藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2001年8月


2日
コリン・マッギン『意識の〈神秘〉は解明できるか』(石川幹人・五十嵐靖博訳・青土社)
 原題は The Mysterious Flame 。神秘とは何の関係もない本である。あとがきにも神秘主義者と目されている云々とあるが、訳語がまちがっているのでなければ、英国でも神秘主義の意味は変わってしまったということだろうか。著者の立場は古典的な言い方をすると不可知論で、人間には認知的閉鎖性(cognitive closure)があり、脳の仕組みを理解できない、と言うだけのことである。仮説としては認知できない高次元の可能性まで考えてはみるので、神秘主義云々と言われるのかも。しかしそれは神秘主義じゃなくてオカルト科学じゃないか? そしてマッギンはもちろんそれを信じているわけではなくて、たとえそうであっても人間は知ることが出来ない、と言っているだけなのだ。例えば量子場を持ちだして意識の問題を考えるA・G・ケアンズスミス(『〈心〉はなぜ進化するのか』)にやや似たところはあるにしても、そんな仮説も何も結局わからんのだという、実はまったく異なる立場である。この一冊はいわばソクラテスというか、ほとんど無知を知れ、と言っているようなもので、英国における生物学的な脳研究と心理学研究がクロスするあたりでの学会的なコンテクストで読まなければしょうもないのではないだろうか。
 私は意識が神秘だという感覚が異様に思えるので、さぞかし変な理屈が展開されているのだろうとこの本を買ってみたのだが、ただの常識的な論で、まったく期待外れだった。

藤原帰一『戦争を記憶する』
(講談社現代新書)
 日米におけるヒロシマとホロコーストの記念の仕方の差異から、戦争に対する認識論などを展開。概説なのだけれど、立場の違いや歴史の違いがある現実の中で、〈作る会〉のような発想をどのように捉えることが出来るかということを明確に述べていて、こうした議論に不慣れな人に読んでほしいような一冊になっている。ただしヒロシマとホロコーストとナショナリズムをかなり単純な形で結びつけているところはいささか問題あり。ユダヤ人のアイデンティティと合衆国のナショナリズムとを区別するための考察すらないからである。しかし何より一般向けの書として分かりやすいし、いい加減〈つくる会〉にはうんざりしているので、こういう本が少しは読まれて欲しい。

3日
 前川道介訳『独逸怪奇小説集成』の仕上げ。
 『幻想文学』の誌面の最終チェック。いくら見返しても不安である。

4日
 
『幻想文学』配本のための事務仕事など。

5日
風間賢二『ジャンク・フィクション・ワールド』
(新書館)
 今世紀以降のジャンル・フィクションを概観する。NHKの英会話テキスト連載というメジャー相手の商売だけに、ジャンクと言いながらも実は傑作、あるいはそのジャンルの古典ばかりを取り上げており、かなり基礎的な話が多い(『サイコ』の原作者は知られていないが……というような調子)。ただし中にさりげなく濃い知識を入れ込んでいるのは多読家の著者だけのことはある。

東雅夫『百物語の百怪』(同朋舎)
《百物語》を外題に入れ込んだ怪談集、近世から現代に至る《百物語》の模様を描いた怪談、また一九一〇年代、二〇年代に流行を見た怪談会などについて百章立てで紹介する。カバー写真のセンスが良い。

『ボルヘスの北アメリカ文学講義』(柴田元幸訳・国書刊行会)
 駆け足のアメリカ文学史。ロングフェローからネイティヴの詩にまで言及があるのはさすが。ラヴクラフトやヴァン・ヴォクトに言及があるのもボルヘスならでは。

6日
ロバート・ジョーダン『竜王戴冠』
2・3(斉藤伯好訳・ハヤカワ文庫FT)
 アル=ソア一行とナイニーヴたちの状況を追う。

タッド・ウィリアムズ『黄金の幻影都市』1・2(野田昌宏訳・ハヤカワ文庫SF)
 ミステリタイプの続き物なので、話が見えない。VRがある程度汎用的になった社会で起きる奇妙な昏睡事件に巻き込まれたヒロインとピグミー族の青年を中心に話が進むが、いろいろなシーンが描かれていて、それらがどう関係しているのか見えてこない。ミステリタイプなどというと、いまどきミステリ的でないものがあるのかとまた文句を言われそうだが、実際謎解きで物語を引いているわけで、こんなだと本当に困ってしまう。もっと続きを!
 ところで第二章の冒頭にはモルモン教のことがあり、タッドはどう関わっているのか、気になる。このカルトがどうしてこんなに世界的勢力を持っているのか私にはわからない。『モルモン経』というのは、まったく奇妙な教典なのだ……。

エリナー・ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』(石井桃子訳・岩波少年文庫)
 旅の吟遊詩人マーティンは、恋の病に落ちて閉じこめられている少女ジリアンを救うため、恋に頑なな見張りの少女たちに六つの恋物語を語って聞かせ、牢の鍵を受け取っていく。語りの形式もユニークな、ファンタスティックなラヴ・ロマンス集。

7日
 健康診断。身長が縮んでいなかったのでほっとする。骨密度の検査では「骨は20代」と言われた。骨だけが若くってもね。

森真沙子『東京怪奇地図』(角川ホラー文庫)
 東京の町を舞台に、過去と現在とが交錯する特殊な場で、異界へと入り込む人々を描く。どれにも文学者が絡んでいること、言ってみれば神隠し的状況を描いていることなど、興味深い設定。

日下三蔵編『城昌幸集』(ちくま文庫)
 『みすてりい』は質のよい短編集ではあろう。だが、「人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人」という乱歩の評の方が、城作品よりもよほど詩的であると私は感じる。

8日
エミリー・ロッダ『ローワンと黄金の谷の謎』
(さくまゆみこ訳・あすなろ書房)
 『ローワンと魔法の地図』の続編。つまらない。

ローラント・キューブラー『命の航海』(田中なをみ訳・花風社)
 子供が産まれなくなった世界の謎を追放の王子と語り部が解く。枠物語。あまりにも短くあっけなく、これではダメだろう。個々の物語にはおもしろいものがなくはないのだが……。

ジョゼ・サラマーゴ『見知らぬ島』(黒木三世訳・アーティストハウス)
 完全な寓話。誰も見たことのない島へと旅立とうとした男の物語で、一冊の本にするのはやり過ぎ。この内容なら、絵本にでもすべきだ。あるいは短篇の一作。

レモニー・スニケット『最悪のはじまり』
(宇佐川晶子訳・草思社)
 両親と家を火事で失ったボードレール家の三姉弟を描くユーモア・ファンタジー。発明の天才少女14歳のヴァイオレット、読書家で博識の少年クラウス、赤ん坊のサニーの三人は、家と両親を火事で失う。金持ちだったが遺産は成年に達するまで使えず、主人公たちはひどい親戚のあいだをめぐることになる。もちろんそうなるのは物語を書いた作者の要請だが、設定では親の遺言ということになっている。とんだバカ親である。親戚づきあいというものがなかったのか、友達はいなかったのか、と驚かされる。ここはひとつ国のむごい法律によりとかなんかとすべきだったのじゃないか。どうでもいいけど。

清原なつの『アレックス・タイムトラベル』(ハヤカワ文庫)
 タイムマシンで時間逃亡者になったアレックスたちの物語の連作と、その他のコミカル・ファンタジーを収録。話は普通なんだけど、漫画が下手よ。なんでこんなにギャグ表現が下手?

9日
藤堂憶斗訳『伽婢子・狗張子』
(すずき出版)
 浅井了意の怪談集(抜粋)の現代語訳。あまりにも普通の語り口で、説教師としての了意が前面に出てしまう感じである。怖い話ではなくて、教導譚になってしまうのだ。

福沢諭吉『女大学評論・新女大学』(講談社学術文庫)
 「大きな文字で読みやすい」のだけれど、この薄さでは……。1899年、福沢64歳の作である。にしては若々しいとは言えよう。もちろん当時の偏見を免れてはいないが、当代のオヤジよりもマシか。『新女大学』では要するに女性的に完璧であれ、と言っているのに等しい。女の優雅さ、慎み深さ、美しさ、さらに温順さなどを失わず、しかも家事一般に通じ、家の切り盛りをきちんとして家族団欒にこれ務め、「所謂女学生徒などが、自ずから浅学寡聞を忘れて差出がましく口を開いて笑わるゝが如きは、我輩の取らざる所なり」。ほかにも小説はだめなどいろいろあり。嫁姑問題では自ら悩んだのかどうか、別居を勧めている。

谷川健一『柳田国男の民俗学』(岩波新書)
 谷川先生なんと80歳である。人の目に最も多く触れる新書だけに、ほかに書き手はいなかったのか、と思う。あまりにも情緒的。
 本書は山人論、海上の道、稲作一元論、他界論などについて柳田の立場を述べるが、思いついたままに、という感じが強い。柳田は近代日本の一大巨人であり、文化的にこれほどまでに影響力を持った人間というのをなかなか考えにくいので、やはり、柳田学を概観するのであれば、骨子とその展開という形でまとめるべきではないかと思われてならない。ただし大変に大きな問題なので、それはできにくいのかもしれないが、私のような門外漢ではなく、一意専心してきた民俗学の徒ならばそれができるであろう。

竹内整一『自己超越の思想』(ぺりかん社)
 新装版。近代文学における自己の位置の措定というテーマの評論。副題は「近代日本のニヒリズム」。ニヒリズムとはまた古くさい。しかし、なかなかおもしろかった。まず福沢諭吉が人間は蛆虫にして至尊なり、とする矛盾をそのままにただ自然に受け入れえたのは、天(理)という絶対的なものを無条件に信じられたからである、と述べている。ほかに樗牛、綱島梁川、独歩、花袋、白鳥、泡鳴、柳田などを取り上げる。

石原藤夫『ハイウェイ惑星』(デュアル文庫)
 惑星調査艇ヒノシオ号の冒険。表題作、安定惑星、空洞惑星、バイナリー惑星、ブラックホール惑星の五編を収録。マイクロブラックホールがドラッグになるという発想は好き。ちょっと説明が多過ぎ。なんてったって啓蒙のSFだからね。

箭川修ほか『新歴史主義からの逃走』(松柏社)
 逃走とはいっても浅田彰的逃走である、と前書きにあって、新・新歴史主義なのだ、と言う。私はカルチュラル・スタディーズの一環として新歴史主義批評をとらえており、そのコンテクストからは同一平面上にあるように見えるが、なんだか細かくいろいろあるらしい。面倒じゃ。どうせそんなに大した差ではないだろう。新歴史主義にも個別におもしろいものつまらないものしょうもないものがあるだけだと思う。個別に述べるのはかったるいのでいちいちタイトルは挙げないが、川田潤はトマス・モアの『ユートピア』を、佐々木和貴はエリザベス演劇の『フィラスター』を、フィリップ・シドニー『アストロフェルとステラ』を取り上げる。とんでもなくマイナーであり、少しはアピールしそうな『ユートピア』論がきわめて硬直したものでつまらないために、カルチュラル・スタディーズに相当程度興味を持っていないとだめだろう。個人的にいちばんおもしろかったのは『フィラスター』論。
 ところで浅田の引用において、「積分=統合化に向かう定住型人間と微分=差異化に向かう遊牧型人間」があり云々とあるのに目の玉が飛び出そうになった。私は浅田彰を読んだことがないが、本当にこのように書かれているのだとしたら、浅田もしっかり知の欺瞞をやらかしているわけだ。ああ恥ずかしい。もちろん私だって穴があったら入りたい状況というのはたくさんこさえてきたわけだが……。(東浩紀氏に、これのもとはドゥルーズなのだと教えていただいた。)三連続で間違っている、あるいはいい加減なわけね。どこかで気付けよ! あるいは反省しろ! これを読んで、一般人がふうんそうなのね、と思っても、こういう人たちは平気なのか。信じられない感性である。)

ジェフリー・チョーサー『中世英語版薔薇物語』(瀬谷幸男訳・南雲堂フェニックス)
 ギョーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マンの作品をチョーサーが翻訳したものだが、ジャン・ド・マンが描いた後半部についてはチョーサーではないとされていると解説にあり、なんとも言えない矛盾した著者名と言えよう。これで対訳にでもなっているのならば中世英語版というのも不当とは言えないが、ただの翻訳で、しかも何と現代語散文訳であり、いったい何をどう読めばいいと思っているのか。薔薇に恋する愛人の物語で、恋愛の機微を描いた寓意詩なので、その雰囲気だけを味わえ、ということか。とにかく、チョーサー写本に拠っているのよね、ということだ。

10日
 『幻想文学』61号が出来ました。直接購読の皆さまや著者の方々、書店などへの発送業務で昼間は終わりました。
 本があふれてしょうがないので、本棚を購入して、本を整理することに。夕方から雨がひどく降り、たいへんだったのだけれど、本棚を書庫に押し込み、明け方まで本の整理。疲れたよ~。

11日
チョギャム・トゥルンパ『シャンバラ~勇者の道』
(澤西康史訳・めるくまーる)
 勇者として生きるとはどういうことか、という、「良い生き方」を語る教導書。理想ならばいくらでも言える、ということか。

クリフ・マクニッシュ『レイチェルと滅びの呪文』(金原瑞人訳・理論社)
 別惑星イスレアは厳寒の地。そこに君臨するのは恐ろしい魔女。地球から子供たちをさらっては奴隷にしている……。随所で濃厚に《ナルニア》を感じさせるものの、またラストはかなり御都合主義という印象を受けるが、このところ読んだファンタジーの中では悪くないできである。

キャロル・マタシュ&ペリー・ノーデルマン『スクランブル・マインド』(金原瑞人&代田亜香子訳・あかね書房)
 《マインド・スパイラル》というシリーズの一作目。魔法自由自在だがなるべくそれを使わないことにしている王国、夢想の中ですべてを実現でき、完璧なテレパス能力を持つ人々の王国がある。二国の王女と王子が結婚することになったのだが……。世界を変革できるほどきわめて強力な魔法使いの少女=王女が、婚約者とともに別世界に入り込んで冒険する。キャラがひどい。こんな危険で魅力的な設定をジュヴナイルで安っぽく使って平然としていられるのは信じられない。こんなことではポッターが図抜けて人気が高くなるばかりである。

O・R・メリング『夏の王』(井辻・講談社)
 本書ではメリングは、こちらでの死があちらでの生を、あちらでの死がこちらでの生を、というようなものとして妖精界を捉えている。使命が明かされた瞬間にほとんどの構造が透けて見えてしまうような安っぽい構成にはうんざりだが、現界と異界の重なり合いを描こうとする姿勢だけはとにかく評価したく思う。

12日
森博嗣『堕ちていく僕たち』
(集英社)
 ジェンダーと性別をテーマにした連作短編集。女になってしまう大学生の男、男になってしまう同人漫画書きの女、なぜか互いの性別が入れ替わる心中者などなど、ファンタジーではあるわけだけど、こんなクズを書いててどうするのか。もう何でも出してもらえる作家になったわけね、森さんは。

パトリック・シャモワゾー『テキサコ』(星埜守之訳・平凡社)
 テキサコという土地に生きた、一人の女性の物語。それを祖父の代から語り始めている。マジック・リアリズムとも少し異なる、猥雑な書き方で、同じクレオール文学者コンフィアンともずいぶん雰囲気が違う。小説としてはむしろ通常の手法に近く、個人史とハイチの歴史とテキサコという地区の歴史とを分かちがたく結びつけているところが、魅力となっている。

ニコス・カザンザキス『キリストはふたたび十字架に』(福田千津子・片山典子訳・恒文社)
 キリスト受難劇でキリスト役に選ばれた羊飼いの青年、そして使徒役の青年たち、マグダラのマリア、ユダ役の人々がみな、そのロールをむしろ自らのものとして信仰にのめり込んでいく様を描いている。キリスト教の信仰をテーマにした小説ではあるが、ファンタジーとは少しいいづらい。相当程度心理学的に読める。

水原紫苑『うたものがたり』(岩波書店)
 『幻想文学』58号に掲載の小品を含む、エッセイ集。好きな歌の解説、作家の解読など、硬派の評論のあいまに短い物語が点在する。

14日
中村禎里『狐の日本史~古代中世篇』
(日本エディタースクール出版部)
 全十章にわたって呪術的狐と人間との関わりを述べていく。著者は生物学者なのだが、もっぱら民俗宗教的な側面から狐の歴史をたどる。狐と稲とが結びつくのは、柳田によれば田の神の祭場として残した未開地に狐が住み着いて目に付く挙動をしたのだそうで、それを肯定しつつ、著者は狐の体色と稲穂の類似を挙げたいと言う。柳田の説はあまりにも情緒的で私には首肯しがたく、まだしも体色の類似の方が納得できる。このような精査による著書を読むと、どうして山に生息する生物学的な狐とか、毛皮としての狐とか、あるいは害獣としての狐とか、あるいは食肉(そんなことがあったとして)としての狐とかそういうことが語られないのか、と思う。そういう視点の話ではない、というのは確かにそうなのだが、そ思ってしまうものは仕方がない。

ベルント・レック『歴史のアウトサイダー』(中谷博幸・山中淑江訳・昭和堂)
 近世ドイツのマイノリティの種々相を概観する。結論で著者は言う。理性は、「政治的・社会的行動の基準として浸透することはなかった。現代から見ると……文明化の過程は、わずかな者の試みであることがわ明らかになる。そこに見られるのは、輝かしい無敵の進軍ではなく、ファナティズムと非合理性からなる広大な原野での幸運な少数の人びとhappy fewの孤独な探検である。」と。まさにその通りだと思う。アウトサイダーの歴史を見ることは、歴史の中でも理性の利かない部分を見ることにほかならないだろう。

小池真理子『肉体のファンタジア』(集英社)
 骨、目、乳房、臀、背中、子宮など18章にわたって肉体をめぐるあれこれが綴られている。子宮筋腫の話など書いてもさまになるのは小池さんのように麗しい人だから(ホントに素敵な人なのだ)、などと思ってしまうのはひがみというものだろう。こんなものが嫌みでなく読めるのはまったく文章のさりげなさによるのである。

カマ・カマンダ『漆黒の王子』(高野優監訳・バベル・プレス)
 バベル翻訳センターの受講生などによる翻訳本。語りもの文芸を翻訳するという難物を無難にこなしてはいる。吟遊詩人グリオが語るという形式で36の民話的物語が収められている。

カフカ『城』『変身』(池内紀訳・白水社)
 『城』の初読のときいちばん印象深かったのは、城の遠さであった。再読したときに印象深かったのは、双子のように見える助手の跳梁ぶりとフリーダとの最初の交わりである。今回は、こんなに女にばかりかかずらっている小説だったろうか、というものであった。城はさらに遠く、宿屋のイメージが強くなり、『審判』と重なった。そしてサイドエピソードであるオルガ、アマーリア、バルナバス一家の物語がきわめて印象深くなる。結局測量士とは測量ではないのだ。そしてこれはカフカにとってのリアルな人生そのもの描いているのだということがわかる。一章に「妻子を残して」とあるのを見、なんだこれは、と思ったのであるが、こんなものも誰かが解析しているのであろう。
 『変身』には生前に発表された作品が収録されている。小品集『観察』『判決』『火夫』『変身』『流刑地にて』『田舎医者』『断食芸人』の七冊と雑誌・新聞掲載分。『田舎医者』というのは初めて読んだカフカなので、忘れがたいものがある。『変身』『流刑地にて』も別の意味で印象深い。しかし読み返して『観察』がいちばん好きだと思った。これはいわばカフカの初期詩編なのである。「山へハイキング」「ひとり者の不幸」の自虐的なユーモア、「ぼんやりと外を眺める」など、とてもよくわかる。わかる、という以外にはあまり言葉を費やしたくない。『判決』は『審判』の一部、『火夫』は『失踪者』の第一章である。呆然というところで吊然となっていたりする。誤植だよ、新しい言葉じゃないからね。

15日
上橋菜穂子『虚空の旅人』
(偕成社)
 《守り人シリーズ》外伝。よくまとまったファンタジー。戦争テーマではあるけれども、その前哨戦の陰謀を描いているところがさすがである。相変わらず整然と立てられた構想に破綻はなく、ただ物語の長さの割には人物が多過ぎるという印象を受けた。外伝という性格上、その点は大目に見たものか。

ローリング『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(松岡佑子訳・静山社)
 前回とパターンがほぼ一緒で、あまりにもひねりがないが、たぶんだからこそ良いのだろう。

《怪異の民俗学》8『境界』
(河出書房新社)
 境界は怪しい、というので一致している。しかし捉え方はさまざまで、いつでもどこでも境界になりうるということでもあるように思う。禁忌と思はばすべて禁忌なり。山口昌男の論「境界と記号」が「海外の論では」の繰り返し、その果てに民俗学へやってきて境界と記号的印つけの話になる。なるほど、説得力があるのだが、今読むと、この海外の論調の引用に次ぐ引用が何と滑稽に思えるだろう。

嵐山光三郎『日本詣で』(集英社)
 各都道府県と東京二十三区の思い出を綴る。旅、というより、交友録のごときものであり、青春の思い出でもある。また食い物紀行的にもなる。菊坂の下宿で夢の女と交情をもつ話(嵐山は夢の世界を描くのが好きなようだ)などもあったりして、ますます地域的話題からは離れる感がある。旅好きな人は誰もが、自分が書いたらこうはならない、と思うのではないか。良くも悪くもそれが著者の個性ということだろう。

16日
ハインライン『宇宙の戦士』
(矢野徹訳・ハヤカワ文庫SF)
 SF大会「日本SF論争史」パネルのために再読。『日本SF論争史』の当該部分なども。『宇宙の戦士』は要するにオヤジの書きそうなSFである。ハインラインは合衆国の大衆の心を巧みに掬い取る流行作家であって、時代背景を抜きに語れない作家だとつくづく思う。資料として出しておいた『月は無慈悲な夜の女王』を長男が読んで、すごくおもしろい、と言っていた。政治的なものを虚構化したところがおもしろいという。パワーゲーム、陰謀といった駆け引き的な部分がゲーム好きのツボを刺激するらしいのだ。ベトナム戦争反対運動が盛り上がる中で書かれたということは、日本の若い子には何の関係もないし、実際パワーゲーム的なものを愉しむのが普通の読み方だろう。現実から遠く離れてファンタジーを愉しむというのが、物語の読み方だが、それが実は現実にフィードバックされているかもしれないというあたりが――例えばベトナム戦争ではSF的な兵器の投入がマジで考えられたりした、殆どが挫折したようだが――ハインラインのような大衆作家の怖いところではないか。例えば宮崎駿なども。まだ『千と千尋』を見ていないが、「生きる力を引きだしていく……」というような予告編だけを見ていると、『宇宙の戦士』同様、のほほんとした奴は厳しい環境に放り込んで奉仕作業をさせろ、というような話なのかと思われてしまい、子供たちに強制ボランティア(語の矛盾もいいとこ! ただの強制的無料奉仕だろう)をさせろ、といった風潮とパラレルなのだろうか、などととりとめもなく考えてしまうのであった。

17日
パスカル・キニャール『ローマのテラス』
(高橋啓訳・青土社)
 17世紀を舞台に、一人の銅版画家の生涯を点描風に描く作品。人生の初期に出会った宿命の恋人、あるいは最高の恋愛の思い出を抱いて生き、各地を放浪し、勘違いとはいえ息子から傷を負わされ、結果的に命を奪われることになる。そんな生涯の概略や作品のいくつかは紹介されるが、銅版画家としての全体像はなおも曖昧なままに留まる。キニャール特有のフェティッシュな感覚、時としてひどく男根的な感性を、私はあまり理解しない。ただし、小説としては味わいがある。もっとも、中篇を一冊の本にしないで欲しい、と思う。

チェコアニメを観る。PAT&MATの生活が年を経るごとに変わっていくのが、チェコの国の実情を垣間見せて興味深い。ポヤールもトルンカもいいけど、上映作が古すぎる。どうせ古いものなら、観ていないものが多数あるカレル・ゼーマンが観たいですな。どこかで上映されていたりするのだろうか。

18日
小野不由美『黄昏の岸・暁の天』
(講談社文庫)
 今頃読むことになるのなら、Xハート版だけ買えばよかった。すごく損をした気分である。『魔性の子』の裏に当る話。うーん……。神々が出て来るのだけれどね……。難しい話に入り込んでしまう作家だな、小野不由美は。これでまた続編が書きにくくなったのではないか。あるいは開き直って書けるようになるか。難しそうだな。

SF大会。『SF論争史』のパネルに参加したけど、うまく喋れない。どうしたら永瀬唯さんのように立板に水で喋れるのだろう? 永瀬さんはコスプレ(『ノービット号の冒険』のヒロインの一人)で現われ、今日は「ゆい」です、などとたまうのだけど、喋り出すと、いつもの永瀬「ただし」であった……。

19日
テリー・グッドカインド『魔道士の掟』
(佐田千織訳・ハヤカワ文庫FT)
 『伝説は永遠に』の中にあった「骨の負債」の本篇に当るシリーズの登場である。これもまたあまりにも厚いので一冊分が五冊になるそうで、毎月刊行だとか。ポッター現象の一環か、ファンタジー文庫も少しは量を出すことになったようだ。少なくとも『時の車輪』のような異様な多視点の作品ではなく、話の展開はすらすらとしていて、なおかつキャラクターもわかりやすくて感情移入しやすい。『時の車輪』の如く登場人物がみんな傲慢で苛々しているようでは疲れて仕方ない。RPG型ファンタジーの典型とも言える、パーティ組んでクエストして敵を倒す、というパターン。まあおもしろい。bk1

SF大会二日目。最後の90分に行きたい企画が全部重なっている。何とかならないのか。菊池誠のハードSFを聞きたかったのだが、やはりどうしたって神林ワールドに行ってしまうのである。

20日
 返品の引き取り。
 渋谷に出たついでに『チェブラーシカ』を観る。正体不明の熊の子みたいな猿みたいなチェブへラーシカがワニのゲーナと繰り広げるほのぼのアニメ。70年代のロシア映画なので少しだけその傾向があるが、とにかく可愛い人形アニメなのである。あまりの可愛らしさに、思わず溜息。ロシア語はまったくわからないが、非常に耳に快い言語で、それがまたよい。チェブラーシカ役の女性(だろう、たぶん)がまた愛らしい声を出すのである。ユーロスペースで少なくとも今月一杯はやっているとのこと。時間の許す方はぜひどうぞ! それにしても観客のほとんどが女性だったな……。

21日
ピーター・ディッキンソン『過去にもどされた国』
(はやしたかし訳・大日本図書)『悪魔の子どもたち』(美山二郎訳・大日本図書)『青い鷹』(小野章訳・偕成社)
 故あってディッキンソンを読み返している。児童文学にもこんなに翻訳があったことを知らなかった。『青い鷹』はかなり昔に読んだのを思い出した。しかし印象が薄く、ディッキンソンだという意識もなかったようだ。前に『マーリンの夢』のところで偉そうなことを書いてしまったのだが、きちんと調べて欲しいのは、まったく自分の方である。情けなく、申し訳ない。
 さて、『過去にもどされた国』は、突然にイギリス全土の人民が機械を憎むようになってしまい、また機械文明の記憶も薄ぼんやりとしたものになってしまうという設定。遺伝的に機械を憎まずに済んでいるうえに、天候を操る魔法まで手に入れた少年と、その妹が、この狂気の原因を探り出す破目になるというものである。この作品を基点として《大変動》三部作というものをディッキンソンは書いていて、『悪魔の子どもたち』はその三作目。異変の初期に親とはぐれた一人の少女が、異変の影響を受けていないシーク教徒の一団の中で生きていく姿を描いている。なお第二作はある意味で落ち着いた中世的世界を描いているようだが、邦訳はない。
 『青い鷹』は、古代エジプト風の世界を舞台に神の鷹と心を通いあわせた少年神官が活躍する話である。……とこのように要約するとまず本書の内容を正しく伝えたことにはなるまい。神とは何か、というのがこの作品のテーマの一つであり、それはある意味で《大変動》にも通じており、かなりSF的な理解のように見える。同時に神秘的でもあるのだが。『眠りと死は兄弟』のようなオカルティックな設定でもSF的な感じが漂っているだろう。SF作品も書いているわけだし。
 ところで『悪魔……』の訳者は、あとがきで『過去に……』について「混乱を逃れてフランスにいたので、狂気の影響を受けなかった……」と解説しており、これは明らかに間違いである。そして『青い鷹』の訳者はこれをそのまま敷き写している。『悪魔』については正しい解説で、なおかつ未訳作の内容も述べているので、『過去』だけは読まずに敷き写したものだろう。こんなことは言ってみれば日常的なことであるのかもしれない。しかし、私は一次文献からこうした引用の元になるかもしれないような原稿を作っている人間なので、こういう現象を見ると、ひどく不安になる。細部で間違えてしまったとき(そういうことは多々ある)、また他人の読みにひきずられてきちんと内容を読みきれなかったとき(こういうことも、ままある)、それがそのまま他者に引用されてしまうことを怖れる。また、自分の理解が生半可であって、その知識で間違ってしまうことがあるのではないかということにも恐れを抱く。『新歴史主義からの逃走』微積理解でも思ったが、過ちが蔓延していく恐ろしさも感じる。それなら書かなければ良さそうなものだが。
 もう一つ、『青い鷹』の編集者の要約(永遠に追放され砂漠をさまよう云々)も間違っていると言わざるを得ない。『レイチェルと魔法』でも「降る雪さえ黒い」とあるが、これはやはり間違いだろう。「灰色の雪」とはあるけれども、黒というのは言い過ぎだ。自分も似たようなことをやってしまうだろうから、そのエクスキューズのために(みんなやっている……などといった)こんなことを言っているわけではない。なぜこんな間違いをしてしまうのか、編集者には同情する余地があるのかないのかも分らない。売りたい一心の勇み足なのかただのバカなのか。ただ、私としてはデタラメを正しておきたく思うだけなのである。

22日
藤木凛『テンダーワールド』
(講談社)
 人類進化と終末論を基調としたSF長篇。なんだこの展開は? オカルティックな話題を詰め込めばいいというものではないだろう。文章とか言葉遣いとかも、何とかして欲しいものだが。

春日キスヨ『介護問題の社会学』(岩波書店)
 フェミニズムの視点から分析した介護問題。介護を望むのはまずは妻、息子ではなく娘、息子しかいなければその妻、と、家族中心、女性中心に介護者を考えてしまう、近代的な制度の陥穽を突いた研究書である。
 結婚相手として年上の男性を選ぶのはなぜか、といった女性同士の茶飲み話で、五歳ぐらい上でようやく精神年齢的につり合う、年下は頼りにならないし、たいていの男は女にリードされ続けると癇癪を起こすだろう、などと言いあったりする。だが本当のところ、こんなふうに思わされ、年上の男を選ばされているのは、男たちの死ぬまで妻に世話をさせよう、自分は先に死んで妻の世話なんぞ見るまい、という戦略にひっかかっているだけではないのか……という意見も出てくる。実際、この経済(営利企業)中心の日本の現代社会では、あらゆる制度がその方向を向いているように思えることもある。障害者の介護問題でも、母親の悩みは海のごとくに深いのである。父親が悩まないわけではないが、母方の親族の方が父方の親族よりも障害児援護に積極的だという一事をとっても、母親の負担の大きさが思いやられるのである。

野々山真輝帆編『ラテンアメリカ短編集』(彩流社)
 ルベン・ダリオ、ネルボ、パルマ、キロガ、オネッティ、アレオラなどによる、幻想短編集。アレオラ「ポイント操作係」は「転轍手」の新訳だが、翻訳の雰囲気が大分異なり、ああこういう明るい読み方なのか、と驚いた。勉強にはなったが、とはいえ既訳のあるものではない、別の作品を望みたかったようにも思う。

中西進『日本人の忘れもの』(ウェッジ)
 日本語の語源解説などから伝統的な精神文化を見直そうとする。ツッコミがいのある本だが、面倒なのでやめておく。一昨年、25歳の愛娘をスキューバダイビングの事故で亡くされたことまでが書かれている。

アナ・クィンドレン『黒と青』(相原真理子訳・集英社)
 ドメスティック・バイオレンスを描いた長篇小説。あまりにもリアルであると同時にゴシック・ロマンス的な陰惨さ。暗い。

大山真人『銀座木村屋あんパン物語』(平凡社新書)
 時代背景やあんパンを愛して支援した人々を中心に、あんパンをめぐるドラマを描き出す。木村屋の立志伝的な側面は薄い。
 下級武士が猛勉強して何かを成し遂げるという話は多い。本書でも逃げ場のない下級武士だからこそなのだ、と強調されているが、もしも「日本の誇り」などというものがあるとしたら、こうした個々人の中にあるのであり、また彼らによって開発された技術そのものの中にあるのであろうと私は思う。胸を張って誇れる「国家」など、有史以来、世界中にあった例はないのである。つまるところ、日本人という見方からして既に偏頗なのだ。人間の誇り、なのであろうと思う。そしてやはり人類全体を見てしまえば、誇れるようなものではないのは明らかである。

23日
前川道介訳『独逸怪奇小説集成』
(国書刊行会)
 28編収録の短編集。怪奇党だけではなく、SFマニアにもお薦めしたい。柳川さんの装幀がとても綺麗で、たいへんに嬉しい。bk1

「子供と楽しむモダン・デザイン」(埼玉県立美術館)を観に行く。1930年頃までの美術の力の凄さを思う。文学でもそうなのだけど、新しいというようなものはこのころまでに出尽くしているのではないかと思ったりしてしまう。それもまた幻想なのだろうけれど、そんな感傷を抱かされてしまうのだ。
25日
ロバート・ジョーダン『竜王戴冠4青アジャの砦』
(斉藤伯好訳・ハヤカワ文庫FT)
 ミンや元アミルリン位たちが白い塔を追われた異能者たちの結集地にたどり着く。

26日
アニメ『アリーテ姫の冒険』を観る。原作が正真正銘のクズなので、まるっきり違う話になっているのはわからないでもないが、それならどうしてこんな原作を選ぶのだ? もしもこの原作なら補助が出てアニメが作れるということであれば(そうなのかどうか知らないが)、補助する側の人たちはこれでいいわけか? いずれにしても理解できない。職人の物作りのシーンから始まって、吹きガラスとかろくろによる成形なんかを見せるわけだけど、これがひどい。アニメは現実の再現を目指すものではない、別の芸術表現なのだ、だから現実を越えられる、と思ってアニメを観ている人間には、あまりにもつらすぎる絵。何とかしておくれ。

タッド・ウィリアムズ『黄金の幻影都
市3』(野田昌宏訳・ハヤカワ文庫SF)
 話がだいぶ見えてきたが、このままでいくとネタがつまらなそうだ。大丈夫か?
 南アの現状というのは私にはよくわからないので、未来のそこを舞台にしていることにどんな意味があるのか、予測として果してこんなものなのだろうかと疑問を感じてしまう。

ゲルハルト・シェーンベルナー編『第三帝国のユダヤ人迫害』(栗山次郎ほか訳・柏書房)
 1962年刊行。迫害にあった当の人々の証言集。また命令書、レーマー教授の恐るべき日記など、ナチス側の書類も含まれている。

27日
レニ・ブランナー『ファシズム時代のシオニズム』
(芝健介訳・法政大学出版局)
 社会運動家にしてアンチ・シオニストの著者によるシオニズムの徹底批判。特にシオニスト改訂派(レヴィジョニスト)はファシストであると断言し、イスラエルがいかに血で贖われた国家であるかを糾弾する。本書は83年刊でシオニズムに関しては基本的文献のようで、本書の後を追うように同様の問題を追及した研究がなされているようだが、詳しいことは門外漢の私にはわからない。本書ではともかくも、シオニストがフェルキッシュであるという点においてナチスと相同であることが強調されている。相似というよりも立場としてポジ・ネガ的ではあっても、要するに同じ思想だったのだと。それゆえにナチス、ファシズムへの抵抗運動の可能性を摘み取ってしまったのだ、と。もちろん抵抗がなかったと著者は言っているわけではない。その規模の縮小、さまざまな機会の逸失など、具体的に記述している。
 また日本の満州におけるユダヤ人の扱いについても触れており、それはきわめて御都合主義的な(虫のいい)ものであったことが語られている。
 非常に衝撃的だったのは、ヴァイスマンデル『ミン・ハマイツァール』(絶望の淵から)の引用で、シオニストのシュヴァルプが1943年の時点で「我々は血を代償にしてしか祖国を得られないのです」と手紙であからさまに述べているところ。シオニストの指導者による選別問題どころではない。戦後の交渉でイスラエルを獲得するためには、多くのユダヤ人の血が流れていることが必要だという、信じがたいような、だが、いかにもありそうな発想である。本書を読むと、以前に読んだニール・ゴードン『犠牲の羊たち』は問題を卑小化させた作品と見なすこともできる。
 著者の観点には反論もあるに違いないが、一次資料を駆使した著作であり、その意味では信頼に価するものと思う。この書物の後で書かれた関連書目に、訳者には触れてもらいたかった。

朝倉喬司『誰が私を殺したの』(恒文社)
 59年、72年、97年に起きた三人の女性の殺害事件。性生活が引き起こした事件と見て、それぞれの時代相を背景に解説する。

城山三郎『指揮官たちの特攻』(新潮社)
 最初の特攻、最後の特攻を敢行した二人の大尉に焦点をあてたドキュメント。作品としての出来はいまいちだと思うが、しかし何にせよ、著者は書かずにはやりきれなかったのであろう。
 櫻花とか回天、伏龍などの人間兵器のことを考えるだけでも鬱勃たる怒りが湧きあがる。一体こういうような作戦を考える軍上層部にどのような同情の余地があるのか。村上龍やつくる会の楽天性が私には信じがたい。西尾幹二は教科書がベストセラーになったことについて、バカなことをまた言っているようだが、いい加減にしてくれないか。

田久保英夫『生魄』
(文藝春秋)
 先ごろ無くなった著者最後の短編集。男の女への思い、執着を描いたもの。

スコット・マッカートニー『エニアック』(日暮雅通訳・パーソナルメディア)
 最初の電気的コンピュータ・エニアック開発のドキュメント物語。果してコンピュータの発明者は誰か、という大問題をテーマにしており、訳者でさえも本書に対してきわめて慎重な態度を取っている。本書の要旨はノイマンはその物理学者としての地位にものを言わせた横取り野郎であって、真の開発者は技術者エッカートと最初の発案者のモークリーのコンビであるというもの。理論のもととなったアタナソフなども復権などおこがましい、といわんばかりである。私自身は、最初の……という栄誉はともかく、現実に作り上げたのがモークリー、エッカート・チームであるのは明らかである以上、技術的な面をさまざまにクリアしている彼らに味方したい気分になる。プロジェクトXみたいなものが好きなのだよ、結局。京

28日
ピーター・ディキンスン『キングとジョーカー』
(斉藤数衛訳・サンリオSF文庫)
 架空の英国王室(現代)のスキャンダルを背景にしたミステリ。英国民でないとおもしろくはないのでは。それにしてもディキンスンはどうしてレズビアンを描きたがるのだろうか。

ジョン・ベレアーズ『闇にひそむ影』(三辺律子訳・アーティストハウス)
 《ルイスと魔法使い協会》の第二作。呪われたお守りのコインを活性化させてしまったルイスの危機を描く。一作目と同パターンの展開。それにしても克己心の非常に弱い、でぶで弱虫の少年というのは、いくらみなしごとはいえ、私の同情を誘わない。合衆国ではどうしてこれに人気があるのだろうか?

豊島与志雄『スミトラ物語』(銀貨社)
 童話作品の代表作が三冊に分けて刊行されているらしい。これは第三巻である(2000年9月刊)。表題作と「街の少年」の短篇二本で1500円はないだろうと思う。豊島は全集が出ているはずだが、それの入手は出来ないのだろうか。童話はほとんど読んでおり、買う必要もないのに、装幀が綺麗だったのでつい買ってしまった。バカである。

29日
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いは誰だ』
(野口絵美訳・徳間書店)
 《大魔法使いクレストマンシー》四部作の一作。このシリーズの第三巻は偕成社から『魔女集会通り26番地』というタイトルで出ており、新刊で入手できたはずだが、本書のあとがきでは絶版となっていて、権利がゆずられたものらしい。偕成社版はなくなるのだろう。それはともあれ、このシリーズは以前から全訳されないものかと思っていたものなので、実現してたいへんに嬉しい。スタジオ・ジブリがジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』をアニメ化するらしいので、そうしたタイミングもあったのだろう。
 20世紀のイギリスだが、魔女・魔法使いが火あぶりになるような奇妙妙な世界。「クラスに魔法使いがいる」という告発状が書かれたことから大騒動がもち上がる。ジョーンズはあまりよく練らずに物語を始めてしまったのではないか。『魔女……』とは設定が異なるように思うが? ストーリーもいささか強引だが、さすがに腕力はあって、ぐっとまとめあげている。全体のトーンは暗い。私はジョーンズの児童文学者としての欠点は、厭な女の子を絶妙に描きすぎるところにあるのではないかと思う。いじめの場面など、読んでいて、いささか辟易させられるのである。

テッド・ヒューズ『クジラがクジラになったわけ』(河野一郎訳・岩波少年文庫)
 11の動物起源譚。ずいぶんと残酷なユーモアだ。子供に読ませたいとは思わない。

30日
ウスペンスキー『チェブラーシュカとなかまたち』
(伊集院俊隆訳・新読書社)
 アニメ『チェブラーシカ』の原作。アニメの方がはるかに可愛いが、物語としてはこちらの方が筋が通っている。

パトリシア・マラクラクラン『海の魔法使い』
(金原瑞人訳・あかね書房)
 海の魔法使い一家に生まれたユニークな赤ちゃんが名前を獲得するまでを描いた愛らしい小品。去年の出版。こんなものが出ているとは知らなかった。

31日
ポール・スチュアート『崖【がい】の国』
(あかね書房)
 突きだした崖の上にあり、川は深淵に向かって流れ落ちる。一見ディスク・ワールドを思わせる世界である。狩猟採集民やグロテスクな生態のトロルたちの住む森から近代工業の街までを擁する崖の国はしかし、むしろSF的で、さまざまなユニークな生態が見られることに特徴がある。しかし、こんなにも圧倒的な力を持つ凶暴な生き物が多くては、生態系がかなり過酷であっという間に荒廃しそうだと思ってしまう。まあしかし、そういうふうに考えてはいけないのだろうな。醜いアヒルの子、貴種流離譚、何でも良いが、とにかく拾われた子のトウィッグは育ての親のウッドトロル(樵がなりわい)のもとから自分の運命を探しに旅立つ。危険な森を抜けて空賊(空の海賊)の仲間入り(船長は思った通りお父さん)を果たしたトウィッグの運命はいかに……。というところで三巻で終わるものの一冊目である。
 三冊でもFT文庫なら『ラプソディ』ほどの長さもないだろう。一冊で見ても、厚いわりに、量的には『クレストマンシー』ほどもない。イラストが多くて、若干マンガ風だが、このイラストがリアル系でグロテスクなので、イギリス人ってヘンとまたしても思う。

『ジュラシックパーク3』を観る。このいい加減なスクリーン・ストーリーは……要するに遊びで作ったんでしょう。CGは今や特撮よりも安価なのか?と思ってしまう。


8月の雑感夏休みが終わった。長いようで短い。8月は普通は休息の月で、本を読み、子供と遊んで過ごすのだが、今年は『幻想文学』がずれたせいでちっとも時間が取れず、山にも登れなかった。ちょっと金峯山に遊びに行っただけ。まったくひどい。本の山が低くならないのも切ない。
 FFXを長男にやらせてCGのオープニングとエンディングを観た。ゲームでこのきれいさ! 予告編で観る映画の Final Fantasy も凄いものがある。神林長平の『戦闘妖精雪風』のOVA(SF大会で製作発表を見た!)も戦闘機などはCGなのだよね。コンピュータ関係の才能があって、この二十年間のCG業界にいられたらおもしろかったろうなあと思う。