日
ピエール・グリパリ『木曜は遊びの日』
(岩波少年文庫)
 子供たちの日常の中に、たくさんの魔法を入り込ませたユーモア童話集。再刊したらいいと思うのだが。そういえばリンドグレーン『はるかな国の兄弟』も少年文庫になっていた。43号の「死後の文学」でも取り上げたが、児童文学で真正面から死後の世界を描いた異色作。未読のファンタジー・ファンは今が買い時。

23日
尾崎久彌編著『大江戸怪奇画帖』
(国書刊行会)
 江戸時代末期の合巻より、幽霊、妖怪、惨殺など怪奇・猟奇的な趣向の画を選び、解説をほどこした『怪奇草双紙画譜』(一九三〇)の復刻。刊行当時に発禁になるのを怖れて削除されたという図版を復した完全版ともいうべき一冊。

メニンガー『数の文化史』(内林政夫訳・八坂書房)
 数え方と計算の歴史。西洋・中東の中世文学をやる人には最低限の数に関する知識が収録されている。またgematriaについての理解が容易になる。特に指による数の表わし方についてこんなに丁寧に解説してある本はないので、たいへんに参考になる。

ダレン・シャン『ダレン・シャン』(橋本恵訳・小学館)
 半吸血鬼になってしまった少年ダレン・シャンの運命を描いたシリーズ。第一話発端編である「奇怪なサーカス」。
 私は本書を編集した人の厚顔無恥ぶりをたいへんに不愉快に思う。ファンタジー愛好者の感覚に訴えるカヴァー、そして『ハリー・ポッター』の作者も推薦、とくれば、これはファンタジー系の話であるに違いないと誰だって思うだろう。ところが主人公ダレン・シャン(作者と主人公が同じ名前なのはこれは本当の話だという建前から)はクモが大好きという思慮の浅い悪ガキで、親友のスティーブはそれに輪をかけたワル。彼がワルなのは離婚して母子家庭であるうえに母親が彼をかまわないせいとなっており、パスしたいような設定である。彼らが本物の蛇少年や狼男、ヒゲ女などを擁するフリークショウにこっそりと出掛け、そこでスティーブは毒蜘蛛使いがバンパイアであることを発見する。スティーブはバンパイアにして欲しいと頼み込むが、彼の血は悪魔の血であると無惨にも断られてしまう。一方ダレンは蜘蛛が欲しくて、危険も顧みずに盗み出してしまう。まああとはだいたい想像がつくように、蜘蛛をめぐってまずいことが起きるわけである。これは下品で深みのない、粗雑なホラーだ。『ハリー』の読者向けではない。子供向けですらないと思う。これを『ハリー』みたいなものかなと思って手に取った子供は何と思うだろうか。どうせならもっと精緻に書いて、ちゃんと大人が読むに耐えるようなホラーにすべきではないか。『何かが道をやって来る』などの先行作を考えるとき、その感は一層深まる。シリアスさが中途半端にすぎるのだ。

24日
内林政夫『数の民族誌』(八坂書房)
 世界の数の用い方についての解説書。数え方、記数法、数詞、九九、暦法などについてを話題にする。メニンガーの翻訳家は薬品業界の人だそうだ。つまりは素人の余技なのだが、わりとおもしろい。特に言語方面から数について考えているあたりが、類書にはないように思う。

舟崎克彦『これでいいのか子どもの本!!』(風濤社)
 エッセイ&インタビュー集。何気なく手に取ったら、『幻想文学』7号でやったインタビューが収録されているではないか! インタビューしたのもまとめたのも私と東だが、再録に当たって何の断りもなかったな。まあ、当時とは住所も違っているし、続いているとは思わなかったのかもね。多くのインタビューの中から選んでくれて、アタマに載っているのだから、良しとしよう。それはそれとして、舟崎さんは近年も怒っているのだな、といささか感動する。ろくでもないものは「縁日のバッタ売りに出せ」「我々は文化遺産を作っているのである」なんて堂々と言えるのは、まったく大したものだ。これだけを書き抜くと誤解を受けそうだが、舟崎さんはいろいろと理解したうえで敢えてこう言っているのである。ただ、本を出してくれなかった最初期のことにしつこく文句を垂れるのはどんなものかと思う。どうも作家というのは、批判されることや拒否されることに必要以上のルサンチマンを抱く傾向があり、児童文学の雑誌を読むと、時々、怨念が渦巻いていてぞっとさせられることがあるのだが、舟崎さんほどの作家でもそうなのかと思ってしまう。ついでながら、10年以上前に妖怪特集を考えたとき、現代を舞台にした妖怪小説ってこの人の『ゴニラバニラ』ぐらいしかない、と思ったことがあった。隔世の感あり。

ドリーン・キムラ『女の能力、男の能力』(野島久雄ほか訳・新曜社)
 胎児の時、また出生前後に与えられるホルモンによって生理的な男女差ができる、ということを論じた、生物学的な本。大きな空間把握、数学の推論、標的あてでは男が勝り、空間の中の細かい配置、数学の計算、手先の作業などでは女性が勝る。また男女に関わらず、右側の性的身体が発達している人(女性なら乳房、男性なら睾丸でチェックする)は男性的能力が優れている、とする。
 本書では平均、統計から男女差が有意であることを述べ立てるが、フェミニズムでは、平均ということがそもそも危ういとされる。0と60のあいだに適度に散らばるものと20と40の間に適度に散らばるものの平均はいずれも30であることを見れば、均すということにも疑いを持たねばならないのだ。確かに男女差はあるだろう。しかし、それよりも問題は個人差だ、という時代に、平均すれば男女差はあると言ってみたところで仕方がない。平均からはずれている人間が男でも女でも苦労する、それが問題なのだから。

25日
ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ2』
(酒寄進一訳・あすなろ書房)
 続き。ほぼ予想をはずれない展開。この話には私を引きつける細部がほとんどない。
 冒頭に荘子の胡蝶の話の引用があるが、「蝶になる夢を見た人間なのか、それとも人間になる夢を見た蝶なのか、判然としない」と書いてあるのを見て、次男が論理的に成り立たない、と言う。前者の仮定は、現在人間であることを、後者は蝶であることを示すから。そう、正しくは、「人間になる夢を見ている蝶」である。たとえ原文が違っていても、特に日本人であるならば、ここで間違えたたまにしてはいけない。こういううるさい読者もいる、ということを考えてものは書かねばならない。(難しいことは経験上知ってはいるが……。私もよく読者に怒られる。)

アンドリュー・ブラウン『ダーウィン・ウォーズ』(長野敬・赤松真紀訳・青土社)
 これはおもしろい。デネット『ダーウィンの危険な思想』にこんな裏があるとは知らなかった。グールド一派とドーキンス一派というのがあって、いがみあっているというわけか。デネットは無神論の立場から、最後には神を持ちだす創造主義者のようなものを攻撃しているのかと思ったが、創造主義者でもないグールドをあたかもそうであるかのように攻撃しているのだった。どうしてこんなことになってしまうのだろうか。デネットは「なんたる低俗な糞ジャーナリズム」という推薦文を原書のカヴァー裏に寄せているそうだが、他人事として読む分には、なんたるおもしろさ、というべきだろう。「クローニンはグールドの名前を聞くと、十字架を突き付けられたヴァンパイアのごとく後込みする」などという表現は確かにただの低俗なユーモアかも知れないが、しかしそれでもおもしろいことはおもしろい。
 著者はイギリス人なのだと思う。本書はアイロニカルな表現で充ち満ちているが、そのおもしろさをこの翻訳は伝えているとは言い難い。苦労のあとはあるけれども、変な日本語になっていて読みにくいところが多い。スーザン・ブラックモアがミーム理論を気に入っている理由の一部は、学生たちが自分自身のアイデアを所有したり創造したりなどしないことをミーム観は彼らに教えるからである、とかね。著者は賢明なことにミームは退け、デイヴィッド・ハルのインタラクター(相互作用子)を支持する。しかし、もちろんこんなのは目に見える現象のただの新しい言葉による置き換えに過ぎない。ミーム理論はおもしろい。しかしそれは竹内久美子のおもしろさである。冗談であると同時に現実の一面を諷刺し、私たちの迷妄を一瞬晴らさせてくれる思考の道具。しかしこれが理論として独り歩きしてしまった途端、別の拘束具(それもデタラメな)になる。そして、現代ではあまりにもそれが速やかにそうなる。人間にとって論理的にわかりやすいことが求められている。それほどに世界は渾沌としているのだ、たぶん。

26日
エリナー・ファージョン『天国を出ていく』(石井桃子訳・岩波少年文庫)
 《本の小べや》の第二巻。『ムギと王さま』全作品を収録したことになる。神話的な世界と現実の交錯を描いた傑作「パニュキス」は必読。

田中貴子『鈴の音が聞こえる』(淡交社)
 「猫の古典文学誌」というサブタイトルが示す通りの内容。目新しい内容はほとんどないが、「猫神由来」では鹿児島の磯庭園(島津の別邸)にある猫神社の由来を語っていて、これはちょっと類書にないので、おもしろい。
 私は鹿児島に縁があるので、磯庭園にも三度ほど行っている。猫神社も、猫を時計代わりに携行したという話も知っている。磯庭園は何度行っても端から端までくまなく歩きたくなってしまう、とても美しい魅力的な庭園である。かつてはロープウェイもあって上の迷路庭園のようなところに行けたのだが、ロープウェイが廃止されてからは行っていない。今でも行けるのだろうか。数年前に訪れたときには、庭園内に猫グッズの店もできていた。話は逸れるが、磯庭園のそばにはじゃんぼ餅(両棒餅)というおいしい食べ物がある。焼きもちとみたらし団子の中間のようなもので、ここでしか食べられない。磯庭園の散策を楽しみ、猫神社に参られたあとは、ぜひともそこへ寄られることをお薦めする。

ジェイ・イングラム『脳のなかのワンダーランド』
(紀伊國屋書店)
 これはダメ。知られたことしか書いていない。本当に一般向けだ。そう言えば『天に梯子を架ける方法』もいまいちだったのだ。よく確かめてから買えばよかった……。

27日
ムロージェク『所長』
(芝田文乃訳・未知谷)
 社会諷刺ものの掌編集。ムロージェクって変。bk1

アレッサンドロ・ボッファ『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』(中山悦子訳・河出書房新社)
 さまざまな動物のヴィスコヴィッツを主人公にした連作短篇集。これは笑える。bk1

福永令三『クレヨン王国の四土神』(講談社青い鳥文庫)
 東西南北を支配する土神によってまずい事態が引き起こされる。『月のたまご』パート2の開幕である。福永令三73歳、今なおシャレとギャグを飛ばしつつ書いている、そのことに感動する。このところ本が出ていなかったので、心配していたのだ。話の内容はともかく、シリーズの続きが出たことはめでたい。頑張れ福永。

長野まゆみ『千年王子』(河出書房新社)
 砂漠の王国と男ばかりの衛星世界を往還する。構造的には『新世界』風。しかしこれはよくまとまっている。落ちも愉快。

ロバート・アーウィン『必携アラビアン・ナイト』(西尾哲夫訳・平凡社)
 『千夜一夜物語』の研究書。翻訳に関する文献研究、東洋の長大な物語についての概説、物語の話型、影響を受けた西洋の作品などを論じる。まったくおもしろくないので驚いた。これではとても値段に見合わない。また、原注に挙げられた書名については、翻訳のあるものは邦題を掲げるぐらいのことはしてもいいのでは。

金光仁三郎『原初の風景とシンボル』
(大修館書店)
 『世界シンボル大事典』『世界神話大事典』の訳者が、これら翻訳の過程で心に留まった神話を紹介する。手、足、目、心臓、馬、牛、狼、鳥、蛇、魚、卵、川、山、洞窟、石、風、弓矢、数、全18項目について、関連する神話や説話などを拾っている。ごく一般的な話題が多く、特に薦めない。

ローベル・エルツ『右手の優越』(吉田偵吾・内藤莞爾・板橋作美訳・ちくま学芸文庫)
 初読。著者はデュルケムの弟子で、将来を嘱望されたが、第一次大戦中に戦死。複葬をめぐる論考「あいだの期間」、両極的世界観を考察する「右手の優越」の二本の論文を収録。現時点では古典として読むほかないだろう。

平井玄『暴力と音』(人文書院)
 ジャズなどの音楽から政治へと向かった評論家の暴力論。いまいち。ベンヤミンの暴力論も当然のことながらさまざまなコンテクストから自由ではない。だからここでベンヤミンの神的暴力を持ちだして、ホロコーストや今世紀のすべての暴力に適用したいという誘惑は、デリダ自身の誘惑なのだ。そして誘惑が表明されたからには、それを引き受けるのはその発話者になると私は思うのだが。そうではないのだろうか? まあいい。よくわからないものについて考えても仕方ない。ホームレス論も民族論もピンと来ない。

28日
井上章一『キリスト教と日本人』(講談社現代新書)
 近世を中心に文献の中に現れたキリスト教観を紹介し、近世の歴史的視点を探ろうとする。井上の視線はたいへんにクール。しかし傍証があまりにも少ないので(GSの性格上)、そのクールさが裏目に出て、いい加減、という印象を与える。篤胤の『霊能真柱』などにも触れているが、一面的。日ユ同祖論とキリスト教社会の東方幻想の紹介によって本書は幕を閉じるが、もうこのあたりになると、あまりにも表面的で、この系統の話に本当は興味がないような感じさえして、こういうものを書くのに適しているとはほとんど思えない。

『パサイ王国物語』(野村亨訳注・東洋文庫)
 マレーの竹取物語として名のみ知られた神話的歴史物語。だがこれは王国の始祖を竹からの異常出生の女児と象に育てられた奇妙な少年としているだけのことで、主筋は、兄弟や親子の相克を含んだ、流血の歴史である。結構暗い。注と解説で半分!

29日
『王女クードルーン』(古賀允洋訳・講談社学術文庫)
 1230年代に書かれたドイツ語文学。絶世の美女をめぐってノルマンディーとアイルランドのあいだに争いが起きるという話。一連のみ引用されている原文を見ると、拍の置き方、踏韻などかなりリズミカルであるが、翻訳はただの散文の分かち書きで、朗唱したいような感じは全くない。ゆるやかな擬古文、あるいは七五調でと望むのは無理な話か。翻訳されただけでも多とすべきか。

ジョゼ・サラマーゴ『あらゆる名前』(星野祐子訳・彩流社)
 孤独な戸籍管理局補佐官が偶然手に入れた女性の資料をもとに、彼女を探索する生活にはまりこむという寓話的長篇。会話を延々と読点で繋いでいく語り口は、内容とも相俟ってきわめてサスペンスフルで麻薬的とも言える。死の意味を問う作品でもあり、いささかこの解決は……という感じがしないでもないが、魅力的な作品ではあった。
 誤植はまあいいとして、どうして当を得ると的を射るをごっちゃにするのか。たまに見かけるけど、やめてくれないかな。本書で「的を得る」としているところは、意味からすると「当を得る」の方が正しい。

30日
篠田真由美『センティメンタル・ブルー』(講談社ノベルズ)
 蒼を主人公とするミステリ短篇集。『ベルゼブブ』が学園小説として秀逸。高校のモデルは篠田さんの母校だそうだが、名前や学園紛争のありさまは、私の通っていた高校(通り名が星稜)を思い出させた。

篠田真由美『龍の黙示録』(ノンノベル)
 吸血鬼もの。『ジュネ』に書いたキリストの物語を踏襲。主人公は澁澤龍彦がモデル。

見田宗介『宮沢賢治』(岩波現代文庫)
 三度目の刊行らしいが、初めて読んだ。詩論のようなのでパスすべきだったのだが、何となく気持ちが動いてつい買ってしまった。やっぱりパスすべきだった。評論として悪いというのではない。個人的な問題。

『どちりなきりしたん』(岩波文庫)
 カテキズム。意味はない。落ち着くため。


6月の雑感 本来ならば『幻想文学』の仕事に追われているはずだが、諸般の事情により手付かずの状態である。『幻想文学』読者のみなさまにはまことに申し訳なく思っています! そのかわり、本を読んで過ごした一ヶ月だった。思ったよりも読めなかったけれども。
 来月からこのページも少し模様替えをします。『幻想文学』関連の情報、あるいは仕事の情況、その他をまとめて報告させていただきます。毎週末に更新する予定ですので、引き続きよろしく。