藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年8月


一日
クナーベ『緑の石食い虫』(西村書店)
 民族学者の父が砂漠で拾ってきた〈緑の石食い虫〉を逃がしてしまったら、町が食われて壊滅状態に! という話。子供が書いたわりには良くできている。日本の児童文学者なら書きそうな感じだ。ガッチャンじゃあるまいし、シロアリだってこんなに素早くは家を食い尽くさないだろう。しかし、そういうことを言い出したらダメなんだろうな。まあその程度のもの。

植島啓司『聖地の想像力』(集英社新書)
 聖地に関して、動かない、シンプルな石組みをメルクマールとする、この世に存在しない場所である、光の記憶をたどる場所である、世界軸が貫通していて一種のメモリーバンクとして機能する、もう一つのネットワークを形成する、母体回帰願望と結びつく、夢見の場所である、感覚の再編成が行われる、という九つの命題を掲げ、それを実際の聖地(カスタネダ、天河、養老天命反転地などなど)を例として引きながら検証していったもの。映画の引用も多い。ああ、もう好きにやって。私はこういうものにはもはや素直に反応できない。

スーザン・トロット『ホーリーマン、旅に出る』
(角川書店)
 聖人ジョーとその弟子たちの言動を記す、要するに生き方の指南書。私が最も嫌うタイプだが、説教の内容も安直でひどい。正真正銘のゴミ。買った私がバカだった。

横山茂雄『聖別された肉体』(水声社)
 再読。ナチズムのユダヤ人絶滅の背後にちらつくオカルト的な思想を整理したもの。博覧強記とはこういうことをいうのであろうと思わせる資料の山が、この一冊の背後にある。死んでもかなわないな、と思う。憶断で決してものを言わないのも横山さんらしい。ほとんどの場合、冷静に筆を進めているが、時折行間から世界(人間)への絶望感がにじみ出ているように私には思われる。
 「オカルティズムの暗い水脈」という紋切り型を使いたくなるほど、オカルティズムの負の面をえぐり出しているのはさすが。負の面は正の面とも隣り合わせだということも承知の上だろう。とはいえ最近の私はかなりそのこととに絶望的になっているので、むしろ『聖別された肉体』ぐらいに暗くとらえている方がぴったりとくる。
 余談だが、私はこの横山茂雄という研究者をひたすら尊敬・信頼している。批評していて困ったときとか、本を読んでいて情けない気分になったときなど、彼の批評を読む。(入手可能な著作物には『異形のテクスト』[国書刊行会]がある。『幻想文学』55号にも執筆。)そうすると勇気づけられるから。横山さんのような読み手もいるのだと思わなければ、本を読む仕事なんぞやっていられるものか。

二日
坂東眞砂子『神祭』(岩波書店)
 ホラーではなく、幻想純文系の短編集。おおむね過去の土佐を舞台に、弱者を描いている。題材・内容・文体、個人的には興味持てず。

平せ隆郎『中国古代の予言書』(講談社現代新書)
 『春秋』『左伝』『史記』などに隠された予言構造なんたらかんたらとあったので、トンデモ本の一つかと思ったが、すごく詳細なテキスト分析だった。このタイトルは単に売りを考えただけのものなのだ。「2001年夢の技術展」へ向かう電車の中で読んでいて、二度舟を漕いでしまった。簡単に要約すると、史書の中の微細な言葉遣い、また予言的な文章の挿入(挿入された時点ではもう結果が出ているわけである)によって、己の史書の、言い換えると自分が仕えている王朝の正統性を主張しようとしているということを論証したもの。読んでいる間はその理論的なことにひたすら感心して納得するが、本当に正しいのかどうかは知らない。私は『春秋』も『史記』も読んだことがなく、中国の歴史については無知に等しい。

キース・ロバーツ『パヴァーヌ』(扶桑社)
 再読。改訳再刊となったので買ったが、訳の変化はよくわからない(調べてもいない)。歴史改変もの(ただし仕掛あり)。オムニバス形式で描かれる別世界には重量感がある。特に彼岸へとおもむく信号手の話と城主となった女性を描く最終話が好き。

三日
ビアンカ・ピッツォルノ『ラビーニアとおかしな魔法の話』(小峰書店)
 マッチ売りの少女が妖精にあらゆるものをウンチに変えてしまう(元に戻すこともできる)魔法の指輪をもらい、裕福になる話。スカトロであります。

アリスン・アトリー『くつなおしの店』(福音館書店)
 絵本。足の悪い少女のための赤い靴。その靴の切れ端で作った妖精の靴の物語。靴の履き心地のよさそうなことは、無類。さすがアトリー。

ビアトリクス・ポター『妖精のキャラバン』(福音館書店)
 毛の生え方の悪いてんじくねずみのタッペニーに毛生え薬をかけると毛が延びに延びてしまいます。奥さんがそれをむしるので気も狂いそうになって逃げ出したタッペニーは、サーカス芸人一座に拾われます。そして不気味な森を通り抜けたり、いやらしいオンドリのいる農場に世話になったりする物語です。話中和がたくさんあって、民話などが挿入されています。もちろんポターの挿し絵付き。

トム・ベイカー『ブタをけっとばした少年』(新潮社)
 デヴィッド・ロバーツ画。見開きに絵が一枚という絵物語。人間憎悪の少年(何かをけっ飛ばさずにはいられない少年)が、馬の尻に矢を射掛けて交通事故の大惨事を引き起こし、自分も木のうろの中にある鋭い枝にくし刺しにされ、生きながらドブネズミに食われるという末路をたどる。ギャグとホラーのミスマッチ? 絵がそれを助長する。勧善懲悪とは読めないし、呪いや怒りの書としても不足。

富安陽子『空へつづく神話』
(偕成社)
 図書館で出雲神話の中から抜け出してきたような記憶喪失の神様に出会い、記憶を取り戻す手助けをするべく、郷土の歴史に分け入っていく少女を描く。自然の中の妖怪や神などを描いてきた富安らしい作品で、歴史的な視点を少女に与えることで、安易な自然破壊批判に終わらせなかった点は評価できる。「学校を造るための木」がもとになった話だというが、前掲『妖精のキャラバン』には、橋になったオークの物語があった。古いオークの木に宿っていた妖精は、それが伐られて行き場を失うけれども、そのオークで作った橋を見つけ、橋に宿るようになった。そしてこれは福永令三が『茶色の学校』で考えたことでもあった。そういうものに連なるような発想自体がやはり良かったのだと思う。

アニー・M・G・シュミット『ネコのミヌース』(徳間書店)
 オランダの国民的児童文学者による傑作。人間に変身してしまった雌ネコ・ミヌースが、猫好きの新聞記者ティベの元に転がり込み、彼を助けるというありがちな物語だが、ミヌースがあまりにも愛らしい。機嫌が良くなると、頭を袖にこすりつけて体をくねらせるようなかわいい少女をどうして愛さずにいられようか。ネコを虐待する男がやっつけられるのもなんだかネコ・ファンのためにあるような話だ。カール・ホランダーの絵もいい。

ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』(ちくま文庫)
 再読。文庫化されたので。しかしほとんど忘却し果てている。戦争論、カリスマ論などを収録。カイヨワはものごとを抽象化することには長けているのだが、分析は無味乾燥であり、いまひとつ面白みに欠ける。かといって文学的ではないというわけでもなく、つまり徹底して数学のように論理的というわけでもなく、そういうところが共感できない。

『海野十三メモリアルブック』(海野十三の会発行・疾風先鋭社発売・千二百円)
 同人誌。没後五十周年記念特別本。海野の資料を丹念に拾った、研究誌として立派な出来栄え。初公開写真資料、追悼資料、新聞などの切り抜きなどで構成され、資料的価値は高い。未収録の随筆もおもしろく、「荒唐無稽を排するはよろしくないこと」という昭和十五年のエッセイや「恐怖について」はいろいろなことを考えさせられた。

四日
ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』(新潮文庫)
 小人の少女一人を含むある家族の肖像。作者がときどき作中で言うように、おとぎ話的。だが、アーヴィングの作品はみなそうと言ってもいいのでは? とにかく小説がものすごくうまいので、それだけでも価値のある作家だと思う。奇妙な人物たちがまったく自然に描かれ、展開も、語りも申し分なく、そしてその土地風土というものがありありと描かれる。幻想的な話ではまったくないが、渡電君によると、映画は幻想映画だったとか。

橋本槇矩『アイルランド短編集』(岩波文庫)
 幻想ものではない。十五編はすべてリアリズムの作品で、秘密結社めいた情景が描かれる「ワイルドグース・ロッジ」にしても、やがて無残な焼き打ちへと物語は展開し、結局歴史の一断面を描いた作品なのだ。百五十年にわたるアイルランドの短編を集めたものとしては、やはり政治的・現実的に過ぎると言わざるを得ないだろう。成人病検診のあいまに本書を読んだのだが、検診の後には決まって渡される黒棒とブリックパックのようだ。貧乏たらしくて、だけど、実際前日の夜から飲食していない身には現実的に嬉しいような、リアルなもの。悲しみがわき出る。

エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』(東京創元社)
 『幻想文学』34号「不思議な物語」で紹介された「地下牢の検査」の邦訳。創造(物語ること)と身体損壊へのオブセッションの感じられる、綺想的な短編集。おもしろかったのはやはり表題作。それから「庭園列車」「双子」など。語りにおいて衝撃度が高いのは「趣味」。これは傑作だと思う。

楠見朋彦『マルコ・ポーロと私』
(集英社)
 若い新人作家が騙りをするマルコ・ポーロに挑戦。それを書き留める「私」(ルスティケロ)を主人公に、物語、伝説、歴史の意味を問い直す。カルヴィーノと比較するまいと思っても、題材が題材だけにどうにもならない。決め手はオチのところだが、もっと大仰でもよかったように思う。詰まるところ、頑張ったね、と言いたくなってしまうのでは困りものであるのだが。ところで読売新聞の短評欄では古事記のことなどにも思いを致されると言っているが、最近の研究では阿礼というのは学識豊かな筆記者であって、語り部ではなかったと言われているのでは? まあいいけどさ。自分でも同じような過ちを犯しているんだろうし、教養には限度というものがある。あー(ため息。もちろん自分の教養のなさにだよ)。

ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』(新潮社)
 短篇集。エッセイも併録。表題作はアーヴィングの小説の要諦を示している。残酷な現実に傷つく者を物語の中ではせめて救う、ということ。現実に救えばいいのに、という祖母のせりふは、まったくその通りなのだが、しかし人にはできることとできないことがあるのであって、物語を書くアーヴィングは現実にはそれはできない人間なのだろう。「ひとの夢」は他人のベッドで寝ると彼らのかつて見た夢を見てしまう男の物語。唯一のファンタジー。完全版「ホテル・グリルパルツァー」(『ガープの世界』に登場する)はやはり素晴らしい。

村上龍『ストレイト・ストーリー』(集英社)
 究極のファンタジーという惹き句だが、もちろんとんでもないたわごとである。老人が兄と星空を眺めるために芝刈り機に乗って旅をするというロード・ノヴェル。デイヴィッド・リンチはこんなつまらなそうな映画を撮るのかいな、と思わせる。語り手は120年前に死んだ森林インディアンの幽霊だが、「人口が爆発的に増えたときに、私たちインディアンがそのまま生存できたかどうかはわからない」などと語るインディアンの霊などとというものは私には想像が不可能だ。腹が立つとやってしまう重箱の隅つつき。アメリカの大手トラクター会社はジョン・ディアと日本でも呼ばれているので、決してジョン・ディールとは呼ばれない。

五日
杉浦康平『生命の樹・花宇宙』(NHK出版)
 《万物照応劇場》第四弾。世界樹の図像学、世界樹とともに描かれる神聖な動物についての考察、花の霊力など、アジア神秘主義の極致を行く杉浦の独擅場。

平岩弓枝『平安妖異伝』
(新潮社)
 若き日の藤原道長が音楽の精霊のような少年に助けられつつ(ショタものと読まれても仕方ないような設定!)、妖かしを退ける連作短編集。南柯の夢をモチーフにした怪奇譚、付喪神系列の妖異、桜や牛といった生物の霊などが登場する。日本の古楽をモチーフにした音楽ファンタジーであるにもかかわらず、何も音楽の響いてこない作品だ。曲名だけは書いてあるが、ほとんどそれだけ。「春鴬囀」のすばらしい演奏についてだけは多少の形容詞もあるが。つまらない。

《書物の王国》『復讐』(国書刊行会)
 《書物の王国》全20巻が完結。各巻の編集に携わった編者がそれぞれ復讐について好きな作品を挙げて、それを瀬高道助がまとめるという形になっている。かくいう私も編者の一人として、エーヴェルス「スターニスラワ・ダスプの遺言」、ドールヴィイ「或る女の復讐」、シュトルム「ブーレマンの家」を推薦(エグいと瀬高さんに言われるような作品ばかり)。山尾悠子さんにも三島由紀夫の「獅子」を教えてもらって何食わぬ顔で一緒に推薦したが、残念ながら長すぎるという理由で落とされた。ボルヘスを何でもいいから何か一つとも思ったが、知られすぎている、というのでやはり没になった。収録作の中で自分の挙げたもの以外では、川端康成と中島敦が良かった。この二人は文体もいいが、作品ににじみ出る世界観もよいなあと思う。

谷川健一『神に追われて』(新潮社)
 沖縄のカミの召命を受け、ユタになった女性たちの苦難の人生を物語的に描く。宗教の宣伝パンフレットみたい。

六日
岡谷公二『南の精神誌』(新潮社)
 前掲書と同じ田中一村の絵を使った装幀で、並べると兄弟のようだ。内容的にも、かなり個人的な感慨というものが入り込んでいる。ただこれは普通の民俗学書に近くて、読みごたえがある。沖縄の御嶽(ウタキ)を訪ね、日本の中にある南方的な精神を探ろうとする。これは著者にとって一貫したテーマなので、説得力はある。

サイモン・ジェームズ『図説ケルト』(東京書籍)
 近年のケルト文化に対する考古学的資料と、古来からある史書などのケルトへの言及などを元に、ケルト像を描きだそうとする。ギリシア・ローマ文化とのかかわりという視点からの切り込みが多く、殊にローマ化されたケルトについて紙数を割いている。全体としてみると、目新しいことはあまりないが、ケルト入門書としてはかなり公平な感じでいいのではないだろうか。書名からも豊富な図版であることは察せられるだろうが、考古学的な資料に基づく図版などが非常にきれいなので、感心させられる。

松尾由美『おせっかい』(幻冬舎)
 推理小説誌に連載中のミステリの中に入り込むことができた男を中心に、そのミステリをめぐる作者・編集者等々の動向が多視点で描かれる。サイコサスペンスの展開になるかとおもいきや、あまりそうはならない。全体はまあまあよくできたメタノヴェルになっている。個人的には痛い小説だった……。

ピーター・ディキンスン『マーリンの夢』(山本史郎訳・原書房)
 マーリン自ら岩の下で眠りにつき、夢を見続けているという設定のもと、9篇のファンタジーが語られる。スキヤポデスが幸福な乙女としてつかの間の幸福を得るという展開が意表を突く「スキオポド」が好き。アラン・リーの挿し絵がきれい。
 あとがきに「ディキンスンは二、三のミステリーが訳されているだけ」とあるが、もっといろいろと翻訳されている。ジュヴナイルSF『エヴァが目覚めるとき』のもなかなかの傑作である。確かミステリー『毒の神託』(やっぱり原書房)のあとがきにも同じことが書かれていたと思う。ちゃんと調べて書けよ。

村上龍『希望の国のエグソダス』(文藝春秋)
 経済も行き詰まり、なんの展望も見えない近未来の日本で、中学生が反乱を起こし、北海道を独立させるという話。私の中学一年の社会科の夏休みの宿題は、私が北海道開発長官だったら、あるいは北海道を独立させるとしたら、どちらかを選んでレポートしろというものだった。北海道の独立は軍事的経済的にに不可能だと思った私は開発長官の方を選び、子供っぽい農業振興策をさまざまに提言して低い評価をもらった思い出がある。そのことへの恨みがあるわけではないが、北海道に子供の王国とは。もっとも経済シミュレーションはリアルなのかもしれない。私はそっちには暗い。中学生が学校を捨てるという幻想はリアリティにまったく欠けるしおもしろくもない。主人公が例によって魅力のない中年男だし。とにかく、なんてつまらないんだろう。だったらいい加減読むのをやめればいいのに……と自分でも思うよ、それは。

芦原すなお『オカメインコに雨坊主』(文藝春秋)
 汽車の終点の僻村に降り立った画家が、蜘蛛の糸にからめとられるようにしてその村に居着いてしまう。そこで異界の者と触れ合うという連作短編集。

恩田陸『麦の海に沈む果実』(講談社)
 『三月は深き紅の淵を』の最終話をミステリに仕立てたもの。学園小説マスターの称号を差し上げたい。魅力的な少年少女の集う、ミステリアスな学園生活を描いた秀作だ。降霊会があったり、沼に沈む少年の不思議な思い出があったり、学園が両性具有風の校長に牛耳られていたり、設定そのものはファンタジーっぽいが、落ちは物語の設定範囲内でまっとうに終わる。お願いだからつまらないメタノヴェルにしないで、と思ったが、それはクリア。ただしそうなるとミステリ的には普通ということになり、半分読んだところで作品構造はわかってしまうだろう。(ただし結末が読めるかどうかはわからない。結構意外だった。) 七日
谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新書)
 アニミズムの視点から日本古代の歌をとらえ返す。歌の発生、人麻呂の挽歌、遊女の歌、東歌の考察の四章から成る。

石井威望『iバイオテクノロジーからの発想』(PHP新書)
 iモードの宣伝? バイオとハイテクに(経済)社会の未来があると語り、その負の面、あるいは予想される問題点などにはほとんど目を向けない。(京)
 
和田忠彦『ヴェネツィア 水の夢』(筑摩書房)
 イタリア文学者が、イタリアの作家・詩人との交流などをつづったエッセイ集。古本屋巡りのエッセイ、滞在記などもある。フェリーニを語るところでは、晩年の彼への待遇に関してほとんど怒っていて、そこはやけに印象深いが、全体としてなんだか甘ったるしく、文学者気取りという言葉が思い浮かぶ。堪え難いのは、最初に「その人は……」と名前を明かさずに語りはじめ、最後の一行もしくは数行で、名前を挙げるというバカげたエッセイが何本もあること。一つぐらいなら我慢もできるが、いっぱいあるのだ! ひどい場合は、個人的なつきあいの話をしているのに、名前を出さずに、訳者は……と来る。あまりであろう。多少とも韜晦するのが文学的だと思っているのならば、愚かしい。あるいは、そうだったのか!という衝撃ねらい? でも作品名を挙げているからにはかわる人にはわかろうし(ああタブッキ、安藤美紀夫、カルヴィーノといったぐあい)、わからない人なら、ひざの打ちようもない。読んでいていやらしく感じるだけである。

斎藤忠『古代遺跡の考古学者』(学生社)
 遺跡とそれを発掘した人の事跡を、著者との交流を交えて紹介する。(京)

丸谷才一『闊歩する漱石』(講談社)
 漱石の「坊ちゃん」「三四郎」「吾輩は猫である」を題材に、主として英文学との(影響)関係を考察するエッセイ集。「猫」の第二章で、「猫」が雑誌に載って、作中にそのことへの言及があるというシーンがあるが、それを取り上げて、それは「人を食っているとも、幼稚とも、低俗とも言える」が、「認識を豊かにする」そして「新しい小説の方法を予言していた」と来る。あまりのばかばかしさに声が出ない。『ドン・キホーテ』を読んだことがないんでだろうか? だいたい『ドン・キホーテ』は自己言及の仕方でも、漱石よりもずっと凝っているし。だのに丸谷はまるで漱石が最初だったと言わんばかり。漱石をどんなに称揚しようが勝手だが、いい加減な情報を流すのだけはいただけない。(京)

『ピランデッロ戯曲集』(新水社)
 互いに食い違うことを言う姑と息子のどちらが狂っているのかを人々が知りたがる「あなたがそういうならばそのとおり」がおもしろい。基本的にリアリズム系列の戯曲集。

八日
ウィルキー・コリンズ『ノー・ネーム』(臨川書店)
 私生児であること(ノー・ネームというのは結婚によって生まれた子供ではないために正式には姓をもてないということである。このころの戸籍ってどうなっているのだ?)と遺言状が間に合わなかったということで財産を横取りされた姉妹のうち、妹マグダレンが財産の相続者である従兄に近づき、素性を隠して結婚するが……というとんでもない展開の小説。ディケンズ『荒涼館』や現代の作家パリサーの作品だが同時代を舞台にしている『五輪の薔薇』を読んでも19世紀の法律というのはまったく理不尽な印象があるが、ここでも財産の相続がとにかくまともに行われない。当時は相続によってとにかく境遇が天と地ほども違ってしまうわけで、だからこそゴシック・ロマンスが物語られる理由も大いにあるわけであろうが。これでもかというぐらい次々と不運な死が襲いかかる(なんというご都合主義)ので、ヒロインはどんどん追いつめられていく。ただ、コリンズはフェミニストのはしりとまで言われる、活動的で聡明な女性を肯定的に描く作家であるので、普通のゴシック・ロマンスとはちょっと趣が違う。結末については監修者・佐々木徹が「不満を覚えざるを得ないだろう」と言っているが、そのような面がなくもない。だが、この時代にどんな結末があるというのか。こうでもしないなら大悲劇しかないだろう。

ウィルキー・コリンズ『毒婦の娘』(臨川書店)
 聡明、誠実、善良、なおかつ行動力に富む女性実業家(といっても起業家ではなく夫の遺志を継いだのである)と、化学者の妻で強力な毒薬を用いて人を支配下に置こうとする女性とを描く。設定自体はいかにも19世紀的というか、封建的だが、女性たちは強烈なキャラクターで、二人のまさに火花の散るにらみ合いは、たいへんに現代的な印象を与える。女性を描くことにかけてはコリンズは本当にすごい。

九日
ウィルキー・コリンズ『夫と妻』(臨川書店)
 これまたとんでもなくでたらめなスコットランドの婚姻法をテーマにした小説。夫婦だと宣言しさえすれば婚姻が成立するという「変則婚」の話だが、これはあまりにもいい加減だ。中世ではないのである。また離婚が難しいという状況も、『ノー・ネーム』でもそうだったが、事態を紛糾させる。この作品は『白衣の女』『月長石』に次ぐヒット作だったというが、それもうなずける、サスペンスあふれるエンターテインメントの佳作である。
 ああ、昨日今日とアニメを観に出かけたので、全然本が読めていない……。ノルシュテインの「外套」は動きが微妙でものすごかったが、全然完成していなくてひたすら細部を描いて終わっていた。うーん。

十~十一日
B・J・T・ドッブズ『錬金術師ニュートン』(みすず書房)
 ニュートンがどのような錬金術的実験を行っていたかを問題にした書物ではなく、ニュートンの物理学的発見の裏にあった宗教的な思考を再検討した書物。かなり内容的には固いもので、ニュートン研究家、専門的な科学史家のための論文という印象。少なくとも私の興味の範囲からはややずれる。ただしニュートンの宗教的立場を明らかにしている点では信頼できるのではないかと思う。また、科学という分野でも、神がどのようにこの世界にかかわっているのかという大問題が影を落としていたということが丁寧に論証されていく。ニュートンにしてみれば、世界が神の摂理によって動かされていることは、物理学から証明されるのである。そしてその思想は、別に錬金術など持ち出さなくても、現代の数学者や物理学者をも支配する考え方ではないだろうか。大統一理論や、数学者たちの単純なものこそ美しい(神に近い)という考え方にしろ、カオスやフラクタルといった考え方にも浸透しているように私には思われる。西洋の科学が神学の伝統の上に築かれてきたこと、それはいかんともしがたい。湯川秀樹が素粒子理論を仏教的背景の中から考え出したように、彼らもまた神の摂理(世界は神の創造物)という幻想から抜け出るのは容易なことではないのだ。

十三日
ジョン・M・シング『アラン島』(恒文社)
 表題作のほか三つの紀行文を収録する。『アラン島』は姉崎正見訳の岩波文庫を読んだことがある。昭和12年の作にしてはかなり読みやすいし、シングの激しい感情を表すのに、時おり古語めいた言葉が入るのも好ましかった。まあ現代の訳は訳で読みやすくて良いだろう。余談だが、監修者の甲斐萬里江先生は大学一年の時の英語教師だった。私の時代の早稲田大学の文学部の英語という必修科目は、教師の趣味(いわゆる専門)に付き合うほかないといった感じだったのだが、ともあれ、彼女の指導の元、「ディアドラ」をはじめとするケルトの英雄譚などを読んでいたのだから、呑気といえばこれほど呑気な授業もなかっただろう。さて、シングのアラン島への思い入れは一通りではなく、その称揚も大仰だ。だが、美しい夕焼けに目を奪われるように、心を動かされる。貧しい中にも人間本来の生活を保っていると言葉を尽くして褒めるさまは、どう見ても感傷的なのだが、読者を感動させるのである。シングの描く、哀悼歌(キーン)を歌う老婆たちの姿は美しく、哀しく、胸を締めつける。ハーンの明治日本を描写するエッセイを読んだときのような、失われてしまったものへの郷愁がわき上がってくる。『アラン島』には、民話・俗謡のたぐいが挟み込まれていて、一面「現代民話集」のようなところもある。シングのアラン島では、妖精は実在するのである。

十四日
『ユートピア旅行記叢書12』(岩波書店)
ホルベリ「ニコラス・クリミウスへの地下世界への旅」とマイエ「テリアメド」を収録。前者はノルウェー=デンマークの劇作家、著述家による風刺色あふれる逸品。後者は幻想譚の装いをした自然科学書であって、旅行記どころか文学とも言い難い。ただし、18世紀始めの自然学統一理論と海洋低減論と海から生命が発生している説とは興味深い。むしろ自然科学史の面から再検討すべきではないか。『錬金術師ニュートン』とのからみもなくはない。科学と神学との微妙な共存というものに、私はとても興味を引かれるのだ。

『ユートピア旅行記叢書15』(岩波書店)
 レチフ「ポルノグラフ」とル・メルシエ「幸福な国民あるいはフェリシー人の政体」を収録。前者は書簡形式で、完全無比の売春自治体建設計画を述べるというものだが、女性蔑視どころか、女性をどのように売春から更生させるかという話になっていて、これでは売春王国が成り立たないのでは。ともあれレチフもまたフェミニストの一人だったのではないか。書簡の書き手の恋愛模様も含まれていて、恋愛小説ともなっているところもおもしろい。「フェリシー人」の方は延々とフェリシー人の政治機構、経済機構、哲学などについて述べていくというもので、退屈きわまりない。ほとんど斜め読みである。商業のあり方や税金についての記述、身分制など、どれを読んでもたわごとに見え、時代背景を考えなければ読めたものではない。物語的展開もなく制度を述べるだけのものは、その瑕瑾が見えるだけにつまらないのである。歴史的資料とは言えるだろうが。なおこの両者はユートピアについて語ってはいるが、旅行記とは言えない。

十五日
村上重良『世界宗教事典』(講談社学術文庫)
 原始宗教・古代宗教から創唱宗教各派まで、世界の宗教を概観したもの。

六道慧『かぐや草紙』(桜桃書房)
 感応力・透視力を持つ巫女の迦具夜姫、超常的な力を持つ役小角、そして藤原不比等や大津皇子などがからむ伝奇小説。パス。

千野栄一『言語学の楽しみ』(大修館書店)
 プラーグ学派の言語学論などについての学術的な説明と、古典的な言語論を、ユニークな話題(アンドロメダ星人の言葉とか、絵から物語を紡ぐとかゴキブリラーメンとか)によって説明しようとする軽妙なエッセイとから成っている。二十年も前の本で、ちょっと古かった。そうだ、私だってまだこのころは学生で、千野さんが教えた学生、このエッセイの中で試験を受けたことになっている学生たちは若い子などではなく、先輩に当たるのだ、と思うと、なんだか時間の不思議さが思いやられるのであった……。

ジャン・イヴ・タディエ『二十世紀の小説』(大修館書店)
 1990年のフランスの著作。世界の小説ではなく、フランス文学の20世紀、ということである。語り手の解体というもはや古典的な問題、作中人物の人格やアイデンティティの消失、開かれた小説構造、小説と思想のかかわりの問題などを語る。ベルナノスをフランスのドストエフスキーと言うのがおもしろい。また、小説に描かれている都市というテーマで一章を費やして詳述しているのに興味を引かれた。

ロビン・ウーフィット『人は不思議な体験をどう語るか』(大修館書店)
 体験記憶のサイエンスという副題だったので、記憶の問題なのかと思ったのだが、信じてもらえそうもないと判断した話を語る際の語りの防衛機構について論じている、分析言語学の分野の書物であった。まず、自分が正気であり、そのときの状態も正常であり、普通の人間が普通に生活している場面であることを強調する。そのため、~~していると(日常の動作)、~~(超常的なことが起きた)というパターンで語られることが非常に多いことを説明する。また、客観性があるということを強調するために会話の直接的引用がなされるなど、事実であることを強調する際の表現の仕方のパターンを示す。怪異の原因を探ろうとしたことも理性が働いている証拠として語られる。じつに興味深い。

佐藤和之・米田正人『どうなる日本の言葉』(大修館書店)
 1994年の方言に対する意識調査をもとにした報告書。札幌、弘前、仙台、千葉、東京、松本、大垣、金沢、教徒、広島、高知、福岡、鹿児島、那覇の14ポイントを調査。共通語をどう思うか、自分たちの方言をどう思うか、どう使い分けるか、といったことが聞かれているが、だいたいは予想通り。松本が方言が好き、というのが非常に高く、にもかかわらず自分たちの土地はあまり好きではない、というのが意外であった。京都が方言好きの共通語嫌いはまったくうなずけるにしても、那覇では共通語も好かれているというところが意外。方言札によって罰せられ、方言撲滅が徹底されたということが逆にそうさせているのかも、と調査者は複雑な表情を隠せない。おもしろい統計調査だと思った。方言自体の実態ももっと知りたい。方言の問題は文学表現の根幹にもかかわる問題だから。

二階堂善弘『封神演義の世界』(大修館書店)
 『封神演義』の内容、成立、神の実体、影響関係などを説明。『封神演義』は小説としては破綻があるし表現もまずくて二流、神を封じるのに殺すことは不要であることをはじめとして仙人に対する知識も不足していて道教的にも全然だめ、ちょっと有名でない人物などは後代から引っ張ってきて、要するに殷周時代には生きてないはずの人間が登場するので歴史的にもだめ、なのに庶民に愛されて、『封神演義』の世界の通りに神々が崇拝されている所もある。孫悟空は神として祀られているというのは、知っている方も多いだろうが、封神の神、申公豹などもまたそうであるらしい。すごいことではないか。

杉山康彦『ことばの芸術』(大修館書店)
 文学と言語の関係、日本語のリズム、譬喩などの修辞法、文章の構造などから日本文学を論ずる。世界に共通する現代的な文学の問題が実感されていない時代の残滓か? 1976年刊。神話は現実のアナロジーであり、紫式部は自分の書いた怪異現象を信じていない気配があるなど、納得しがたい論も並んでいる。

黒井千次『羽根と翼』(講談社)
 1950年代に学生時代を過ごした人々が、アーケードでかつて歌った社会主義かぶれの歌たとえば「民族独立行動隊の歌」などをみんなで歌うような酒場が新宿にある。そしてその酒場で、革命運動(?)を続けて、結局若くして死んだ男の恋人であった女性から声をかけられた男のとまどいと、それを契機とした過去への遡行を描いている。とにかく徹頭徹尾理解しがたく、読んでいるあいだじゅう堪え難いほどにげんなりした小説。

十六日
グレッグ・ベア『ダーウィンの使者』(早川書房)
 遺伝子中のレトロウィルスが進化の引き金となる、という設定のSF。訳者・大森望に言わせれば『継ぐのは誰か?』のベア版。まんなかあたり、三人の科学者が、庭園で互いの話を突き合わせ、高揚する場面は素晴らしい。後半は納得しがたい。

バーバラ・ガウディ『ホワイト・ボーン』
(早川書房)
 象が主人公で、象に未来予知、テレパシーなどの超能力がある、もちろん言葉も、という設定。白い骨の伝説に従い、アルカディアを目指す象、その他の象を描く。パス。

平谷美樹『エンデュミオンエンデュミオン』(ハルキノベルス)
 「21世紀初頭、月面や地球の至る所で怪現象が発生し始めた。それは月を最後のよすがとする神々の力によるものだった。神との交わりを自覚する少年ヤンと共に、月に神秘の力を感じた元宇宙飛行士達は月へ旅立つ。が、それは神々の怒りを深める以外のなものてもなかった。神の領域を冒した人類の受ける報いは!」これは文庫カバーの解説をちょっと縮めたもの。さて、実はこれで全400ページのうち、350ページくらいまでの内容解説になってしまっている。報いが何だったかは言うまい。また仕掛けについては「集合的無意識を持ち出したのは云々」と著者自らバラしてしまっている。いくら大バカ小説だからと言ったって、編集者も著者もいったい何を考えているのだろう!

十七日
斎藤君子『ロシアの妖怪たち』(大修館書店)
 ロシア版現代民話集。95年の調査旅行で収集したもの。

ロバート・ヒューズ『西欧絵画に見る天国と地獄』(大修館書店)
 審判、楽園、天国、地獄、悪魔などの分類で、西欧絵画を一覧していく。中世を中心的に扱っていて、中世の人々の心性を現代と同じに考えてはいけない、と語るところが印象深い。

菅浩江『博物館惑星』(早川書房)
 「SFマガジン」に連載されていた連作短編集がまとまった。物語は申し分なく上手で、作品自体はおもしろいが、私にはちょっと甘すぎた。芸術の与える感動を美が生む感動だとしてしまうスタンスは問題あり。

十九日
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房)
 一枚の写真をめぐって三つの物語(写真に写った三人の物語、その写真に憑かれた私の物語、赤毛を反射的に追いかける青年の物語)が並行的に語られていき、それらは少しずつ重なりながらも、ぴったりとは重ならない。そういう構造のかなり長い物語。「ほぼ各センテンスごとに何らかの皮肉、ジョーク、引用、間接的言及が加えられた縦横無尽の文章。ほとんど小説の域を逸脱しているような緻密な思索。」という帯の引き句を信じ、ある意味では柴田元幸の入れ込みようを信じ、1985年刊行、著者24歳の時のデビュー作を読み通した。訳者に敬意を表し、普通に読むときの三倍の時間をかけ、一生懸命緻密に読んだのである。だが、得たのは、たぶんギャグなのだろうと思わせるセンテンス、ここで皮肉を感じて笑うべきなのかも、と思わせる文章などなどの連続であった。がっかり。こんなにも柴田さんが褒めているのなら、それならもう翻訳が悪いとでも考えるよりほかないではないか。さもなくば、要するに翻訳で読もうとしている、アメリカ文化にさほど詳しくもない自分が悪いのだ。アメリカ人、というよりはアメリカの文学文化に詳しい人には面白いのかも知れない。それから、繰り返し現れる思索(緻密? 小説の逸脱? 笑わせないでよ、大仰な)は、写真をめぐる省察であると同時に、自分の小説への不断の説明ともなっている。わかって欲しい、と若いパワーズ君は願ったのだろう、なぜ自分がこれを語っているのか。だが、それこそ小説を通して語ればいいことであって、そうした説明はすべて余計なものだ、と私は思う。つまり、ああ、ここまで言ってはつや消しだろう、と思うところがいくつも。つや消しを狙ったとは思えない。全部言った方がいいと思ったのではないか。それさえなければ、そしてもっと文章がよければ、これはかなり魅力的な作品と言えると思う。だが、この翻訳を、果たしてどんな日本の読者が喜んで読むのか、想像もつかない。私には、アメリカはあまりにもあまりにも遠いようだ。

二十日
ピーター・アクロイド『原初の光』(新潮社)
 トネリコの林が焼け、下から遺跡が姿を現し、発掘が始まった。発掘者の一人が眼にする谷をよじ上ってくる不思議な裸の男、発掘者を突き落とす目に見えない手、くずれる足場、種々の妨害。いったいどうなっているのか。そうしたことへの説明は半ばはなく、半ばはある。内容についてはそれこそパワーズのように説明もあるけれど、必要な説明がほとんど。ただし設定や展開が観念的でまとまりも悪い。この程度の厚さにしては、人物が多過ぎやしないか。
 ウィルキー・コリンズのあとで読んだ小説はどれもこれも異様に多視点で、場面転換が目まぐるしく、小説が下手だと感じさせるものが多い。たぶん作家はこれが楽なんだろうな。アクロイドのは多分に意識された多視点だが、成功しているとは言い難いように思う。

石井美樹子『イギリス中世の女たち』(大修館書店)
 中世末期のイギリスの女たちの社会的な状況(結婚・家庭生活・財産・労働・職業・旅行・宗教や文化との関わり)を概観したもの。『大聖堂』のようなヒロインはフィクションなればこそと思っていたが、実際に布の貿易で稼いだ女性がいたのだし、多額の税金を納めた女性もいたのだ。もちろんこんなのはごく一部だということを忘れてはならない。そして強い女でも、教会にはほとんど太刀打ちできなかったということも。日本と同様、17世紀になると女性の自由度が低まるのは興味深い。ヨーロッパでは家父長的になるのだが、日本ではどうだったろう。

二十一日
『ギャスケル短篇集』(岩波文庫)
 八編を収録。うち「婆やの話」は幽霊談である。いずれにも牧師の妻らしい教訓癖が見られるが、それは聖なる生き方がすべてを高みへ導くというような、宗教的生活、信仰的人生の称揚としてとらえることができる。ただ「家庭の苦労」については「守るべき部所を守れ」という女大学的な教訓性が強く、ギャスケル自身が駄作と言っているという。果たしてわざわざこれを選ぶ必要があったのだろうか、と思った。「終わりよければ」は強く正しく優しいスーパーレディの物語で、それは家父長的独善のあらわれだと訳者は言うが、この要請が現代にまで延々と続いていることは忘れてはなるまい。

二十二日
フレッド・チャペル『暗黒神ダゴン』(創元推理文庫)
 クトゥルーものの一編だが、かなりユニーク。ホラーとしては変わっている。

稲葉真弓『ガーデンガーデン』(講談社)
 外部からの視線をテーマとした三篇を収録する短篇集。(京)

E・B・ホワイト『スチュアートの大ぼうけん』(あすなろ書房)
 映画『スチュアート・リトル』の原作で、1945年の作品。スチュアートは人間から産まれ、家族に愛されながらも、仲良しの小鳥を追って放浪の旅に出る。映画では家族愛がテーマだが、原作は青年の成長と冒険、つまりはイニシエーションを描こうとしているのだ。作者は『シャーロットの贈り物』を書いた有名な児童文学作家。

松浦昭次『宮大工千年の知恵』(祥伝社)
 宮大工の棟梁が語る、中世の建築技術の高度さについての話。(京)

二十三日
プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社)
 自殺の前年のエッセイ集。アウシュヴィッツ体験後40年を経て、なおもその罪(のあり方)を問い続けるレーヴィの姿に痛ましさを感じずにはいられない。やはり自殺したユダヤ系の作家について、レーヴィは世界全体と殴り合う者であり、その行為は高い代償を要求するとしているのだが、レーヴィの自殺にも同じ面はいくぶんかあったのかも知れない。自殺の理由はいくつも考えられる、とレーヴィ自身言っているのだし、私には推し量ることさえたいへんに難しいことであるのだけれども。このエッセイの中で、レーヴィは善悪(黒白)とはっきりとした線引きができない、声を上げなかったドイツ人にも、また自分自身の中にも灰色の領域を見る。そのようなあいまいさ、とりとめのなさがレーヴィを翻弄するようにも思える。ともあれ、強制収容所に思いを馳せるとき、私は私の中にも、灰色の領域を見いださないわけにはいかない。アウシュヴィッツは人間の根源についてを常に問いかけてくる問題であり、私は答えが出ないようなその闇の中に、自分自身の人間性もまた含まれていることを常に思い返さずにはいられないのだ。余談だが、私が収容所について初めてまともに意識をしたのは高校生の時に観た『愛の嵐』という映画である。「これはいったいなんだ!」というわけのわらなさに翻弄されたものだ。収容所問題をサディコ・マゾヒズムの問題に矮小化した作品だと今では理解しているが、それをレーヴィは「素晴らしいが虚偽の映画」と判断している。監督のコメントもたわごとでしかないが、それを契機として現実となってしまった殺人者と犠牲者の交換不可能性へと静かに筆を進めていくあたりはいかにもレーヴィらしい。
 収容所についてはおびただしい言説がある。そのすべてに目を通すことは、私などには到底できることではないが、レーヴィの著作は、私が読んだそうした書物の中でも一級品だと思う。少なくとも『夜と霧』系列の作品よりは好きだ。

小坂洋右『日本人狩り』(新潮社)
 樺太でソ連軍に逮捕され、二重スパイを押し付けられた菅原道太郎の半生を中心に、スパイになった日本人の影を戦後史に追うノンフィクション。こういうことに明るくないので、おもしろく読んだ。(京)

エマニュエル・カレール『嘘をついた男』
(河出書房新社)
 現実の詐欺・殺人に取材した小説。著者は最後にはこれを書いたことを後悔しているように見える。殺人犯の空虚ぶり、英雄癖のすさまじさは、アイヒマン裁判を思い出させた。(京)

二十四日
バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』(新潮社)
 作家志望の人に送った助言という形で小説論を展開。小説の諸要素と技巧について順を追って語っているが、最後の落ちが何と言っても傑作で、ユーモア作家(じゃないか?)の面目躍如たるものがある。言っていることははなはだ穏当というかあたりまえで、大伽藍風の小説を作る作家らしい意見だと思った。
 小説を読むときは結局こうした諸要素を総合して読んで判断しているわけだが、本書のように小説の要素を分類してあると、説明しやすいことよと思った。つまり、ダメな小説はどこがダメなのかということを、である。いろいろな要素すべてがダメということはないわけで(もちろんそういうものもあるがそれは誰が読んでも分かるだろう)、どこがどうダメかを言いやすいのだ。ところで訳者は文学に対する思い入れの深い小説論等は印象に残る、と述べているが、そんなものだろうか。わたしは文学への思い入れが相当に深い方だろうと感じているが、私のエッセイが印象に残るとは思えない。そんなものは文章が上手いかどうかで決まると思うのだがね。

岩野礼子『イギリス・ファンタジーへの旅』(晶文社)
 イギリスとイギリス・ファンタジーが大好きという著者のイギリスの土地柄とファンタジー案内を交えたエッセイ集。作品に関しては素人の感想文の域を出ないようなしろもので、私生活の話がやたらに多く、著者はとにかく自分のことを語りたいのだろう。破綻した結婚生活のことや年下の別れた恋人のことを語ったり、ファンタジー作家たちと自分の生き方を重ね合わせたり、著者に共感できればそれなりに読めるのかも知れないが、私はうんざりしただけだった。

『列女伝・上』(明治書院)
 解説と現代語訳の部分のみ読んだ。上巻には「母儀傳」「賢明傳」とを収録。母の話(「母儀傳」)には、巨人の足跡を踏んで身ごもる話、ツバメの卵を飲んで身ごもる話などもある。孟母三遷のエピソードもここに含まれている。家父長制度が時として母の権力を異様に増大させるという面があり、賢母というのは実は強権を握っているのだという感覚がここには表われている。要するに賢母に育てられた息子は母に頭が上がらないのだ。典型的なマザ・コン状態である。もちろん列女を賛美したいわけではないが、女性の地位が極端に低い中国でも、このようにたくましく生きている側面もあったということは心にとどめておきたい。「賢明傳」は妻の話で、夫である王の愚かさをジョークに紛らしていさめるかっこいいお妃なども登場するが、こちらは概して貞婦となっていて、迫力に欠ける。

ピアズ・アンソニイ『セントールの選択』(ハヤカワ文庫FT)
 前巻の続き。翼あるセントールの息子チェがさらわれたことから、冒険が繰り広げられる。いろいろとあってドルフ王子が問題を解決する。新シリーズになってからどうもおもしろみに欠けてしまっている。今回は女悪魔メトリアが登場して場を盛り上げるが、そうでなければとてつもなくつまらない話になっていたかも知れない。みんなが強大な力を持ち、みんながどんどん善人になっていくので、ドラゴンボール的につまらなくなっていくのだろう。
*中野武蔵野館でチェコ・アニメ特集を上映中(11月まで)。ようやく時間を取って第一回分を観に行くことができた。去年は観客が多かったが、今回は期間が長いせいか、とてつもなく入りが悪い。ポヤールとかトルンカの旧作なんてまたいつ観られるかわからないというのに! 二十五日
多田智満子『動物の宇宙誌』(青土社)
 ギリシャ・ローマ神話と中国神話を中心に、日印ほかの神話・伝説から動物に関するエピソードを拾い上げたもの。亀・鶴・いるか・馬・牛で、牛馬の分量が多い。牛の項では、『幻想文学』56号では多田さんにエッセイをお願いしたが、内容的にほぼ重なるものがある。また、同誌で武田雅哉・須永朝彦両氏が触れていた牛の説話と同じものへの言及もあった。多田さんとしては軽いエッセイ集だろう。

小池滋『ゴシック小説を読む』(岩波書店)
 bk1を参照。

横山茂雄『異形のテクスト』(国書刊行会)
 再読。bk1を参照。

八木敏雄『アメリカン・ゴシックの水脈』
(研究社)
 再読。bk1を参照。

『ピランデッロ戯曲集』(新水社)
 「作者を探す六人の登場人物」(これは再読)「エンリーコ四世」「今宵は即興で演じます」を収録する。いずれも劇中劇の趣向を持つが、「六人」と「今宵」は劇中劇三部作と呼ばれるもののうちの二つで、メタ演劇・メタ戯曲であり、本と演出・俳優の乖離あるいは舞台芸術の要は何かといった演劇論ともなっているのが特徴だ。「六人」の方はさらに作者と登場人物との関係がからんでくることから、文学一般論としても読むことができる。趣向としての「今宵」の奇抜さはすごいと思うが、これで面白い舞台が期待できるのかどうかははなはだ疑問である。やはり「六人」の方が仕掛けが大きくないぶんだけインパクトもあり、おもしろいと思う。しかし、文芸としての評価はともかく、舞台には暗いので、確かなことは言えない。やはり演出と俳優次第だろうか。

二十六日
ウィルキー・コリンズ『ならず者・幽霊ホテル』
(臨川書店)
 コリンズ傑作選は図書館で借りて読んでいるのだが、本書は予約して借りたものだ。つまり私の前に読んでいた人がいるということで、どんな人が読むのだろうか、と興味がわく。さて、「ならず者」はピカレスクのユーモア小説。家を出て戯画作者となった不良息子が、贋金造りの頭領の娘に恋をするという展開で、風刺的というよりはほとんどギャグ小説。一方それとは対照的に「幽霊ホテル」の方は陰鬱なミステリであり、ゴシック色の強い作品と言える。大悪女として知られるナローナ伯爵夫人と結婚したウェストウィック卿はイタリア滞在中に不審な死を遂げる。一方夫人は彼の最初の婚約者が自分を死に追いやる女性だとの強迫観念を抱いており……。なんとコリンズには非常に珍しいことながら、ほんものの幽霊が登場する。

浅羽通明『野望としての教養』(
時事通信社)
 わかりやすくて、おもしろい。同世代だし、かつてはSF少年で『幻想文学』にも近い位置にいた浅羽さんとは、共有している知識がとても多いのだけれど、浅羽さんは私よりも何倍も頭が良いので、その知識をもとに自分自身の思想を理論化して提示して見せることが出来る。そしてそのように自分の思想というか自分の輪郭を知識を援用して描くことが出来るということの見本として浅羽さん自身が学生の前に立ち、こんなことも可能だよと身をもって示しているように思う。教育とはどういうことかというテーマから、一部は妖怪論にも連なっていくあたりは幻想文学にも関連があるだろうか。基本的には関係ないけど。学校の特異性を論じるところで東雅夫の悪夢が引用されていておかしかった。個人的に知っているからこそのおかしさだが。
 
杉山洋子ほか『古典ゴシック小説を読む』(英宝社)
 bk1参照。レファレンスがすごいぞ!

紀田順一郎・荒俣宏ほか『ゴシック幻想』
(書苑新社)
 再読。bk1参照。もはや四半世紀も前のものになる『出口なき迷宮』の再刊。なめるように読んだ大学時代が懐かしい。さすがに解読が古いですな。

二十七日
ジャン・ボテロ『バビロンとバイブル』
(法政大学出版局)
 くさび文字の解読に生涯を捧げたと言っても過言ではないアッシリア学者による自伝的インタビュー。青春時代、メソポタミアへの傾倒と、メソポタミア文化についての見解や紹介などが語られている。タイトルから感じられるような、比較宗教学、比較神話学の話ではなく、ボテロ自身への入門書といった趣。神話学的なものを求めてもあまり得るところはないだろう。同じボテロなら、『メソポタミア』は専門的だが、そちらを読んだほうがいいと思う。雑談で、エリアーデは真っ向から全否定しているが、レヴィ=ストロースの構造主義については否定の態度を見せながらも、「私の方がまちがっているのでしょうね」と、門外漢だからという理由で一歩引いた態度を見せるのはちょっと恥ずかしい。徹底したエゴイスト、無用の学問、と言いながら、そこに何らかの高貴性を見ているのは確かで、人間として当たり前のことだとはいえ、私もまたそうなのかも知れないとはいえ、やっぱり恥ずかしい。

立原えりか『天人の橋』(愛育社)
 夢見がちな、あるいは孤独な男女、そこに出現する永遠の伴侶。そして死、あるいは幸福な生。ファンタジー短編集。

レオンシオ・ガルツァバルデス『イエスのDNA』(成甲書房)
 トリノの聖骸布は細菌によるバイオ・プラスチック膜で覆われている。だから炭素年代記測定が測定を誤ったのだ、とする一冊。20ページほどの論文ですむところを一冊の本にしているわけだから、読むところがない。もちろん聖骸布肯定派の書物で、血痕からDNAを取りだして男だということはわかった、というあたりは噴飯物だ。もっともバイオポリマーについては私は知らない。だが、どちらにしても、トンデモ本の翻訳家とそれ系の本を扱う出版社というコンビでは、本書の内容を信じろというほうが無理である。

マーク・タリー『イエスの隠された生涯』
(集英社)
 神、ユダヤ人、反抗者、智の師というイエスの四つの顔を見いだすドキュメンタリー。各地の研究者・神学者に出会い、その意見を聞きながら、イエスには四つのあるいはそれ以上の顔があったことを実感していく。インドで生まれ、インドで活躍した著者は、ちょっと変わったキリスト教者である。だが、それ以上に、同じカトリックのキリスト教者であっても、実にさまざまなイエスに対する意見を持っているところがおもしろい。

佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害』(集英社新書)
 アメリカのユダヤ人迫害の歴史を、1913年のレオ・フランクのリンチ事件から現代まで追ったもの。大学の人種別許容枠が現在も完全撤廃に至っていないというのが驚き。また、フォードがユダヤ人の親友をもちながら、ユダヤ人迫害を展開したのは、善いユダヤ人と悪いユダヤ人がいるという論理から、というくだりは、誰にでも善いユダヤ人が一人いる……というヒトラーの言葉を思い出させた。ユダヤ人の迫害がおもに妬視によって起こる、という立場に基づいて(日本人としてはそれも当然だろうが)、迫害史を追っていくので、わかりやすい。一面単純化のしすぎという印象もある。ただ以前読んだ「ユダヤ教徒だから迫害される」という意見をとる『なぜユダヤ人は迫害されるのか』の論者は、楽天的すぎるという思いを新たにした。彼らは本当に恵まれたユダヤ人家庭に育ったのだろうなあ。

小松左京『虚無回廊3』(角川春樹事務所)
 突如出現した超巨大な構築物の内部に入り込んだ人類の代表が、ほかの知的生命体に出会い、構築物の謎に迫るという話で、10年ほど前に出たものの続き。パス。

辻惟雄『遊戯する神仏たち』(角川書店)
 円空、木喰、風外慧薫、白隠など、近世の仏教の僧侶美術家たちの作品についての評論群やアミニズムをキイ・ワードにした日本美術史概論などを収録する。図版を多用し、個別の作品の特徴を的確な言葉で紹介していく、それ自体技芸的な作品論になっている。

二十八日
佐伯順子『泉鏡花』(ちくま新書)
 『日本橋』『夜叉ケ池』『草迷宮』の三作品を取り上げ、舞台・映画・漫画など視覚化された鏡花作品と鏡花の原作との対比を通して、鏡花作品の特質を浮かび上がらせ、あわせてその現代にアピールする部分の検証を行なっている。『天守物語』についての論考も欲しかった。

ナイジェル・ウィルキンズ『ニコラ・フラメル 錬金術師伝説』
(白水社)
 ニコラ・フラメルはただの成り上がり的ブルジョアであり、錬金術との関係は無い、と立証する評論。

デイヴィッド・J・スカル『マッド・サイエンティストの夢』
(青土社)
 映画・小説そしてUFO現象などのサブ・カルチャーが無意識のうちに科学への恐れを表出していることを論じる。ほとんどホラーSF映画史であり、特に「フランケンシュタイン」ものに精力が傾けられている。内容的にはそこそこだが、終盤にいたってとてつもなく驚いた。「クラークはかつて、どんなに十分進歩したテクノロジーでも魔術と見分けがつくことはないだろうと述べたことがある」! これは「充分に進歩したテクノロジーは魔術と見分けがつかない」という命題のことにちがいない。こんなに超有名な言葉を知らないのか……と思うのはSF関係者だけ? だいたいこの訳文では文意として変だろうが! テクノロジーは常に魔術と見分けがつかないと言っているわけだから……そんなばかなことがあるか。この訳者の翻訳書は私はかなり読んでおり、特に神話などの翻訳も多い。そちらの方面では基礎的知識というか教養がきちんとしていることを祈るばかりだが、とにかくかなり愕然としてしまった。

二十九日

麻耶雄嵩『木製の王子』(講談社ノベルズ)
 カルトもののミステリ。烏有(パス!)が端役で登場し、結婚する。

大塚英志『木島日記』(角川書店)
 漫画のイメージの方が強い。情報が増えただけ小説として見苦しくなったという印象。

倉阪鬼一郎『屍船』(徳間書店)
 息抜きのために読み始めて結局読み終えてしまった。表題作がおもしろかった。

野溝七生子『眉輪』(展望社)
 歴史小説。アナクロも著者の顔出しも、無意識にされているとは到底思えないが、効いているという感じでもなく、どっちつかずの印象を受ける。文体的にもそう。解説の久世光彦は「奇跡の書」と言うが、私はそういう印象は受けなかった。

プリーモ・レーヴィ『周期律』(工作舎)
 元素をタイトルにして半自伝を繰り広げる。一族を紹介する最初の章では、部外者がいかにもユダヤ人的と感じるような一家の肖像が描かれ、次の少年時代では自分を戯画化する手つきにアメリカのユダヤ系文学と共通するものを感じさせる。後半には自作の小品やアウシュヴィッツ体験、他書でも触れられていたミュラー博士とのやりとりなどが収められている。ファンタスティックな炭素の旅がラストに置かれていて感慨深いが、全体としては幻想的な描き方はしていない。

三十日
ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(群像社)
 再読。三回目ぐらいだと思うが、新訳なので読んだ。シニカルなユーモアが好き。ロシアの幻想小説の中でもかなり好きな方。

アンナ・マリア・オルテーゼ『悲しみの鶸』(白水社)
 18世紀のイタリアが舞台。メロドラマティックな純文学を思わせるタイトルだが(内容的には確かに一人の女性をめぐるメロドラマと言えなくもない)、「鶸」にはある象徴が込められており、一筋縄では行かない。マジック・リアリズム系列のたいへんに魅力的な小説。

三十一日
テリー・プラチェット『異端審問』(鳥影社)
 《ディスクワールド》シリーズの一編。カトリックの戯画たる宗教都市・オムニア城塞を舞台にしたもので、〈神〉がテーマの作品だ。もちろんおもしろい。キャラクターも良い。訳者については、この翻訳を出し続けている以上、文句を言いたくはないのだが、あまり自分の教養を過信しない方がいいと思う。自戒をこめつつ言うのだが、時としてひどくみっともない。
 七月のことだが、《ディスクワールド》というアドベンチャー・ゲームを中古で買った。日本語版(セガサターン)である。こんなものが翻訳されるなんて、と感心せざるを得ない。ゲームとしてはかったるいし、ダジャレは訳せない以上、笑うわけにもいかない。遊戯王ほどじゃないにしても主役(リンスウィンド)の声優が下手だし。ゲームの世界の最低製作数はどれぐらいなんだろう。いったいどんなゲーム・ファンがこれを買うのだろうか。

ロバート・アスプリン『魔法探偵、総員出動!』(ハヤカワ文庫FT)
 《マジカルランド》9巻目。グイドとヌンジオが軍隊に入る話。あまりのつまらなさに絶句。どうしてこれがこの文庫でシリーズ化され、《ディスクワールド》がそうならないのか。信じがたい。

八月の雑感。夏休みだというのに、子供ともあまり遊ばず、北岳に一度登っただけでろくに出かけもせず、一生懸命本を読んだつもりだったのに、結局本の山はあまり小さくなってもいない。どうしたわけだろう。来月は本を読む時間がなくなるので、さびしい藍読日記になるだろう。