藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年7月


カナリヤの会編『オウムをやめた私たち』(岩波書店)
 オウム真理教を脱会した元信者が運営する更生組織・カナリヤの会の会報に寄せられた元信者の手記と座談会。興味深い。若い時代にはやはり理想という幻想が用意されていることが必要だと感じた。(京)
又吉栄喜『海の微睡み』(光文社)
 沖縄の離島を舞台にした恋愛小説。幻想味はなし。パス。(京)

三田誠広『中年って何?』(光文社)
 だから全共闘世代は嫌いだ、と思わせる内容。子供のときに浅間山荘事件をテレビで見ていた世代(私はもろにこれに当たる)は、団塊の世代を薄汚いものと思ったのではないか、という指摘には大いに納得。(京)

荒井一博『文化の経済学』(文春新書)
 経済活動がその国の文化、言い換えれば国民の世界観・倫理観といかに密接に関わっているかを論じ、シドニーでの体験から利己主義(生き馬の目を抜くというタイプの)が袋小路状態を生むことなどを例に挙げ、私利追求が最も効率が良いとする新古典派経済学批判を展開する。期待、言い換えれば幻想が経済行為を含む社会生活全体を支えているということのあかさらまな指摘は相当におもしろい。ただJCOの事故についての判断は浅薄。村上陽一郎『科学の現在を問う』の事故の原因はQC活動の延長上にあってただの手抜きとは違う、科学的基本知識の欠如の方が問題という指摘の方がずっと納得させられる。日本にはキリスト教徒はいないというアメリカの男性の言葉の引用も不用意なうえに無意味。重箱の隅的指摘だと我ながら思うが、気になる。(京) 池央耿監訳『旅を書く』(河出書房新社)
 イギリスの文芸誌・グランタが選んだ、1980年後半から90年にかけてのベスト・トラベル・エッセイ集。ジャーナリスティックな旅の記録が多く、崩壊期のルーマニア旅行は中でも圧巻だ。文芸的な作品としてはガルシア・マルケスの「ガリシアの雨」が小品ながら抜群の味わい深さ。チェコスロヴァキアの獄中作家を訪ねる奇妙な旅を描いたグレアム・スウィフトの「イジー・ヴォルフを探して」も一種の不条理小説めいておもしろい。幻想味のある作品としては、アメリカの空港を戯画的に描くトッド・マキューアン「大人国」。ユーモラスで楽しい。(京)

ゲーリー・スナイダー『野性の実践』(山と渓谷社)
 日本で禅を学び、ビート・ジェネレーションに大きな影響を与えた詩人スナイダーが、タオ的に生きる生き方を、神話伝説や道元の解釈などを通じて語りかける。タオにのっとって生きる殺し屋がかっこいいギブスンの『フューチャーマチック』を読んだばかりだったので、何とも複雑な気分。スナイダーは言語表現ということになると、詩人だからか感傷性が滲む。そこのところがどうも苦手だ。しかしタオ的に生きるということ自体には共感できる、といったところか。(京)

池上永一『レキオス』(文藝春秋)
 フリーメーソン、黙示録の実現、悪魔などのオカルトと、ノロ、ユタ、そしてセヂ(マナのようなもの)といった沖縄的神秘主義とが絡み合う本格オカルト・ファンタジー。時空の移動、もう一つのあり得たかも知れぬ沖縄、混血のアメレジアンの理想郷など、帰属すべき《場所》をテーマに壮大な物語を展開。ギャグとシリアスの噛みあわせがちょっと……と感じるところもあるのだが、しかしとにかく、頑張れ池上、負けるな永一、本格的なマジックリアリズム小説が書けるのは君しかいない。『百年の孤独』を超えて行け!

山岸俊男『社会的ジレンマ』(PHP新書)
 環境問題のように、個人の実践すべきことは分かっていても、それをすると自分がバカを見るだけなのでやらない、というような問題を社会的ジレンマと呼ぶ。そしてみんなが善人なら私も善人になろう方式だと、社会的ジレンマが解決するということをゲーム理論に沿って説明。今さらゲーム理論かよ、と思わないでもないが、集団生活を築いてきた類人猿時代から、こういう方式で問題解決を図ってきたというあたりはおもしろい。これは社会学の分野か?(京)

岸本葉子『もうすぐ私も四十歳』(小学館)
 東京新聞の新刊案内の仕事をするようになってから、以前なら死んでも読まないような本を読むようになった。大半はそれなりにおもしろいが、時にはこういう本当にどこを読んでもつまらなくしか感じられない本もある。(京)

伊井直行『濁った激流にかかる橋』(講談社)
 町を二分する激流の上に巨大で複雑な橋が架けられているという設定で展開する連作長篇。伊井直行が久々におもしろい長篇を書いたと感激。bk1

井家上隆幸『20世紀冒険小説読本〔日本篇〕』(早川書房)
 日本の現代小説で、世界と日本との歴史的な関連を背景にした作品約80冊を取り上げ、紹介したもの。注の方が長く、参考書・関連書の方が圧倒的に多いところがすごい。ハイパーテクスト的。評論を書くのであればこんなものを書いてみたい。(京)

岡崎祥久『楽天屋』(講談社)
 モラトリアム男を描いた短篇集。文芸としては文章が今一つ。ユーモアをもう少し磨いて欲しい。「なゆた」には、絵の具から生まれた女の幻想、私がさまざまな私に分裂していくさまの幻視など、幻想的な要素が若干なくはない。全体としてはパス。(京) 金森修『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)
 のめるようにして読んだ。これはおもしろい一冊だ。《サイエンス・ウォーズ》というのは別に科学的な手法による戦争ということではなく、90年代半ばのアメリカに勃発した科学者と科学論者との論争である。科学論というのは、歴史学・哲学・社会学の立場から科学を見つめ直し、科学の純粋客観性に異議を唱えるような研究を総称するもので、フェミニズム的な視点で科学史をとらえ返すダナ・ハラウェイ『霊長類の見方』などがその典型的な例の一つだ。例えば村上陽一郎は『科学の現在を問う』(これもたいへんにおもしろかった)などで、科学者というのは突き詰めれば自分の好きなことをやっている存在なので、芸術家に似て倫理を無視しがちであると述べ、科学者に自制することを求めているが、金森修もまた、科学者が自分を正当化するために弄する策を手厳しく非難している。だがこんな風に一面的な要約をしてしまうと「科学論に反感を覚える科学者たち」が再生産されるという危険がある。本書は科学論の立場に立つ著者のものだが、科学に対しても公平な姿勢を極力取ろうと努力している。もちろん科学論自身が、「科学も政治的(最も広い意味でのそれ)な影響を免れない」とする論なわけだから、自分の言説がどっちにしろどこかへと傾くのは承知の上で、そうあろうと努力していて、とにかく誠実・まじめな印象を受けた。歴史全般、隠された意図、フェミニズムなど、簡単には見えない構造の中で、自明のものとして語られる言説に疑問を抱かざるを得ない人々は必読。

ポール・ホフマン『放浪の天才数学者エルデシュ』(草思社)
 数学者の伝記ほどおもしろいものはないと私は常々思っているが、それは世間の一般的な感性とはちょっと違うものだろうと感じてきた。しかしエルデシュの評伝と20世紀数学史のトピックとを絡めた本書は、一般的にもどうやらかなりおもしろいものと認められたようだ。4月に初版が出てから、二ヶ月のあいだに四刷まで行っているからだ。私の持っている本はこの6月のもの。エルデシュはハンガリー系のユダヤ人で、世界を放浪しながら若い才能を求め、相棒を発見すると「私の頭は営業中だ」と言って直ちに数学の問題にとりかかったという。エルデシュのすごさは、83歳で死ぬまで数学を続け、そしてその生涯、数学以外のことはなにもやらなかったというところ。バートランド・ラッセルだったか「若くて柔軟な頭脳のときは数学を、ちょっと硬くなってきたら物理学を、すっかり頭が働かなくなったら哲学をやった」という言葉があるが(こういう言い方も科学論から見れば非難の対象になるのだろうがそれはともかく)、数学は若いときの方が良い仕事ができると言われているし、いつ数学ができなくなるか、脅える数学者も多いらしい。それが83歳! 真の天才だけがなしうることだ。しかも、教壇で倒れて還らぬ人となったというから、まさに数学者冥利に尽きる。論文の数も恐るべき多さなら、共著者の数も恐ろしく多く、エルデシュと共著をしたものは1番、1番の人と共著があるものは2番、といったぐあいのエルデシュ番号というものさえある。エルデシュは、人間はここまで単純に生きられる、ということの見本のようなものだ。それが憧れをよびさまし、こうも評判になっているのだろうか。同じポール・ホフマンの『数学の悦楽と罠』(白揚社)もたいへんにおもしろかった。これはもっと「数学? んなもの現実とは何の関わりもないじゃん」という人のための、数学の現実への応用を語る啓蒙書。

シリ・ハストヴェット『目かくし』
(白水社)
 『世界の肌ざわり』という短編集に掲載された「フーディーニ」を読んでから、本作が刊行されるのを待っていた。「フーディーニ」は本書の三章にあたり、偏頭痛が高じて神経科に入院したヒロイン・アイリスと精神病の老婦人の交流(?)を描いたもので、痛ましくもおぞましく、何とも言えない味わいだったのだ。時間がバラバラに配置された四つの物語は、どれもアイリスによる語りで彼女の男性との体験を描いている。この手の小説を読み慣れない人にはかったるいかもしれないが、吉本ばななのもっとエキセントリックなの、という読み方をして宣伝すれば、日本の読者も増えるのではないだろうか。

ウィリアム・モリス『輝く平原の物語』
(晶文社)
 五作目のロマンスで、モリス作品の中では最も軽い作品だろう。分量的にもかなり少ない。死者の王国というかユートピアというか、そういうものが出てくる。

フィリップ・K・ディック『シビュラの目』(ハヤカワ文庫SF)
 60年代に書かれた作品と、ヴァリスに通じるところのある表題作が収録されている。60年代のものは政治的色彩の強い作品が多い。

ロバート・ジョーダン『竜魔大戦~それぞれの旅立ち』(ハヤカワ文庫FT)
 続き物。なかなか進まないのでいらいらする。

岡本勝人『ノスタルジック・ポエジー』(小沢書店)
 鮎川信夫、黒田三郎、田村隆一など「荒地」に拠った詩人たちを取り上げてその特色を述べている詩人論集。伊東静雄を筆頭にしているところはユニークだが、いまどき誰が詩人論を読むのだろうか。詩論を内輪のものに終わらせないためには、いかにも詩論風な日本語を使うべきではないと愚考する。そういう部分は引用すると長くなるのでやめるが、ほかにも「大岡信の存在は、日本浪曼派から超国家主義という思想性を削ぎ落とすことによって、文学の現在と過去を、超現実と伝統を横断し融合する巨人であった」のように、係り結びにさえ首をかしげたくなるような文章がある。内容的には「荒地」や詩に興味のある人ならおもしろく読めるかもしれない。清岡卓行論やロマン主義論など、幻想文学の徒である私にはぴんと来ないところがあるのだが、これは単純に立場の相違であろう。

ジョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』(新潮社)
 すばらしい小説! 美しく味わいのあるみごとな長篇。『サーカスの息子』がおもしろかったのでこれを読んだのだが、驚かされるような宗教的な内容で、魅了された。幻想文学とも言えるのに、新刊案内では紹介しなかった(新刊の時には読んでいなかったのだから当たり前か)ので、悔やまれる。今はカナダで英文学の教師をするジョンが語り手となり、60年代にオウエン・ミーニーとともに送った少年時代、青春時代を回想する。不変の声帯(声変りをしない声)と小さなからだを持ち、天才的な頭脳と器用な手先とに恵まれたオウエンの存在感は圧倒的。彼が自らを神の道具であると信じ、自らの使命を果たすためにすべてをかけるというプロットを、訳者・中野圭二は大仰に言えば救い主オウエンの行状を語るヨハネの福音書だと述べているが、言い得て妙である。また、時間流をかき乱しながらクライマックスへと突き進んでいく物語手法も完璧と言いたいほど。アーヴィングのほかの小説も全部読むべきだという気分になった。『未亡人の一年』はどうも引かれない内容ではあるのだけれど……。
 ところで渡電くんによると、これを原作とする『サイモン・バーチ』は幻想的な映画ではなかったそうだが、そうした演出にしてもおかしくないと思う。リアリズムの果てに幻想が見える、という演出でも良いはずだが。映画も観てみたいものだが、渡くんはいいとも悪いとも言っていなかったから、観るとがっかりするのかもしれない。

ヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』
(作品社)
 精神的に問題のある男孤独な男が、狭い部屋の中で延々と紡ぎあげた幻想の王国、それがこの絵物語「非現実の王国」だ(本書は抜粋)。いわゆる「アウトサイダー・アーツ」である。残酷な戦争の中で、勇気ある賢い少女たちがスパイ活動を展開するさまを中心に描いている。絵にはペニスを持った裸の少女たちがしばしば描かれ、虐殺される子供たちのシーンも数多い。一歩間違えば現実的な少女愛とサディズムの世界にも発展しかねないような危うさを秘めている。ジョン・マクレガーによる解説つき。bk1

『Illusion 幻想画家 秋吉巒の世界』
(文芸社)
 独学で油絵を習得し、エロス、耽美への嗜好があからさまなシュルレアリスム系の幻想画を描いた秋吉巒の画集。澁澤龍彦は「通俗シュルレアリスム」と評しているがその通りの画風だと思う。個人的には好きではない。絵などというものは好みとしかいいようがないので、好きとか嫌いという意思表明にはなんの意味もないが。

フィリパ・ピアス『真夜中のパーティ』(
岩波少年文庫)
 再読。冨山房から出ていたものの再刊。少年少女の日常を切り取った、教科書に載りそうな、あるいは受験問題に使われそうな作品である。もちろんレベルが低いと言っているのではない。そういう雰囲気の作品ということ。象徴がわかりやすいというか。

菊池勇夫『飢饉』(集英社新書)
 青森出身在住の歴史学者が、網野善彦が提唱するような、都市にこそ飢饉の被害が及んだという見方ばかりが強調されすぎるのに異を唱えた本(たぶん。本文にはっきりそうと書かれているわけではない)。農村、東北の飢饉の実態と現代にも通じる危機管理としてどのようなことが行われていたかを略述する。もちろん都市型経済、あるいは稲作一辺倒ではない社会のありようも踏まえ、その上で農村に生きる人々の楽ではない暮らしぶりを丁寧に描こうとしている。(京)

アンドレ・コント=スポンヴィル『愛の哲学、哲学の孤独』
(紀伊國屋書店)
 哲学者パトリック・ヴィゲッティ、作家ジュディット・ブルスト、詩人・評論家シャルル・ジュリエらのインタビューに答えるという形の断想集。禅や東洋哲学に魅かれるという。人生は空虚、人間は孤独、といった認識から哲学が、言い換えればより良く生きることが始まるし愛も生まれる、と言う。常識的。哲学も最終的には不要といいながら、文学を見下し、哲学を至上のものととらえる姿勢には同調しがたい。(念のために言っておくと、哲学とは禅と等しくとらえられているわけではない、「言語的実践」という言葉が使われているから。)(京)

小林恭二『首の信長』
(集英社)
 歴史をネタにした冗談小説集。bk1

長屋潤『マジックドラゴン』(マガジンハウス)
 競馬界を舞台にした短編集。問題外。(京)

松浦寿輝『花腐し』(講談社)
 幻想ものではない。表題作は生そのものに疲れている中年男を描く。これが芥川賞か。もともと松浦寿輝の小説は嫌いだが、それにしてもパス。依然として吉田健一風の文体が時折突出する。会話の中に生の哲学的な言葉が出てくる無粋さにもげんなりである。酒を飲めば現実にこう理屈っぽいやつもいるだろうが、小説の中で再現する必要はない。生硬な感じがするだけだ。映画も撮りたいそうだけど、なんで? 一つの手法で成功を得たらまた一つということだろうか。

柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』
(講談社現代新書)
 これは刊行時(5月末ごろ)にすぐ買って、家で立ち読みを始めたのだが(私は本を手に取って開き、それが気に入ればそのままの姿勢で読み続けることがある。家の中で立ったまま本を読んだりするのは先へ先へと読み進めたいようなとき、まあ言ってしまえば座るのももどかしいのである)、『ねじの回転』の解釈の所まで来て、そのあまりの正統ぶり――正しいけど割り切り過ぎというか現実的というか――に驚いて本を閉じ、それっきりになっていた本。夜眠れないのでおもむろに読み始め、パワーズのところまでやっとたどり着いた。とにかく読み方が真っ当なので勉強にはなる。本当にレッスン(講義)みたいだった。

中村文昭『舞踏の水際』(思潮社)
 土方巽と十年の交流があった詩人による舞踏論。土方の評伝や大野一雄についての論などもあり、60、70年代カウンター・カルチャーに対する総括的な意味合いも多少含まれている。『病める舞姫』の副読本というか。「オンナ」「コトバ」といった表記だけで、はや読む気が失せる。(京)

久世光彦『燃える頬』(文藝春秋)
 戦時下の疎開先の森に父と二人で住まう15歳の少年が、ファム・ファタールに出会い、性的体験を得、失う姿を描く、エロスとタナトスの小説。私は久世の小説が嫌いだ。エッセイも今までいいと思ったことがない。上手いとは思うが、文章が好きじゃないし、先行作の引用の紋切り型も、話の内容もパス。(京)

Y・B・マングンヴィジャヤ『イリアン 森と湖の祭り』(木犀社)
 インドネシアの神父作家の長編小説。二人の女性と神父との愛情を、ニューギニアの森を背景として描く。幻想ものではなかった。差別意識有り。(京)

南條竹則『恐怖の黄金時代』(集英社新書)
 ブラックウッド、マッケン、M・R・ジェイムズ、メイ・シンクレアら英国怪奇小説の作家14人を取り上げ、評伝と作品紹介をしている。軽く書かれたエッセイ集だが、怪奇小説への愛情が行間からにじむ好著。


七月の雑感 山尾悠子作品集成刊行記念パーティをはじめとして外に出る機会が多い、珍しい月だった。またホームページ作りにとりかかったので、それに大幅に時間をとられた。桜井清彦氏、有里朱美氏に協力していただき、お二人には結局HTMLを書き直してもらう形になった。特に有里氏はかなりのページを作ってくださった。感謝してやまない。お二人のおかげで、HTMLソフトが使えればいい、という状況から、HTMLのおおよそがわかる、というところまで進歩したように思う。ほんとうにありがとうございました。ともあれ、これに時間をとられたため本がまったく読めていない。『幻想文学』の出た直後の月はたまっていた本、読みさしの本などをまとめて読む月なのだが、思い通りにならない。こんなことでどうするのだろうか。うずたかい本の山(中に、パワーズ、バース、アクロイドという難物がある)を横目にげんなり。明日からは心機一転がんがん本を読もうと思う。