藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年10月


1日
猿谷要『遙かな国アメリカ』
(実業之日本社)(京)
 合衆国史の第一人者がつづった回想録。ラテンアメリカをやっているものだから、そのことが気になって仕方ない。日系のフジモリが大統領になったことについて感慨深げだったりして、軍と組んでフジモリが何をしてきたか考えたら、素直に喜んでいていいものかと思う。また、ヒスパニックが半数を超えようとている合衆国について、メキシコなどを侵略した仕返しを文化的に受けているのだと語るあたりはなるほど、と思う。アメリカ帝国主義というのは中米の人には許しがたいものだったようだが、フエンテスも近年は鷹揚に構えているのも、その趨勢と無関係ではなかろうと、杉山晃も言っていた。もっともこれも主情的な見方でしかないのだろうけど。

レオ・ブルース『結末のない事件』(新樹社)
 ビーフものというのは初めて読んだが、語り口がおもしろい。動機当てなので、そのための伏線がすごいのだが、ちょっとわからなかった。

鈴木陽子『麻薬取締官』(集英社新書)(京)
 麻薬取締官が全国にわずか百七十三人というのに驚いた。地域の小中学校では薬物乱用防止キャンペーンのために関係者が巡回して本物の薬物を見せ、危険性の説明などをしている。幻想文学と大麻・阿片は切っても切れない関係にあるが、現実問題として薬物をやって無事でいられるわけはない。無事でいなくてもいい、という考え方もあるだろうが。「人間やめますか」というコピーを見て、やめられるものならやめてみたいと薬物に手を出した女子高生もいると聞けば納得してしまうのではないか。ともあれ世の中には本当に「まずいコピー」というのがあるのだ。それよりも「ダメ。ゼッタイ。」の方がいいのだそうだ。「だめなものはだめ」としつけるわけだ。なるほどね。

定方正毅『中国で環境問題にとりくむ』
(岩波新書)(京)
 学者が実地に行なっている環境問題プロジェクトの話。とにかくたいへんそう。明日は我が身かも。

佐藤正午『ジャンプ』(光文社)(京)
 ネタを割ってしまう。視点の逆転が最後にある、なかなか……という作品。要するに主人公=語り手は典型的なエリート・サラリーマンで、女に関してものすごく自己中心的な男だったのだ、というお話。もちろんそう読まなくてもいいけど。

畑山博『森の小さな方舟暮らし』(新思索社)(京)
 かなりファンタスティックな内容の自然暮らしのエッセイ集。このてのものはしょうもないものが多過ぎるが、比較的おもしろい。最後の章の星座と地上の照応などがとてもおもしろい。

バルガス=リョサ『パンタレオン大尉と女たち』(新潮社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

2日
バルガス=リョサ『密林の語り部』
(新潮社)『継母礼讃』(福武書店)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。

オテロ=シルバ『自由の王』(集英社)、ビオイ=カサーレス『日向で眠れ/豚の戦記』(集英社)、エリソンド『ファラベウフ』(水声社)、アジェンデ『精霊たちの家』(国書刊行会)、リスペクトール『GHの受難・家族の絆』(集英社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

3日
 プイグ『ブエノスアイレス事件』(白水社)『このページを読むものに永遠の呪いあれ』(現代企画室)『天使の恥部』(国書刊行会)、ドノソ『夜のみだらな鳥』(集英社)、カルペンティエル『時との戦い』(集英社)、ソウザ『アマゾンの皇帝』(弘文堂)、サルドゥイ『歌手たちはどこから』(国書刊行会)、ルルフォ『燃える平原』(水声社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

4日
ボルヘス&ビオイ=カサレス『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』(岩波書店)、
 チェスタトン風のミステリ短編集。どこからボルヘス、どこまでビオイ、それが気になる。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

コルタサル『海に投げ出された瓶』(白水社)、『通りすがりの男』(現代企画室)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

5日
アレナス『めくるめく世界』
(国書刊行会)、アリエル・ドルフマン『マヌエル・センデロの最後の歌』(現代企画室)、アストゥリアス『大統領閣下』
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

6日
コルタサル『すべての火は火』
(水声社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

7日
西條八十詩集(中央公論社・創元社・河出書房新社ほか)
 八十全集の月報に書くので。八十と言うと私たちの世代では、「お母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」という詩がまず思い出されるのではないだろうか。何と言っても森村誠一、角川映画である。さんざんあの「Mama, do you remember?~」という歌をテレビで聞かされ、すっかり頭にこびりついてしまったものだ。私は映画も見に行っていないが……。皆川博子も「トミノ」の歌とか好きで小説に使っているし、知らず知らずのうちに別ルートで入ってくるというところが、いかにも八十的である。彼は白秋と並んで立派な国民詩人と言えるのではないだろうか。とこんな風に月報で書けば良かったのだな。原稿ではまったく違うことを書いてます。

8日
 田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』
(晶文社)(京)
 私と同年齢の著者が、十代の若い人たちによりシンパシイを抱きつつ、彼らに向けて送るメッセージ。メール・マガジンを発行しているのだそうで、その精神的なタフネスには謹んで敬意を表したい。ちょっと考えさせられたのは身体の所有というテーマ。ガブリエル・マルセルの「身体とは所有と存在の境界上にある」という言葉を引き、自分のからだは自分である、と(頭ではと但し書きをつけたうえで)結論づけている。身体が貨幣となるというクロソウスキーのエッセイでも感じたことなのだが、社会的には身体は所有的概念で位置づけられることを要請されているのだろう。それは私の個人的な感覚とは違和感がある。身体は所有という概念とはなんら関わりがなくただそこにあるからあるというだけのものなので、どこかへ帰属したりしない。社会の要請と、人間の個人的な身体感覚とにズレがあって、たぶんそのズレは現代ではものすごく大きく、だからこそ身体をめぐる諸問題が起きてくるのだろう(わあー、心理学者みたいな荒っぽい理論)。ともあれ、この本はちょっと神様っぽい話――忙しいのでいい加減な言葉遣いになるが、要するに「精神世界の本」的な話が、実体験的に、素直に語られていて、好きな人はこういうものが好きかも。私はパスだが、こういう本で勇気づけられる子供もいるかも知れない。それはそれでいいことだと思う。

ジョン・ウォーカー『ニッポンの病院』(日経BP社)(京)
 「日本の病院は50年代のアメリカ」という調子でアメリカの医師が日本の病院を批判し、改革を提言する。何でもアメリカ流がいいとは思わないけど、だけどだけどERとか見てたってあっちの方がずっといいと思うもんね。健康保険だって破綻しているんだし、老人医療も含めて、本当に見直しをしないと、大規模な崩壊は目に見えている。教育問題も含めて、何とかしてほしい。アメリカではインターネットで医師の業績が分かるそうだが、大学病院や巨大な病院の医師などについてはやっぱりそうであるべきじゃないのか?

山本博文『江戸のお白州』(文春新書)(京)
 『江戸お留守居役の日記』で有名になった歴史学者のエッセイ集。江戸時代の判例集を平易に解説。

9日
横山秀夫『動機』(文藝春秋)(京)
 警察官が主人公の表題作のほか三作品を収録する。ミステリ? じゃないよね。警察、法曹、新聞、前科者を扱っている、一種のギョーカイ物語。普通の小説。

三浦哲郎『わくらば』(新潮社)(京)
 17編を収録する小品集。老いとか死とかをモチーフにしている作品が多い。しみじみとした情感があって、悪く言えばせせこましくて日常的で、ああ日本だな、と思う。ラテンアメリカの小説ばかり読んでいるせいだろうか。

アンデルソン=インベル『魔法の書』(国書刊行会)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

10日
サーレス『テクノクラート』(新世界社)、コルタサル『秘密の武器』(国書刊行会)、サバト『英雄たちと墓』(集英社)、ポッセ『楽園の犬』(現代企画室)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

11日
『現代ラテン・アメリカ短篇選集』(白水社)、『ブラジル文学短篇集』(新世界社)、『サンパウロ文学短篇集』(新世界社)、サーレス『魔の山の夜』(新世界社)
 ラテンアメリカ特集のために読んだ。貸し出し時に日付を押すという旧式の図書館で借りたのだが、新世界社の本は昭和54年の日付が一つ付いているだけ。たいへんに悲しいものがあった。

12日
サーレス『人狼』(新世界社)、ケイーロス『悪魔の島』(新世界社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。

14日
フエンテス『遠い家族』(現代企画室)、カルペンィエル『ハープと影』(新潮社)、マルケス『族長の秋』(集英社)
 再読。ラテンアメリカ特集のために読んだ。『遠い家族』は素晴らしい。最後の方になると泣いてしまう。アレナスは『夜になるまえに』の中でカルペンティエルも晩年はクズばかりと言っていたけれども、『ハープと影』のような作品を指しているのだろうか。あるいは『光の世紀』のような? 私もこのあたりはあまり好きではないのだが。『族長の秋』はとても好きな作品。

18日
ロドリゴ・レイローサ『船の救世主』(現代企画室)
 池袋のリブロに行ったら、こんな本が出ていて焦った。ガイドには未訳と書いてしまっていたのだ……。慌ててその部分だけ書き換えた。bk1

21日
いのうえせつこ『子ども虐待』(新評論)(京)
 乳幼児はたとえ殺しても懲役二年という実態はすごいが、虐待を扱ったドキュメントとしてはインパクトがやや弱い。むしろ児童相談所の苦しい実態を訴えた書物と見るべきか。相談所ではカウンセラーのボランティアが必要とされているらしい。心理学専攻の学生はこの十年ですごく増えたから、今はただの主婦になってしまった人にもそういう仕事の出来る人がいることだろうなあ。

23日
ベン・クロウ『巨人ポール・バニヤン』(ちくま文庫)
 アメリカ合衆国の伝説集。bk1

アンジェラ・カーター『夜ごとのサーカス』(国書刊行会)
 天使のような翼を持つ空中ブランコ乗りの女性の遍歴を描いた小説。筋金入りのフェミニストであるカーターの、女性たちの活躍のさせ方、男たちの描き方に注目。bk1

田中芳樹『黒龍潭異聞』(実業之日本社)(京)
 中国古代の史書に基づく普通の歴史小説と、伝奇的趣向を加えた小説、中国ファンタジー、ミステリなどから成る。

24日
梶尾真治『黄泉がえり』(新潮社)
 帯には「『泣ける』リアルホラー」とあるが、これはSFファンタジーである! 何でもホラーと言って売ればいいというのか? バカじゃなかろか? いやバカなのだろう。地球外生命体の影響で死者が甦るという騒動が起きる。これだけでどんな話なのか分かってしまいそう。バリバリの癒し系で、涙もろい私などはすぐに泣いてしまうが、だからと言って優れた作品とは言えない。その程度のエンターテインメントなのである。SFとしては全然ダメで(甦るという肉体を伴った現象がきちんと説明されていない。たぶんキューティーハニーではないが、地・空中元素固定能力でも働かせるのであろう)、ファンタジーとしてもこの手は安易すぎる。どうして、人間の意識を超えた存在を描くと、やけに安易に人間に共感したり、それをまったくゴミぼろみたいに軽蔑したりというようなわかりやすいスタンスしか取らないのであろうか。

唐十郎『蛇行』(新潮社)
 ファンタジーではなかった。フェティシズムと幼児性愛という異常性愛の話だった。

鷲田清一『ことばの顔』(中央公論新社)(京)
 哲学者のエッセイ集。おっさんが若い人たちのことなんか理解したくて一生懸命考えてみたという感じ。何かというと、若い人たちは絶望している、男の子の方が絶望が深いようだとか、いい加減なことを。絶望! 思春期以降の子供たちと付き合っていて、最も似合わないのは、絶望ということば。うんざりしているかも知れないが、絶望だなんて、一般論として言える言葉では全くない。その点、あたしはバカ、と言いながら、素直に世界と向き合っている田口ランディの方がよほど若い人たちのことがよくわかっている(田口さんは「わかっている」なんて表現には鳥肌立ててしまうだろうけど)。まあ十歳、若い人に年も近いけど、四十と五十じゃ、大差ないか。
 ともあれ、言葉を扱う人の、なんと軽い言葉であることか。たとえば「ぼくなどとにかくじぶんがいまのじぶんでなかったらどんなにいいかと始終おもっているので、じぶんがもうひとりいると想像するだけで、卒倒しそうになる」というようなくだり。この団塊世代の男は、よほど繊細らしく、すぐに「卒倒しそうになる」のだが、この言葉など、「自分はもともともっとすばらしいはずだと信じているのに現実を見せつけられるのは怖い」という善人の言葉として読むべきなのか、「じぶんはろくでもないもの」と卑下してみせる厚顔無恥な物書きの男、と見るべきなのか。あったりまえのことだが、そんなに自分がいやだと思ったら、物を書いて本にするなんていう恥っさらしなことが出来ようはずもない。多かれ少なかれものを書く人間はナルシストだ。たとえその自覚があろうとなかろうと。
 このエッセイ集のエピソードの中でものすごく驚いたのがピアノのレッスンの話。作り話なのかも知れないけれど、三十過ぎて子どもと一緒に初歩からピアノを習い始めたという話だ。一日課題を三度弾いて、三年でソナチネに進んだのだそうだ。音楽の素養がもともとなくてはこうはいかないだろうと思うのだが、そのことについてのコメントはない。私なら一日三度練習しただけではツェルニー百番を仕上げることは絶対に出来ないと思う。そしてバイエルの最後のところにあるモーツァルトのメヌエットを自己流で弾いて再三注意を受けたが我流の方が良いように思え、だが「それがいけなかったのだ」と書かれている。その後ツェルニーを経てソナチネにいったことろ、ショパンのノクターンを発表会でやろうと楽譜を渡されたということが書かれ、それは言葉少ない破門の宣言であった、とされている。なんだこれは。まずモーツァルトの神聖視からして奇妙だ(モーツァルトのまぢかにいた云々といった世迷言がラストにあって、それがまたおぞましい)。メヌエットでどのような弾き方をしたにしろ、その後ツェルニー百番を弾き上げているのなら、メヌエットなぞ何程のことがあろうか。ツェルニーの練習曲には発表会で弾いてもおかしくないほどに洗練された曲も多い。それは技術的にももちろんメヌエットの比ではなく、それがきちんとこなせていたのなら、我流で弾いてしまったことなど、何の関係もなくなっているはずだ。また、趣味で弾いているピアノの、何が破門なのであろうか。かなり出来のいい生徒だし、弾きたいと思う曲を弾かせてやるようにすればいいだけのことだ。ノクターン9-2は確かにやさしくはないが、しかしソナチネまで行けばやれない曲ではないだろう。へたくそでもいいから挑戦することの方が技術を向上させるということがある。先生は言ったからには指導するつもりでいたのだろう。何ともはや……という感じの気取った物語である。音楽は、素人は楽しめばいいのである。好きなように歌い、好きなように弾けばいい。もちろん技術がなくて泣くのであるが、好きだという思いはその挫折感を乗り越えさせる。結局下手でしかないのだが、それで何の問題があろうか。ミニ・コンサートなどやらかして迷惑をかけることが無ければ(ホフマン先生の描写を参照せよ)、それでいいではないか。ともかくも「モーツァルトのまぢか」といった気取りが何よりも疎ましい。コーラスでは、バッハもシュッツもモーツァルトもシューベルトもベートーヴェンも、私は歌っているが、楽聖たちの間近にいたなんて感じたことはない。音楽は……表現しにくいが、そういうものではないのだ。鷲田さんは音楽がとりたてて好きというわけではないのではないか。もしもそうなら音楽について書くのはやめてほしいものである。

北杜夫『マンボウ哀愁のヨーロッパ再訪記』(青春出版社)(京)
 旅行記を中心にした雑文集。同じ話題が二度三度と出る。これは悲しい。

荻野富士夫『思想検事』(岩波新書)(京)
 特高はよく知られているが、思想検事というのはあまり知られていないだろう。特高の上層組織として特高以後に組織作りがなされていった、思想弾圧の親玉である。特高は拷問などで有名だが、思想検事は、治安維持法のとんでもない拡大解釈によって、罪があろうが無かろうが(もちろん当時の法の下では有罪でも、現代的感覚で言えばまったくの無罪の人がほとんど。現実的なテロリストの数は多くなかった)とにかく有罪に出来たのである。さらには思想判事なんぞというものまでいたのだ。しかも彼らは戦犯として罪を問われることもなく、一部を除けば戦後もほとんどそのまま居残った。そして戦後の公安検察となってゆくのである。そして若い子は日本には軍政はなかったと言うのだそうだ。あー!

26日
横山えいじ『マンスリー・プラネット』(ハヤカワ文庫)
 ナンセンスSFマンガ。SF的ナンセンスではなく、SF的な世界で繰り広げられる古典的ナンセンス。15年前の作品。謄写版のギャグは、しかし今どきの子には通じない。時代は変わったのだ。

水樹和佳子『イティハーサ』5(ハヤカワ文庫)
 続き。この巻は話の進まない巻である。

シャルロッテ・ケルナー『ブループリント』(講談社)
 クローン第一号の女性による手記という形で、人間のクローンという問題に疑問を投げかけている。クローンに限らず親子関係全般に対する風刺的な物語としても読める。テーマに興味が持てない。

30日
よしだみどり『烈々たる日本人』(祥伝社ノン・ブツク)(京)
 ロバート・ルイス・スティーヴンスンが書いた吉田松陰の小伝「ヨシダトラジロウ」を紹介する一冊。あわせて明治初頭の工学関係の交流とスティーヴンスン一家による灯台と日本の関わりなどに言及する。

31日
浅羽通明『教養論ノート』(幻冬舎)(京)
 教養を再構築するための試み。教養という言葉の定義からして一般的ではなく、教養というのは世界観構築のための物差しとなるべきものを作るための素地、というよりは、物差しそのものであるとされる。つまり教養はほとんど各人の思想、人生哲学というようなものになっており、その上で、今こそ現実的な教養を、言葉を発さぬ最も大きな集団の思想をも取り込んだ、そんなカタログが欲しい、と言う。今や宗教が地に塗れ、何の信頼性も得られないと分かってはいても、私はなおも宗教を切ることのできない人間なので、思想や教養で捨てるものと捨てられないものを見極めるなど言われるとぞっとしてしまう。私はポップでもクールドライでもないのだ。仕方がない。

山本文緒『プラナリア』(文藝春秋)(京)
 恋愛と労働をテーマにした小説集。文体はしょうもないが、なかなかおもしろかった。
  ★驚いたことにこの作品が直木賞を受賞した。うーん、この程度でいいわけね、直木賞は。

鳴海風『算聖伝』(新人物往来社)(京)
 関孝和は実はキリシタン孤児であったという設定の元、その生涯を描いた小説である。バテレンとの交流から数学天文学を学んだ、とするのは合理的だが、独学で特に中国の数学書に学んだとされている一般像の方が天才的なイメージは強くなろう。キリシタンのオランダ人少女との恋愛など、かなり荒唐無稽な設定も、それなりにおもしろく読める。海外の数学者に比べると、まるで普通の人で(没頭すると何もかも忘れるというところはあるものの、とても畸人とは言えない)、これじゃあつまらん……という見方も出来るだろうが。

宮崎正勝『ジパング伝説』(中公新書)
 黄金の国日本という幻想の成立とそれをめぐる世界の動きを追う歴史書。歴史における枠組みの解体という意見には大いに頷けるが、新たな枠組みの実験というほどのものになっているかどうかは疑問。やはり書物の形式では難しいのだ。ハイパーテクストが有効な分野だと思う。ただしこれも浅羽さんに言わせれば、世界を手中にしたい、歪んだ権力欲なのかも知れないけれど(浅羽さんの前掲書のこのあたりの分析はとてもおもしろいので、皮肉を言っているのではない)。


10月の雑感 どんどんと日時が過ぎ去る。今月は『幻想文学』のためにほとんどの時間を費やした。インタビューやその原稿作り、またガイド作成のための読書と執筆、カットやタイトル作りを含む誌面の製作、校正、表紙のデザインの打ち合わせなどなど、雑事に追われて過ぎた。20日にようやく入稿した。翌週は本文の最終的な校正や表紙の色校正があり、また事務関係のたまっていた仕事などを片づけ、東京新聞の仕事をし、さらには学研の応募小説の下読みをして……とやっていたら、もう月末である。月末は月末でいつも似たような経理関係の仕事がある。
 九月十月は週末は雨という状況で、山にも出かけられず、二十八日にようやく二時間ほど山歩きができた。家に帰ってきたら、また雨が降り出した。なんで週末は雨なのか? 中一の子供と一緒に数学検定を受ける予定なので、日曜日には数学の勉強もしたが、いろいろと忘れていることが多くて無惨である。文化の日にはみっちり数学をやりたい。積んである本も増えたし、十一月には本も読みたいが、どうなるだろうか。まだ片づけていないその他の仕事も三つばかりある。とにかく頑張ろう。