藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年9月


一日
リン・マーギュス『共生生命体の30億年』
(草思社)
 細菌細胞の合体・融合によって進化が進められてきたとする共生説の第一人者による入門書。現在の細胞に見られる共生の痕跡とそこから導き出される進化の過程、生命の発生、性によるシステム、生物界の分類の仕方に関する提言、ファンタジーではないガイア理論などを日常的な言葉で概説する。非常にわかりやすいのだが、中途半端な個人史がうざったい。それはともかく、こうした科学啓蒙書は、さまざまな立場の科学者&ライターがそれぞれに勝手なことを言い合っている、という印象がいつもするものである。進化のようにいろいろな説が入り乱れて覇権を争っているような生物学の世界では、とりわけ激しいのではないだろうか。こうした細菌の分野からDNA研究も含めた分子生物学、そしてもっと古典的な化石生物学、さらには他の動物を見る社会生物学のような分野では、人間とは何かという大問題に直接迫り得る分野だけに、波もまた激しいのだろうと予想される。

立川昭二『からだことば』(早川書房)
 目、口、血など、身体に関わる日本語表現を取り上げ、そこから文化的な問題を探っていこうとする試み。言葉が失われていくと同時に、つまり表現がやせ細っていくと同時に、身体感覚もまた衰えてしまうという指摘は興味深い。さもありなんと思う一方で、本当だろうか、とも思う。ただそういう言葉を愛さない人は、そういう身体を受け入れないであろうということは確かなことのように思われる。

アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)
 ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ&ガタリ、ヴィリリオの作品における数学・物理学の間違いを指摘してみせたもの。引用された部分だけ見るとラカンなどはあたかも精神異常者のようだ。ドゥルーズ&ガタリは一応何らかの意味をなすように、つまり詩的言語として数学や科学の言葉が使われているという印象を与えるが、それはかえって悪質と言えるかも知れない。ともあれ、まさに「知の欺瞞」的な状況を見せつけられ、あきれにあきれたのだった。『サイエンス・ウォーズ』を読んだときにはここまでひどいとは思わなかった。金森さんは『「知」の欺瞞』は言っていることはもっともだが、大したことではなく、こうしたいい加減さがまかり通ったこの業界全体の方が悪いのだ、という論を展開している。だが、たぶんそうではない。これは物を書くということと権力にまつわる大問題なのだ。権威として数学や科学が用いられたということから馬脚が現われてしまったということだが、これらの哲学者たちはそれ以外の部分でも権威を濫用していないとどうして言えようか。こうした恥ずべきことをしてしまうということは、ものを書いて発表しうるということ、そして大学で教えるということは、即権力の行使であるという単純な事実にすら無頓着なのだということであって、その意味で度し難い、物書きとしては最低な輩だということにほかならない。(ただ、クリステヴァだけは除外したい。なぜなら彼女は24歳のデビュー作でこの手法を取っただけで、後にはそこから離れているから。つまりこの場合に限って言えば、ラカンかぶれのバカな若い女性をたしなめなかった業界が全面的に悪いのだ。)なお巻末に、著者らが本書を執筆するもととなった、ソーカルが冗談で書いた哲学風論文も収録されている。訳者の一人堀茂樹のエッセイにここからリンクできる。

二日
A・G・ケアンズスミス『〈心〉はなぜ進化するのか』(青土社)
 まず電気とは何かということと量子力学の簡単な説明から入る。なんだろうと思っていると、シナプスの説明になって脳の働きの概説になる。著者は分子生物学者なのである。副題は「心・脳・意識の起源」だが、意識は単純な大腸菌にもある反応から進化したものと説明される。(だが、なぜなのかには力点は置かれていない。)延々と説明をして、脳と意識の関係を探るいろいろとおもしろい実験の結果が書かれていて楽しいのだが、そこを抜けると、要するにもっと広範囲な脳の電気信号の結果を統合する場所が脳の中になければならないのではないかという古くから言われるている意識の座の問題に移る。そしてここから先がよくわけがわからなくなるのだが、量子論がかかわってくるというのだ。脳が超電導状態になるというような、あるいは「充実した無」状態になるとか。脳は常に創造を繰り返すのか? 要するに場でないところに一時的に場が形成されるということなんだろうか。はっきり言ってなんだかわからない。誰か教えて欲しい。

ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』(青土社)
 ダナ・ハラウェイはマルクス主義(社会主義・唯物論)のフェミニストだというが、このスタンス自体が私にはよく納得できないので、理解しがたいところがたくさんあった。また、翻訳のせいか原文のせいか分からないが、何を言いたいのかはっきりしない文章も多々ある。本書の第一部、第二部は科学史の中でも特に社会生物学と言われている分野(の中でも特に猿学)の欺瞞を取り扱っているので、当該分野に興味のある人は一読の価値はある。

三日
寺沢浩一『日常生活の法医学』
(岩波新書)(京)
 日常生活の関わりに力点を置いて法医学の仕事を説明。全死亡数のうち解剖される死体の率が世界でいちばん低いのが日本である。異状死体でも解剖されないことが多いらしい。著者はとにかく人手不足なのだと嘆いている。日本はいろいろな局面でシステムを(良い方に)変えていかないと、本当にしょうもなくなってしまう。

東照二『バイリンガリズム』
(講談社現代新書)(京)
 バイリンガルとは何か、その長所と短所、おもしろい特徴などを、個人的な側面、社会的な側面両方について検討する。幼時から英語教育を施して英語を第二公用語にしようということのばからしさを説明し、もっと大事なことがあるのではと後書きでは述べている。まったくもっともな意見だと思う。

大西巨人『二十世紀前夜祭』
(光文社)(京)
 寓話的小品と批評的短篇を収録する。作品が悪いわけではないが、個人的に文体も思考内容も好きじゃない。

ニック・ジョンストン『パティ・スミス』
(筑摩書房)(京)
 パティ・スミスの伝記。ランボーやジャン・ジュネといった芸術家に影響されて、その軌跡をなぞるように生きたと著者は言う。芸術家かぶれのアーティスト? それで超越的なものを求め、夫と死別するまで良妻賢母となって活動を一時停止、キリストの生き方に深くとらわれながら再起を果たしたという。彼女の生き方自体が危険な匂いがする。

多和田葉子『光とゼラチンのライプチッヒ』(講談社)(京)
 夢の記述風の短篇を含む短編集。戯曲が一本含まれている。

小池寿子『屍体狩り』(白水uブックス)
 なんだか昔読んだような気がするが。屍体にまつわる短い話を収録した著者のデビュー作。屍体の図像が好き好きということが何度も書いてある。ダンス・マカーブルについての話題よりも、トランジ、死神、ヴァニタスなどの話題が多く、とにかくたくさんのものをカバーしようとしている感じだ。当時は日本についての知識を持っていなかったこと、比較図像学的な考え方も薄いことなどがわかる。

三浦國雄『不老不死という欲望』(人文書院)
 中国の道教関連の話題を集めた小論集。取り上げられるのは、神仙、煉丹術、気信仰、身体観、霊魂観、ユートピアなど。

神原正明『天国と地獄』(講談社選書メチエ)
 キリスト教における終末思想とあの世の観念を絵画に見ていく美術史書。著者はボスの研究者なので、最終的には「快楽の園」の解読に向かっている。

大形徹『魂のありか』(角川選書)
 中国古代の霊魂観を概説したもの。よく出来た本だと思う。『陋巷に在り』のファンなどにはおすすめ。

『妖怪図巻』(国書刊行会)
 京極夏彦が序文を寄せ、多田克己が図巻そのものの成立史と個々の妖怪の解説を執筆している。

五日
乙一『夏と花火と私の死体』(集英社文庫)
 語りの構造に一応の工夫が見られるホラー短編集。と言っても二編しか入っていないが。16歳で書いたのなら早熟な才能とは言えるだろう。

中村融編訳『影が行く』(創元SF文庫)
 全13編を収録するSFホラー短篇集。これは読んで損がない。

六日
キャサリン・アサロ『制覇せよ 、光輝の海を!』(ハヤカワ文庫SF)
 退避したロミオとジュリエットにはたくさんの子供が産まれ、スコーリア、ユーブ両帝王の死とともに前線へと復帰する。相変わらずつまらない。(だったら読むなよ!)

若桑みどり『象徴としての女性像』(筑摩書房)
 フェミニズムの視点から見た西洋芸術史。序論から西洋世界の男根的文化の成り立ちにハイテンションの怒りをぶつけているのは、たぶん彼女がフェミニズムの思想に最近(と言っても五年の構想とあるからせいぜいこの十年くらいのあいだではないか)触れ、自分の仕事はこれまで何をしてきたのかを鋭く反省させられるという体験があったためではないかと推測される。幻想文学もまたフェミニズムとは厳しい関係にあるのだ。どんなスタンスで批評をするかが本当に問われるところと我が身に引きつけて考える。あまりこだわりすぎてもろくなことにはならぬし。ともあれ、本書について言えばフェミニズム的視点に立つ文化史的解説の部分が長すぎて、肝腎の美術の方がいささか物足りなくなっているという欠点がある。もちろんフェミニズムを知らない人、忌避している人(男女を問わず)には無条件で読んで欲しい。

七日
山口泉『永遠の春』(河出書房新社)
 性を奨励するポルノにして教育映画という国家プロジェクトをめぐる断片的な作品。この世の愚劣さ(主に性に関わる)、国家のおぞましさに唾を吐いているが、読んでいると憂鬱になる。

イアン・マキューアン『セメント・ガーデン』(早川書房)
 もはや20年以上前の作品となった著者の長篇第一作。17歳の長女、15歳の長男、13歳の次女、少し年の離れた次男の四人の子供は、父に次いで母を亡くす。もしも母の死が知れたらみんなバラバラ、家はめちゃめちゃになる。上の二人は母の死体をセメントに隠すことにするが……。子供だけの暗い楽園/明るい地獄を描く。「親に育てられる子供」というテーマはマキューアンにとってはきわめて大きなテーマらしく、後の作品でもいろいろな形で繰り返されていく。近親相姦と大きく謳っているが、このテーマに対する掘り下げはあまりない。

エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』(あすなろ書房)
 川の水が流れを止めた原因を探るため探検に出かけた村人を描くファンタジー。まあまあ。

スザンナ・マターロ『トビアと天使』(あすなろ書房)
 両親が不仲な少女が、唯一の理解者の祖父も失い、家出をしてしまう。木々もウサギもしゃべり、守護天使が登場するのでファンタジーだろう。パスである。

八日
森博嗣『女王の百年密室』(幻冬舎)
 わずか150人が住む閉鎖的な町に迷い込んだミチルとロイディは、そこでは誰も死なない、神による復活の時を待っていると教えられる。死は「永い眠り」と表現されるだけだ。巨大な宮殿には若く美しい女王が君臨し、神のお告げをみなに伝える役目を担って崇敬を集めている。ミチルは一種のカルトのキャンプにたまたま入ってしまったことになる。ところが、そこで殺人が起き……。SF的設定のミステリ。こういう設定に出会うと無意識のうちにファンタジーを望んでしまうので、最後まで読むと必ずがっかりするのだ。いちばんつまらない解決だな……と。とにかく改行ばかりの子供っぽい文章で、そこで悪や復讐(あるいは更生)や死や神やらの問題が語られるわけだが、論じられることも子供っぽいのである。

イアン・マキューアン『黒い犬』(早川書房)
 神秘主義と科学的合理主義の反目が、夫婦の反目という形で表現し、そこに人間の悪の問題などをからませた作品。

和木浩子『八岐の大蛇』(教育画劇)
 八岐大蛇に擬される英雄的人物がいたというふうに、スサノオ伝説を読み替えた歴史ファンタジー。神話から隠された歴史を構築するという意味で伝奇小説と言えるが、神話から幻想的なものを取り去った作品とも言える。草薙剣が神剣として描かれているところはファンタジーらしい。

パスカル・キニャール『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』(青土社)
 古代ローマの大富豪の奥方の残したメモという体裁の優雅な偽書。ほかに『アルブキウス』と同様の構想の短篇「理性」を収録する。

雨宮町子『たたり』(双葉社)
 養老孟司の帯ととんでもなく地味な装丁を見て、純文系の、それこそシャーリー・ジャクスン風のホラーなんだと勘違いして買ってしまったが、ただのホラーだった。「日本版『シャイニング』」というところだけ信用した方が良かったのである。要するに普通の幽霊屋敷もの。ホラーにしてはそこそこおもしろいが、登場人物が活かしきれていない点(構造的な欠陥である)、悪に対する考察があまりにも中途半端な点(この程度なら無いほうがマシ)、恐怖の描写が物足りない点(最初の亡霊登場のシーンはいいのだが、後半部での描写に厚みが無い)、会話だけで描こうとしている点(会話がうまいので何とか読めるのである)、クライマックスがあっけなく、盛り上がりがいまいちな点などが挙げられる。ちゃんと通読できてうんざりしなかったのでよしとしよう。

関沢正躬『算数があぶない』(岩波ブックレット513)
 2002年度から実施予定の学習指導要領を小学校の算数について検討したもの。文部省はバカの集まりで、日本がどれほどくだらない官僚を持っているかがよく分かる。日本国民全体の低い水準に見合っているのだから仕方がない、と反論されれば何も言えないが。『数の悪魔』のような本が異様に売れ、漢検がブームになる一方で、文部省によって算数や漢字が敵視されていく。結局子供が筋の通らない指導で犠牲になるのだ。

十一日
首藤瓜於『脳男』
(講談社)(京)
 2000年度江戸川乱歩賞受賞作だが、医学系というか脳系のSFで、いわゆるミステリ色はたいへんに薄い。横溝賞はまったくのSFだったが、乱歩賞までとは恐れ入った。コレガミステリカ。また自閉症に対して謬見を与えるのではないかと思われる記述があるのがたいへんに気になった。自閉症に対して誤った認識が広まっている現状では、こういうところを粗雑に描くのは許されないことと思う。乱歩賞受賞作は例年ものすごく売れるらしいから、出版社側も専門の医師などに確認をとる努力を怠るべきではないと思う。

佐藤洋一郎『縄文農耕の世界』(PHP新書)(京)
 人が手を加えて自然をかく乱し、後戻りのきかない変化を植物に与えて収穫率をあげるとしたら、それはすべて農耕なのだという視点に立ち、縄文農耕を力説する。

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮社)(京)
 1999年ニューヨーカー新人賞、O・ヘンリー賞、PEN/ヘミングウェイ賞と短篇の賞を総なめし、さらには本書でピュリツァー賞まで取ってしまったという破格の新人の作品集。著者はインド系二世で、作品はどれもその出自を多分に意識したしものだ。とは言え、著者自身を思わせる人物を語り手とするのは「ピルサダさんが食事に来たころ」のみで、むしろ表題作や「三度目で最後の大陸」のように渡米したインド人男性の視点から描いたものやまたインド人から見た一時帰国のインド系米人、はたまた普通のアメリカの少年やアメリカ人女性の視点からインド系米人を描いた作品など、多彩な視点を用いているところが特徴。意表を突かれるのは表題作で、子供の流産以後ぎくしゃくしてしまった夫婦の関係を描いているが、思わぬ決着に驚かされる。インド系米人の妻の孤独を描く「セン夫人の家」、宗教的なもの、ひいてはアメリカ的なものへの対処の仕方の違いがインド系夫婦の行き違いをあらわにする「神の恵みの家」、著者の両親の物語としても読むことができる、インド系米人の夫婦が次第にアメリカという風土になれ、愛を築いていくささやかな物語を感動的に描く「三度目で最後の大陸」など。それなりに巧みかも知れないが、要するに非常に普通の小説。移民テーマという点では、誰もが書けるというわけではないので(ネイティヴテーマと同様)、希少価値もあるのであろう。また、みんな日常のささやかな愛と孤独を描いた物語が好きなのだと思う。それはそういうものだろう。そのような意味で魅力的な短編集ではある。私の好みではないけれども。小川高義訳。

浅田次郎『薔薇盗人』(新潮社)(京)
 オヤジ願望満開の短編集。幻想ものは本書には無し。パス。

入来典『赤ちゃんの歴史』(鳥影社)(京)
 フランスの近世以降の妊娠・出産・子育てに関する歴史を略述したもので、日本の歴史も対照のためにいくぶんか引かれている。著者は小児科医であるらしく、その立場から書いている。全体としてはよく知られた女の歴史の一コマだが、個人的に未知の話題としては、マダム・デュ・クウドレという婦人が、母胎と胎児の模型を作り、それを持って各地を巡回して産婆講習をしたという「近代助産婦の母」の話があった。とにかく子供はよく死ぬ。またお産がたいへんで不衛生なので母も死にやすい。どんなに人間がもろいものか、ということを、あるいは女性と子供がどれだけ圧倒的に不利だったかということを改めて思い知らされる。(京)

ピエール・マッコルラン『恋する潜水艦』(国書刊行会)
 意志を持った機械と有機生命体との融合を描いたファルスである表題作とピカレスク小説(一つは宝探し物、一つは海賊物)二編を収録する短編集。

アンドリュー・ミラー『器用な痛み』(白水社)
 18世紀のイギリスを舞台に、痛覚を持たない少年がやがて名外科医となっていくさまを描く。ジュースキントの『香水』を思わせるとあるが、内容的にはもっと普通。彼の周りの人間の方がサディスティックでおぞましい。

エステルハージ・ペーテル『黄金のプダペスト』(未知谷)
 現代ハンガリーの前衛的な手法の作家。冒頭の「見えない都市」はカルヴィーノの同名作を作中に取り込んだパロディ。ハンガリーとその文学に暗いので、かなりわかりにく作品が多い。歴史が描かれている「ある五月」の方が私などにはかえって楽。ともあれ、ハンガリーの実験小説、こんなものが書かれているということ自体、ハンガリーの安定を思わせる。

十二日
南風島渉『いつかロロサエの森で』
(コモンズ)(京)
 1975年、東ティモールはインドネシアによる侵攻を受け、一方的に併合される。爾来24年間にわたり、独立を求めてのゲリラ活動が行われてきた。93年、大した予備知識もなく通信の写真記者として東ティモールを訪れた著者は、そこが「隠された紛争地帯」であったことを知る。ゲリラの闘志の一人は、従姉が強姦され殺されるのを目前で見た。従姉は叫ぶ「目をそむけずに見るのよ!」と。それが戦いの根にある、と彼は語る。そしてそんな体験を、インドネシア軍の暴虐から生き残った誰もが持っているのだと。命の値段があまりにも安い東ティモールで、独立をかけて戦う人々の姿を通じ、インドネシアの横暴を著者は世に訴える。著者はゲリラの人々との交流から、インドネシアのスハルト政権を無批判に支持し、金銭と物資を提供することで日本の手もまた汚れていることを意識せずにはいられないのだ。かつてティモールもインドネシアも属国とした軍事政権日本、その事実すら知らない若者たちがバリにおしかけ、幻想を味わう。その落差たるや。もちろん私もその一人に過ぎないのだろうが。

小原雅俊編『東欧文学の贈物』(未知谷)
 ポーランド、ルーマニア、クロアチア、セルビア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ブルガリア各国の作品が収録されている。訳者一人が一作家一作品を自由に選び、訳すという体裁を採っているので、ファンタジーもリアリズムもあれば詩も民話の再話も評論もあるという風である。ファンタジーの数は多くはない。ファンタジー以外の作品では、収容所のおぞましい石鹸造りの話を通じて、人間の無感覚を描き出す「シュパンナー教授」、つかの間の逢瀬を楽しむ夫婦が出会う人生の不条理を描く「復活祭」、悲劇と喜劇の混交する青春をそのままに描き出す「ミリアム」「どのように私は英語とドイツ語を学んだか」、20世紀初頭の大学に通う女たちを描く「新しい娘たち」などが印象に残る。たぶん、読む人ごとに違うものを見つけるだろう。私はこういう雑多な短編集が非常に好きだが、あまり一般的ではないだろう。

ポール・オースター『空腹の技法』
(新潮社)
 詩の評論を中心に、文芸評論やエッセイ、自作に関するインタビューなどを収録したもの。短編集だと思って買ったのでバカを見た。なにしろ取り上げられている詩人のほとんどを読んだことがない(小説ならまだしも、詩をどうやって翻訳で味わえというのか)。オースターは哲学的な評価を下しているのだからあまり言葉とは関連がなさそうだが、それにしてもここで引用されているものだけではオースターの評言を鵜呑みにもできない。まあどうでもいいのだが。オースターがものすごく好きというわけでもないし、尊敬しているわけでもないから。インタビューは真面目に応えていて、そうなのね……と納得されるところが多々あった。ただし特に勧めない。

十三日
バルガス・リョサ『誰がパレミノ・モレーロを殺したか』(現代企画室)
 リョサとしてはたいへんに短い。ミステリ。幻想色は無し。

ロドリゴ・レイローサ『その時は殺され……』(現代企画室)
 幻想的な作風でデビューしたらしい作家で、ポール・ボウルズに認められたという。本書は一人の女性を中心に起きた三つの死を描いたもので、政治色が強く、現実的。幻想性はない。死は唐突に訪れるが、不条理というほどにも描かれていない。

鼓直『ラテンアメリカ小説の世界』(北宋社)
 これまでの翻訳の解説などをまとめたもので、文章的な重複が多々あるし、誤植がひどい。鼓先生御自身にうかがったところ、ラテン・アメリカ文学のファンで病気の方がいらして、どうしても、というような誘いを北宋社から受けたので、とにかくあとがきをまとめるということでお任せしたとのこと。校正もしていないので、恥ずかしくてとても同業者には見せられないと後悔しきりの様子であった。半分近くが私も読んだことのある書物のあとがきで、どこかで読んだようなという印象は免れないが、とにかく類書がないので、ラテンアメリカ文学をほとんど知らないような人にはいいかも知れない。中村真一郎との対談で、ラテンアメリカ文学の特質が簡潔にまとめられているあたり、参考になる。

カルロス・フエンテス『埋もれた鏡』(中央公論社)
 スペイン=ラテン・アメリカ史。スペインとラテアメの関係をフエンテスがどうみていたのか、何となくわかる。

小川洋子『沈黙博物館』(筑摩書房)
 まったくこれは著者らしい作品だ。死者からこっそりと盗み取ってきた「形見の品」の博物館を作る話。

十四日
林晋『パラドックス!』(日本評論社)
 数学を中心に、代表的なパラドックスを数理論学者とか哲学者など総勢11名が解説したもの。数学の専門書店だし、おもしろいかもと思って買ったのがまちがいであった。これはつまらない。一般人を読者に想定しているせいか、あまりにも有名なパラドックスばかりだ。そのくせ、無限の話など、この説明では知らない人には理解できないよ、と思うようなものもあった。唯一、林による形式化の話が、システム工学という私にはまったくわからん世界の話なので興味深かった。同じ読むなら、数冊になってしまってもそれぞれについてもっと詳しい本を読むことをお勧めする。

『ラテン・アメリカ史』1・2(山川出版社)
 基礎的な書物。ラテアメ特集のために読んだが、なんとものを知らずに平気で生きていることか、と思う。

牛島信明『スペイン古典文学史』
(名古屋大学出版会)
 「わがシッドの歌」からカルデロン、グラシアンまで、著名な作家・作品を取り上げる。ファンタジーは多くないのだが、本書の解説を読むと『人の世は夢』を幻想文学として読み返さねばならないのでは、という気分になる。

十七日
イドリース・シャー『スーフィー』(国書刊行会)
 イスラム教神秘主義という意味でのスーフィズムというよりは、根源的な神秘主義としてのスーフィズムを論じたもの。詳細は省くが、「いわゆるスーフィー」を語っているのではないため、イスラーム的なものとの関連よりもカバラ、キリスト教神秘主義との関連に力点が置かれている。神秘主義にかなり親しんでいて、実践的な活動をしている人には大いに助けになるだろう。あまり客観的に読んではいけない本だ。スーフィズムに触れたことがない人にはあまり勧められないように思う。たいへんに難しい内容であったため、数日かけて読んでいる。

難波和彦『箱の家に住みたい』
(王国社)(京)
 人気建築家の開放的空間を持つ家の話。「ローコストで坪60万でシナ合板」だそうで、建築家というのは高い金を取るのだなと改めて驚いた。合板の家なんか絶対に建てたくないと私は思うが……。(京)

夢枕獏『黒塚』(集英社)
 吸血鬼もの。ページの半分以上が白い。ハードカバーで税込みで2000円近くもするのに、いくらなんでもこれはないのでは?

赤瀬川原平『ゼロ発信』(中央公論社)(京)
 新聞小説。エッセイ風の。自分の本について編集者から散々な目に遭った話が憤りとともに書いてあり、もしも事実なのであれば、こんなことを日本でいちばん購読者の多い新聞で書いてしまう無神経さに驚かざるを得ない。そんなにその編集者やそれに関わったライターが憎いのか? 作り話だとしても後味は悪い。

佐藤洋一郎『猫の喪中』(集英社)(京)
 サディスティックな気味のある純文学。幻想ものではない。パス。

鷺沢萌『失恋』(実業之日本社)(京)
 恋愛小説集。もちろん幻想のげの字もない。

常石敬一『化学物質は警告する』(洋泉社新書)(京)
 日常生活に関わりのある毒物の話。個人的には興味深く読んだ。こういうことに詳しい人には当たり前のことが書いてあるのかも知れないけれど。それにしてもこんなに新書がたくさんのところから出て大丈夫なのだろうか。

十八日
*ここから先はラテンアメリカ特集のために読んだ本が多くなる。これらの本について、「再読」とあるものについては確認のための流し読みの場合もある。内容については『幻想文学』に紹介する予定。

コルタサル『石蹴り遊び』(集英社)
 再読。ラテアメ特集のために読んだ。

オネッティ『はかない人生』(集英社)
 ラテアメ特集のために読んだ。本来的に幻想小説とは言い難いが、かなりメタな作品。時期的にきわめて早いため問題作ではある。

カルペンティエール『追跡』(水声社)
 ラテアメ特集のために読んだ。きわめて技巧的な中編小説。基本的には幻想小説ではない。

十九日
ボルヘス『創造者』『永遠の薔薇・鉄の貨幣』(国書刊行会)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

『ボルヘスを読む』(国書刊行会)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。今や、こうした一種ハイブラウで、スノッブなものが通用しなくなってしまった時代だということを痛烈に思う。例えば土岐恒二は、「バベルの図書館」の一節を挙げ、それがフランスのスコラ神学者の有名な神の定義の「パロディであることは言うまでもない」と言ってみたりする。言うまでもない、というのは、みなさんご存知かも知れないけれども、念のために言っておくと……という意味であって、誰も知りそうもないところでこれを言うのは、嫌みなことだ。そして現代にこれを読めば嫌み以外のなにものでもなかろう。だが土岐恒二は嫌みで書いているのではないはずだ。あるいは、たとえ知らなくとも知った振りをすることで何らかの知的な雰囲気を共有できた時代というのがあったのかも知れない。どちらにせよ、これこれの教養を共有できる人々が日本にどれほどいるか、ということを常に考えつつ文章を書いている自分などとは決定的に違うということを、思い知らされるのだ。これは世代の差というものであって、いかんともしがたいものである。「いかんともしがたい」など、多少こうした堅苦しい言葉を使うことにさえ、ためらいがなくもない。「ご承知のように」とか「言うまでもなく」なんぞという言葉を何の意識することなく自然に使ってみたかったものだ。

杉山晃『南のざわめき』『ラテンアメリカ文学バザール』(現代企画室)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。現時点で入手可能な唯一の現代ラテアメ文学案内。特に後者は一応の案内書となるのでおすすめできる。

二十日
ボルヘス『七つの夜』(みすず書房)『ボルヘスとの対話』(晶文社)『ボルヘス・オラル』(水声社)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)『永遠の歴史』(筑摩書房)『異端審問』(晶文社)『不死の人』(白水社)『砂の本』(集英社)『ブロディーの報告書』(白水社)『』
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

『ラテンアメリカ文学を読む』(国書刊行会)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

二十一日
ジョン・バース『レターズ』(国書刊行会)
 結局一ヶ月くらいかかったようだ。とんでもなく読みにくい。バースの小説の登場人物などによる書簡体小説で、バース作品の解説にはなってはいるが、バースのファン以外には勧めかねる。バースってきっとものすごい自己愛が強い人なんだろうな。こんなにも自分の作品に価値を置けている。それにしてもボルヘスは言っている。「最初の20ページを読んでつまらなければ一旦本を置け」と。できればそうしてしまいたかった。最初がレディ・アマーストという新規の登場人物の手紙なのだが、これだけ読んで死にそうになったのである。とてつもなく人をうんざりさせるような手紙。だがここでめげていては読了できない(本を読むことは私の仕事なのだ。趣味ではない)。しかしこの出だしのためにこの2段組1150ページを読むことが、私にとってはほとんど拷問になった。もちろんただ一様につまらないのではないのだが、テーマ的にも興味が持てず(私はアメリカ人ではない、家族問題はどうでもいい、実験的的ノベルには懐疑的である)、二度とバースは読みたくない。

ボルヘス『悪党列伝』(晶文社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

フエンテス『聖域』(国書刊行会)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

フエンテス『アルテミオ・クルスの死』(新潮社)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

二十二日
ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記』
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

二十三日
シャルボニエ『ボルヘスとの対話』『パラケルススの薔薇』
(国書刊行会)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

二十四日
ラウラ・エスキヴェル『赤い薔薇ソースの伝説』(世界文化社)ホセ・ドノーソ『ラテンアメリカ文学のブーム』(東海大学出版会)ボルヘス&カサーレス『ブストス・ドメックのクロニクル』(国書刊行会)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

二十五日
多田智満子『長い川のある國』(書肆山田)
 詩集。エジプトがテーマの連作。タイトルはすべて「川」「砂」など一文字になっている。多田智満子である。

『ラテンアメリカ五人集』(集英社文庫)
 再読。ラテアメ特集のために読んだ。

二十六日
アルゲダス『ヤワル・フィエスタ』(現代企画室)
 ラテアメ特集のために読んだ。

二十七日
ビオイ・カサーレス『脱獄計画』(現代企画室)、『十二の遍歴の物語』(新潮社)アジェンデ『エバ・ルーナのお話』(国書刊行会)、ルルフォ『ペドロ・パラモ』(岩波文庫)、フエンテス『アウラ』(エディシオン・アルシーヴ)『アウラ・純な魂』(岩波文庫)、パチェーコ『メドゥーサの血』(まろうど社)
 すべて再読。ラテアメ特集のため。『アウラ』を出したエディシオン・アルシーヴというのは、若い人は知らないだろうが、『幻想文学』と似たようなことをやっていた、もっと神秘寄りの出版社で、「ソムニウム」という雑誌と《ソムニウム叢書》という単行本を何冊か出した。今、古書店でこれは手に入るだろうか。なにしろ二十年も前の翻訳だから、訳者も手を入れたいと思っているかも知れないが、『仮面の日々』はこの本でしか読めない(フエンテスの短編の代表作である「チャック・モール」だけは別)。「アウラ」は、この本の安藤哲行の翻訳と木村榮一の翻訳とでは雰囲気が異なる。どちらが原文の雰囲気に近いのかはわからないが、やはり最初に読んだときの衝撃が忘れ難いということがあって、読み返してみても安藤訳の方が好きだ。二人称小説だが、安藤は「おまえ」、木村は「君」と訳している。日本語は厄介で人称のヴァリエーションが豊富なので、その選び方一つで作品の雰囲気はずいぶんちがってしまう。どちらが原文にそぐうのかは私にはわからない。

二十八日
 ルゴーネス『塩の像』、アンソロジー『アルゼンチン短編集』『遠い女』(国書刊行会)『美しい水死人』(福武文庫)『ラテンアメリカ怪談集』(河出文庫)、コルタサル『悪魔の涎、追い求める男』(岩波文庫)、ガルシア=アマルケス『エレンディラ』(ちくま文庫)『ママ・グランデの葬儀』(集英社文庫)『青い犬の目』(福武書店)
 すべて再読。ラテアメ特集のため。

フエンテス『老いぼれグリンゴ』(集英社文庫)
 ラテアメ特集のため。幻想小説ではないが、設定に関連がある。

フエンテス『メヒコの時間』(新泉社)
 ラテアメ特集のため。評論集。知らない固有名詞なども多いうえに大変に読みづらく、時間がかかった。

ドノソ『三つのブルジョア小説』(集英社文庫)
 ラテアメ特集のため。これは実におもしろい連作集だった。今まで読んでいなかったので、反省した。ごめんなさい、ブックガイド1500で取り上げるべき作品でした。
9月の雑感。ただもう時間がない。中三の長男が弟と一緒の部屋だといやだと言い出し、仕事部屋をとられてしまったので、早朝に仕事が出来ず、それが結構響いている。ラテンアメリカの本は一冊読み終えるのに労力がいる。斜め読みでもきつい。日本の小説はそれに比べるとなんて簡単に読めちゃうのだろう。エンターテインメントだったりすると驚くほどの速度で読めてしまう。活字数だけの問題ではないと思う。