藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年11月


5日
倉阪鬼一郎『文字禍の館』(祥伝社文庫)
 最初から最後までホラー。内容についてはともかくも、いくら何でも短篇を一冊の本にしてしまうのはあんまりだと思う。
ロバート・ジョーダン『聖都ルイディーン』(ハヤカワ文庫FT)
 これも一冊の分量としてはあんまりだ。全八巻ではなくて、上下二巻ぐらいにしてほしい。もしかするとものすごく著作権料が高いせいで、日本での刷り部数との関係でこうなってしまうのかもしれないけれど。とにかくどうなるんだろう……という気を持たせるところで終わってしまうのに、その時の臨場感を一カ月も保っていられない。
 タイトルから察せられるようにアル=ソアたちはルイディーンに着く。一方ペリンは故郷に戻れるのだが……。またこんなところで終わるわけ?……部数が伸びないというような状況は理解できる。しかしFTは月に一冊なのだから、「一カ月待ってこれでは」という気分になり、読者離れを促すのではないだろうか。今、文庫の現場ではホラーとSFの攻勢がすごいだけに、より一層ファンタジー出版に対して危機意識を募らせてしまう。

6日
フィリップ・プルマン『ぼく、ネズミだったの!』(偕成社)
 マスコミや学者を批判した童話。私は結構楽しめたが、プルマンはたぶん本質的には子供のための作家ではないのだろう。
倉阪鬼一郎『不可解な事件』(幻冬舎文庫)
 短篇集。内向して気が狂ってしまう人たちの話。文学における狂気という問題について思わず考えた。
アンソロジー『囁く血』(祥伝社文庫)
 〈エロティック・ホラー〉と銘打ってあるけど、〈怪奇幻想趣味のある、または恐怖的なエロ小説集〉の方が真相に近い。ただの殺人に終わるだけの話もあって、死ねば恐怖、という定義なら、ホラーの作家は楽なこと、と思う。訳者の尾之上浩司さんから本をいただいたのに申し訳ないけれど、私はこういうえげなついものは好きではありません。ごめんなさい。中で「数秘術」というのはものすごくそっくりな話を読んだことがある。
永野善子『歴史と英雄』(御茶の水書房)
 神奈川大学ブックレット11。久々にこのシリーズを買った(ブックレットなのにすごく高いから)。歴史叙述における欺瞞の問題と、植民地支配によってもたらされる世界観のゆがみを根底的なテーマとして扱う。具体的にはフィリピン革命における英雄が誰だったのかについて、虐殺者=抑圧者であったアメリカ合衆国と被支配者であったフィリピンとでは見解が違ってくるということ。というか意図的に違えられているということ。それによって支配=被支配の関係もまた変わってくる。つまり、日本とアメリカ合衆国との関係にもかなり似たような形で応用できる問題である。もちろん日本はポストコロニアルの問題を抱えているとは言い難いが、世界観ということについては、やはりアメリカ合衆国の支配の事実を抜きには語れないと思う。その意味でカルチュラル・スタディーズの領域に属する問題を提起している一冊でもある。しかし内容的にあまりにもマイナー。神奈川大学にはせめて『東北学』ぐらいの雑誌を、歴史の認識、叙述といったことをテーマに作ってもらいたいものだと思う。
9日
コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ『バラの回想』(文藝春秋)(京)
 『星の王子さま』の作者の正妻が夫との結婚生活を綴ったもの。手記という性格上、しかもさまざまな悪口を言われてきた女性だけに、その記述をすべて鵜呑みにすることはできないが(必要以上に自己弁護的に語っていないとは言えないだろう)、話半分で聞いても、数々の浮気、甘言で妻をなだめて手元に置いておくやり方など、テグジュペリの妻に対する扱いはひどいものだ。それでも腐れ縁のように離婚はしないあたりは、何となく納得できるように書かれている。それにしても、テグジュペリは幼児的な男であり、「永遠の少年」と言えば聞こえはいいが、結局ただのわがまま坊やと言うことなのではないか、と思わせる一冊。
 『星の王子さま』は聖書と資本論の次に世に出回った本と言われているが、私はいまだにこの本のどこがそこまでおもしろいのか理解できずにいる。小学生の時に初めて読み、楽しんだのはもちろんだし、その後も何回か読んでいるけれども、この一冊、というような本とはとても思えない。
盛田隆二『リセット』(角川春樹事務所)(京)
 ブルセラ、売春、覚醒剤などにはまった女子高生、内向して家庭内暴力に走る少年などを描く小説。パス。
小泉武夫『漬け物大全』(平凡社新書)(京)
 日本と東南アジアを中心にした漬け物の話。新書なのに著者が知識をできるだけ詰め込もうとするものだから概略的になり、読む楽しみのようなものは少ない。ただしかなり網羅的。ただしヨーロッパには手薄い。
 私が漬け物と言って思い出す本は、何と言っても主婦と生活社のカラークッキングシリーズの第六巻『漬け物』である。この本をテキストにさまざまな漬け物を作った。東京ではべったら漬けというのがポピュラーだが、それもこの本を見て作った。母は糠漬けしかしない人だったので、私はこの本で何でも作るようになったのである。いろいろと漬け物の本を見てきたが、この本以上のものにはめぐりあっていない。このシリーズは漬け物に限らず、きわめて魅力あふれるシリーズであって、特にコラム的なエッセイの素晴らしさは、現在世に出ている凡百の料理シリーズでは到底かなうまい。例えば『漬け物』ではヨーロッパ滞在中にパンとビールでぬか床を作った話や、子供時代に凍った漬け物を取りに行き、氷を砕いて漬け物を出すとき、その氷の破片で額を傷つけた話など(三浦綾子だったか)、忘れ難い。私がもしも編集者だったら、こんな本が作りたい。今、手元に本はないが、私にとって最初の洋菓子のテキストとなった『菓子と飲み物』のエッセイたちもとても魅力的だった。森村桂がバターを使ってクッキーを焼いた時の感激を語るものや、また料理家の志の島忠の想い出で、料亭での菓子の作り方には料亭ならではの規則がある、ということを祖父(父だったかも)と料理人から教わったというエピソード。「政に聞いたな、あいつはお前に甘くっていけねえ。もっとも作ったのが菓子だからな」とにやりと祖父が笑った、などというフレーズ(記憶だけで書いているので細部は違うかも)に、小学生だった私はただもう感動したものであった。そういう粋なものや素朴な生活が、私の回りからは消えてしまったように思う。漬け物の話から逸れた。
小池真理子『月狂ひ』(新潮社)
 四十六歳の片岡千津は、幻想文学周辺の書物を刊行してきた小出版社の編集者である。耽美的幻想文学に造詣深い作家の編纂による幻想文学のアンソロジーを編むことになったが、作家が病に倒れ、病床の彼は千津に編纂の代行を依頼する。彼女はかねてよりお気に入りだった葛城瑞穂という昭和初期のマイナー作家の作品「月狂ひ」をアンソロジーに組み入れ、作家からも承認を受ける。そしてその著作権継承者と出会ったとき、彼女は恋に落ちたのである。子供はないが夫はいる身。一方の相手、四十九歳の建築家には妻子がいる。だが、彼も彼女を一目見て恋に落ちるのである。
 千津の母は不倫相手と会っている時に息子が事故で死ぬという目に遭い、鬱状態から縊死による自殺に至る。「月狂ひ」という作品も不倫もので(作中作の展開)、これは縊死による心中という道を選ぶ(そこで最後に幻想小説となる。ただしこうした幻想の用い方は私は嫌いだ)。母の影響を色濃く受け、母の人生のわだちをなぞっているという考えに取りつかれている千津は、自分の恋路を前にたじろがざるを得ない。「月狂ひ」という作品の取り持つ縁でもある。千津はいかなる道を選ぶのか……。
 千津の務める出版社の設定などは、作者の幻想文学マニアぶりを示しているだろう。『幻想文学』などという雑誌を作っている私自身は、こういう設定を見ると、とんでもなく白けてしまう。母親の生をなぞるという強迫観念も、現実的にはすごくありがちなことだとはいえ、あるいはありがちだからこそ、あまりいい感じを受けない。三つの物語の絡み合いや落ちへの展開など、技巧的には申し分のない作品だが、なにしろテーマ自体に興味が持てない。こういうものが読みたいのは誰だろう。よくはわからないけど、やはり三十五歳過ぎぐらいの、恋愛願望のある女性なのかな。

ジェフリー・M・マッソン『良い父親、悪い父親』
(河出書房新社)(京)
 タツノオトシゴからペンギン、オオカミまで動物の父親による子育てを見ていくもの。著者は動物にも感情があるということを力説する著作を書いている。感情があるのは当然そうなのだろうと思うところもあるが、それを擬人化の誘惑を斥けつつ認めていくのが難しい。この本はある程度生物学の知識のある人でないと、動物の感情生活についていたずらな誤解を生むようにも思うが、まあいいのか、本当のところはわからないわけだし。

10日
多田智満子『字遊自在言葉めくり』(河出書房新社)
 シャレや皮肉を利かせた辞典。例えば「檻。おりおりに檻を出て、また別の檻に入る。これが人間の条件」「教義。反論を無視してよい論理」などなど。多田ファンの私は多田智満子らしい言葉の端々を見つけて喜ぶ。竹智淳というイラストレーターによる文字を巧みに用いたしゃれたイラストも良い。
松浦理英子『裏ヴァージョン』(筑摩書房)
 ファンタジーではない。メタノベルではある。高校時代の親友に、同居の条件として物語を月に一編ずつと所望した主人公。物語は何を語り、二人の関係を、あるいは語り手の気持ちや主人公の心を、どのように象徴するのか……まさに評論家向けの書物である。私には全然理解できなかった。ただこの迂遠なコミュニケーションのありように不愉快な気分を掻き立てられただけだった。高原英理氏に解説してもらいたいと思ってしまった。
デイヴィッド・アーモンド『肩甲骨は翼のなごり』(東京創元社)
 引っ越し先の庭先にある崩れそうなガレージの中に見つけた彼。それは「何が望みだ」と問い掛ける。それは一見すると瀕死の路上生活者。だが……。
 ガルシア=マルケスの『大きな翼のある年取った男』みたいな話をもっとセンチメンタルなシチュエーションで、ガルシア=マルケスとは根本的に違う予定調和的な物語に展開した話……と思いながら読んでいったが、解説に「ガルシア・マルケスとイタロ・カルヴィーノに影響を受け……」という一節を読み、どっちらけてしまった。しかしそれは私の個人的な事情。普通のハッピー・エンディングのファンタジックな物語を望む向きにはさほど悪い物語ではないだろう。

11日
篠田節子『ハルモニア』(マガジンハウス)
 再読。文庫版(文春)の解説を書くことになったので。何度か読んでいるのだが、読むたびに印象が変わる。一般の人はこの小説のどこに興味を引かれるだろうか。こんなことならテレビ版も見ておくのだった。

15日
ジェイミー・ジェイムズ『天球の音楽』(白揚社)
 再読。『ハルモニア』を書くための参考資料として。こんなものを参考資料にしてお手軽過ぎかなとも思うが……。

17日
ロバート・ジョーダン『狼の帰郷』(ハヤカワ文庫FT)
 5日読んだのの続き。相変わらずの調子。
ローレル・フェラン『アーサー王妃物語』(角川文庫)
 前世の夢を見たら、私はグウィネヴィアだった、という仰天の枕を置いて始まる物語。小説としては稚拙だが、男まさりのグウィネヴィアという設定はおもしろく(コーンウェルのアーサー王シリーズにも通ずるものがある)、ちょっとだけ期待したが、やはり小説としてなっておらず(著者は小説ではないと言うだろう)、非常にばからしかった。
T・コラゲッサン・ボイル『血の雨』(東京創元社)
 短篇集。表題作はまさに血の雨が降るというきわめてグロいイメージの作品であり、これは結構いけるか、と思ったが、ジェーン・グドールや雌の名犬ラッシー、貧しいソ連の状況などをおちょくった下品な作品が並んでおり、げんなりしてましった。おもしろければBK1で紹介しようと思ったのだが、中止である。こういう作品をおもしろがる読者の意識の中に潜む女性やアメリカ以外の国に対する侮蔑的な視線を考えると、素直に物語だけを楽しむという気にはとてもなれないのだ。このての話を読むと、私は埼玉県のとある市議会で、女性議員の発言に対して「おうおう女は恐いねえ」というやじと笑いが沸き起こったという話を思い出さずにはいられない。ああいやだ。
ノルシュテイン&コズロフ『きりのなかのはりねずみ』(福音館書店)
 絵本。かわいい。
 今週は『ハルモニア』の解説書きその他の仕事のほか、ロシア・アニメを見に行ったりしたので、本当に本が何も読めなかった。だからかわりにアニメの話をしてしまおう。
 この絵本の作者ノルシュテインは、今年来日していて、ものすごく評価されているロシアのアニメ作家である。これは同題のアニメーションをもとにした絵本で、そのまま絵にはなっているが、アニメの魅力はとてもではないが再現できていない。このアニメはきわめて完成度の高いすぐれた作品で、「話の話」というやや体制批判的な詩的な作品と並ぶノルシュテインの代表作となっている。「話の話」は情緒溢れる魅力的な作品だが、やや長い。何度も見ているので、しまいには技巧の方にしか目が行かなくなってしまうという難点がある。その点、「はりねずみ」はそこまでいかないうちに終わる長さなので、私は好きだ。ノルシュテインはロシア・アニメ最高の作家と言われているけれども、個人的にはものすごく好きというわけではない。
 今回のロシア・アニメはこれまで見たことがない作品が多く、とても驚かされた。1910年代の人形アニメ(スタレーヴィチ作)は、いろんな意味でものすごいの。内容的には退廃的なブルジョア生活を皮肉ったり、アニメ映画の中で映画を上映したりする趣向があったり、おお……と思わせる。実に良い。20年代のものは内容的には退屈なプロパガンダが多かったが、歴史的に見ればそれなりにおもしろい。とはいえマニア向けとしかいいようがなく、会場内にいびきの音が響いたのには参った。30年代の「スイカ泥棒」は斬新な手法が用いられていて、表現的にもユニークでおもしろく、たいへんにおどろいた。幻の作品と言われるツェハノフスキー「バザール」は、ロシア・アヴァンギャルドを思わせる芸術度の高さで印象的だが、このころにはこうした猥雑なものが反体制的と見られて取り締まられてしまうので、未完である。30年代の大作はプトゥシコ監督の「新ガリヴァー」で、これは実写と人形アニメの合成である。プロバガンダ的な内容なのに長いので退屈なところも多いが、蝋で作られている(一体一体成形されているということだ!)という人形を見るだけでも価値がある。ただし、こういうものは無意識のうちに技術だけを見ることになってしまうのが難点。40年代になると、「おろかな子ネズミ」の表現や色彩の美しさは素晴らしく、こうした高い技術が傑作「せむしのこうま」(47)へと引き継がれていくのだと実感した。この作品の色彩の美しさと表現の丁寧さはとてもすばらしく、久々に見たが、わくわくした。良いアニメはやはりいつ見ても良いのだ。このほかに今回は「雪の女王」と90年代のアニメの上映があった。「雪の女王」はたぶん東映動画のアニメーターたちにもずいぶん影響を与えたのだろうなと思うような作品。アンデルセンのきわめてキリスト教的な物語がどうしてこうなるかな、と思ってしまうのだが(リトル・マーメイドよりははるかにましか)、アニメ表現はとてもきれいだ。何回見たか忘れるぐらい観た作品。
 90年代のものは斬新な手法が光る。「水の精」「ピンク・ドール」「夜が来た」「乳母」など、それぞれに工夫の凝らされた表現で、もっと日本に紹介されても良いと思う。特に「水の精」は動く油絵の技法だそうだが、このような変わった作品を見ると、幼い頃に粘土が動く世界を見て、なんて不思議なんだろうと(幼いころは当然粘土が生きているのだと思っていた)、どきどきしたときの感じが甦る。日本でもユニークな手法で作品を作っているアニメーターがいるのだろうが、なかなか目に触れることはない。一般の目に触れる機会があるとすれば、教育テレビの中でということになるだろうが(いまはイタリアのアエイオウにちょっとわくわくさせられる)、もっとそういう番組が増え、アニメ・ファンが増えるといいなあと思う。アニメ大国と言われながら、何とつまらない作品ばかりが話題になる国だろうか、と思う。
 しかし、文学でも事情は変わらない。良いものが売れない、評価さるべきものが評価されないという悲しむべき状況は、どこまでもつづくのだろう。

19日
天澤退二郎訳『ヴィヨン詩集成』(白水社)
 幻想的な詩集というわけではない。15世紀の伝説的な詩人ヴィヨンの詩のテクスト「ヴィヨンの遺書」にはさまざまな形があるらしく、その最新の校訂の成果を活かして作りあげた詩集である。とにかくおもしろい。諷刺の詩として痛快だし、時代の雰囲気があらわになる興味もある。ヴィヨンの詩は、教会音楽に対する世俗音楽のような、宮廷詩人に対する大道芸人のようなもので、ピカレスクで辛辣なユーモアを湛えた闊達さがある。伝説にあるようにもしも本当に絞首刑を目前にこの詩を書いたのだとしたら、まったくあっぱれというほかない詩人だと言える。「わたしはかつて学僧らに〈運命〉と名付けられた者」と運命(女性)が自ら語る「運命のバラード」などはケッサクであり、フランス語は日本語から復元すべくもないが、天澤訳の楽しさと言ったらない。「イアソンは海で、渦潮に溺らせてやった……アブサロム? 逃げる所を捕えて吊してやった。」といった調子である。とにかくすばらしい。山之口洋がヴィヨンを主人公にしたファンタジーを書くと言っていたがどうなっただろうか。脇役として登場したものは二つほど読んだことがあると思うが、主人公というのはこれまでないのでは、と思って期待しているのだが。 ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』(書肆山田)
 かつて国書刊行会《ゴシック叢書》の一冊『米国ゴシック作品集』で、抄訳されたオカルティックな詩の全訳。bk1
ウィリアム・モリス『ジョン・ボールの夢』(晶文社)
 ジョン・ボールの夢を見たモリスの物語。ボールは十四世紀末の農民蜂起の指導者の一人だが、モリスの手によって、覚悟のあるきわめて立派な人物として描かれている。モリス・コレクションの一冊だが、この話はどこかで読んだ……(新訳らしい)。過去の人間に未来の話をしてどうするんだ、という気がするのだが、一種のプロパガンダ小説なのだ。寓話「王様の教訓」を併録。
古井由吉『聖耳』(講談社)
 初老の男性(著者自身を思わせる)からその対話者の語りへと不意に転換する、その酩酊にも似た語り口がとてもとてもすばらしい。まさに円熟というべきか。十二の短篇が収録されているが、大事に大事に読んだ。映画の記憶から始まる「苺」もよいが、やはり表題作がすごい。入院している男の一人がたりで、ある婆さんの昔話や、耳の聡い帝の話などがあり、帝の話に出てくる女の幻想的な異界へと突入してしまう。説明しようとも思ってもうまくできないが、その変転の妙がとてつもない緊張と魅力をはらむ。純文学の精華。

20日
南條竹則『蛇女の伝説』(平凡社新書)
 『白蛇伝』とキーツの『レイミア』、このよく似た東西二つの物語がどのようにつながっているのかを検証する。物語の要約が多いので、さまざまな『白蛇伝』バージョンを楽しむ本でもある。
南條竹則『ドリトル先生の英国』(文春新書)
 『ドリトル先生』の物語の背景となっている英国19世紀末の風俗の紹介と『ドリトル』の魅力を語る。『ドリトル』についての初めてのまとまった評論ではないかと思う。
 私の長男は小学校の低学年の頃からこの物語を愛読しており、ドリトル先生の信奉者である。10歳ぐらいのとき、どこがいいのかと聞いたら、「高貴なる独身者に憧れる、ぼくも動物を友として世界を自由に歩いてみたい」という答えが返ってきた。良い結婚生活(男女関係)のモデルとなれなかった自分の罪をひしと感じたことであった。
 『ドリトル先生』を愛する長男は、エディ・マーフィーの『ドリトル先生』を観たがった。どうせろくなものじゃないと思ったが、どうしてもどうしても、と粘るので仕方なく新宿まで観に行った。案の定原作とは何の関係もない話で、子は「ドリトル先生の冒涜だ!」と怒りながら、親は「何たる低劣な映画」とうんざりしながら映画館を出る羽目に陥った。南條氏もこの映画についてはしっかりけなしている。bk1
夢枕獏『腐りゆく天使』(文藝春秋)
 「天使が腐ってゆく」というイメージを映画監督の佐藤嗣麻子からもらって作り上げられた物語だという。萩原朔太郎と人妻エレナとの恋、そしてえれなを接点として少年愛の神父、少年の魂が登場する物語。まさに「せんちめんたる」。
ヘルムート・トリブッチ『蜃気楼の楽園』(工作舎)
 蜃気楼に接したとき、人は畏怖の念を抱き、そこからすべての神話的なもの(世界樹・海上他界・三重身の神、二重身の幻獣などなど)が発生したというスタンスの神話的な図像の研究書。蜃気楼は確かに不思議な現象で、それが神秘な観念をもたらすというのも納得できることだ。だが、こういう本の常として、何もかもをそこに帰そうとするので、全体の論が眉唾的に見えてきてしまうという難点がある。シャーマンは、蜃気楼は幻影だと認識して蜃気楼の幻影に惑わされないように人々を導いたから尊敬されたというくだりや、富士山が霊峰として崇められるのは蜃気楼のせいではないかと言われたりするとばからしくなってしまう。営業的にそうしているということもあるのかもしれないが、牽強付会はしらけのもとである。あべこべの他界の観念は、水を覗くことによってすら得られるというのに……。
 まったくバカな話だが、私はとんでもなく非科学的な子供で、水たまりには空の高さがあるのだとかなり大きくなるまで信じていた。小学校の低学年まで恐くて雨のあとの水たまりに入れなかったのである。今思えば信じ難いほどに愚かだが、大昔の人々にもそんな心性があったのではないだろうか。馴染のない自然を前にしたときの畏怖の感覚を、作者は味わったことがないのか? 蜃気楼は雄大で、本当に馴染がないからと言って、そこだけにすべてを還元するのは独りよがりだと感じたことはないのだろうか?
 富士山などは、低山の多い日本ではそこにあるだけで畏怖を掻き立てる山だ。どうしてそんなこともわからないのだろう。高い山というのはそれだけで畏怖の対象だし、山に入れば山は人を恐れさせる。(海もそうなんだろうが、海のことはわからない。)また、高山では容易に幻覚が起きる。今井通子が山での幻聴の話をしていたが、私でさえ幻聴を聞くことがある(体調の変化がそうさせるのだろうが、どうしてそうるなのかはわからない。)。いろいろな局面でそんなことは起こりうる。一元的な解釈は誤りのもとだし、だいいちつまらないではないか。
塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか』(ちくま新書)
 人間とは何かがわからなければ非人間の定義もできないと言い、人間=理性という西洋文明の定義が何かを歪めていると言いながら、結局その線で人間をとらえ、非人間的なものを、群衆=機械化=孤立化から生まれるものとして捉える。全体主義、前衛的意識が生んだ無意味のまき散らし、そして野蛮・未開、無意識などが非人間性を促進するとする。理性=人間という図式自身が成立してないのに、そこから非人間性を語りだすのでは、意味がない。アウシュヴィッツの記録は、囚人たちの方が非人間的になったことを示している。非人間になることで生き残ってしまった罪悪感を抱える生き残りの人々。ショアーの生んだ非人間性と、著者の言う非人間性のあいだには溝があると思われてならない。一方では、ガス室に人々を送り込んだあと家に帰ってワーグナーに聞きほれる、などという生活が出来たのはなぜか、ということへの答えにもなんらなっていない。それならば理性とは何かと問うところから始めなければならないのだから。もっとも、この大仰なタイトルを無視すれば、今世紀の欧米の精神的な図式をよく簡略に表現しえている作品と言えるかも知れない(単純化は怪我のもととは言え)。芸術が人間に及ぼす影響の大きさというのは等閑視できないと痛感させられもする。
皆川博子『ジャムの真昼』(集英社)
 写真から触発された七つの物語を収録する短篇集。主にヨーロッパを舞台に、ヴィジョンと現実とが入り交じってとめどもなく現実の方が崩れていってしまうさまを描いている。爛れたように現実がどろどろと融解していくさまは、いかにも著者らしい。
井波律子『中国幻想ものがたり』(大修館書店)(京)
 夢・恋・怪異の三章に大きく分け、中国の古典的怪奇幻想譚を紹介する。知らない話がほとんどない。これを買うのなら『幻想文学』44号の方がよほど奥深くておもしろい世界を味わえる、と自画自賛してしまおう。
加藤尚武『子育ての倫理学』(丸善ライブラリー)(京)
 子供の時に厳しくしつけられたから神戸の少年はああなった、三歳までは叩くな、七歳になるまで子供のそばを離れるな、いじめにあったらそれと気づいて転校しろ、など非現実的かつ非実証的なことが並べられている。最悪である。さすがに紹介の執筆はおことわりした。

21日
『淑やかな悪夢』(東京創元社)
 英米女流怪談集。ほとんどが非常にオーソドックスな展開の怪談集の中でシャーロット・ギルマンの「黄色い壁紙」が異色である。フェミニズム評論集に訳載されたもので読んだことがあるが、怪談などというのは翻訳によって雰囲気がまったくちがってしまうものなので、こんなに恐い話だったかしらと感じた。やっぱり傑作と言っていい作品ではないか。作者紹介にある『Hersland』は、現代書館から出ていた『女だけのユートピア』のことではないだろうか。私は松本の図書館でこの本を読んだことがある。その他の作品は甲乙つけがたい出来のもので、個人的趣味からいくとリデル夫人の「宿無しサンディ」、キャサリン・マンスフィールド「郊外の妖精物語」。あまあまの物語としてはマージョリー・ボウエンの「故障」も悪くないが、これはクリスマス・ストーリーの定型を踏みすぎの感がある。
荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書)
 日本近代文学の中の支脈であるプロ文にスポットを当てた評論。プロ文はホラー、暗黒小説、セックス小説、探偵小説であり立川文庫であると、いかにも荒俣らしい論を展開する。こういうものを読むと、私も荒俣宏の妹分なのだなあとつくづく思われて、いやになってしまう。『二十四の瞳』をプロ文として位置づけ、その同類項としてのプロ&フェミ文学にスポットを当てたり、志賀直哉とプロ文のひそやかな関係をむき出しにして見せたりと、このあたりに詳しくない私は感心してしまうが、一方で、やはりプロ文全体を捉える視線が足りないように思う。私の知る、解放系文学の作品があまり取り上げられていないせいもあるかも知れぬが。荒俣がたりを楽しむための一冊という感じ。本書を読むまで新興文学全集がプロ文系の全集だということは知らなかった。この外国文学の部には当時の新しい、幻想的な文学なども多数含まれていて、なかなか興味深い全集なのである。社会主義的な文学にはさまざまな位相がある。モリスだってそうだったわけだし、新興文学がそうであっても、不思議はないかな……。
小林泰三『奇憶』(祥伝社文庫)
 ものごころつく前の幼児の時代の記憶を甦らせてしまった青年を描く怪奇談。怪奇的なところはとってもおもしろくていいのだが、現実を描いている場面が、非現実的なので、怪奇のところとの落差がなくなってしまう。それに主人公に感情移入するのが難しいので、複雑な読み心地である。不条理に満ちた怪異世界は本当にうまい。ああそれにしても! 朗読したって二時間ぐらいしかかかるまい。
吉野光『赤い兵馬俑』(作品社)(京)
 政治謀略ミステリ。パス。
あんばいこう『田んぼの隣で本つくり』(日本エディタースクール出版部)(京)
 秋田の出版社・無明舎出版の社長によるエッセイ。自費出版が三分の二くらいを占めると地方の小出版でも数人でやっていけるのか……と思う。私も出版業界の端くれに位置しているものではあるが、こうしたエッセイを読むと、私は出版業そのものが好きなわけではないのだなと思うのであった。本造りも、製作の現場がいちばんおもしろい(つまりコンテンツはどうでもいい)。 22日
ゲイル・カーソン・レヴィン『さよなら、「いい子」の魔法』
(サンマーク出版)
 シンデレラ語り替えの物語。どんな命令にも従う素直さを持つ、という従順の魔法をかけられてしまったエラの冒険を描く。とんでもなく恐い設定。私は思わずロワッシーの館を思い出したが、しかし、児童文学なのでアブナイ方向へは行かず、器用におもしろくまとめている。もちろん童話の語り替えの常として、フェミニズム色もある。

25日
ボルヘス『アトラス』
(現代思潮新社)
 読んでいなかったところも含めて読み返した。このボルヘスはあまり好きではない。
『ボルヘスの世界』(国書刊行会)
 これまで読んでいなかったいくつかのエッセイを読了。ビオイ=カサレスがやはりとてもおもしろい。ボルヘス・ファンならこの一編のためだけにでも買うべきだろう。入沢康夫のバベルの図書館をめぐる考察を読み、同じことを考える人がいるのだなと思った。いや、この読みをする人は案外多いのかも、とも感じる。
 アンケート・ベスト3では、不思議に偏ったセレクトになっているので、多少の不満を感じないでもない。自分なりの三つを選んでみると、「円盤」「マルコの夢」「もうひとつの死」か。最初の二つはあっさりと決まるが、三つめは迷うところ。「ブロディーの報告書」でもよいか。共著でよければ綺想とユーモアの作品集『ブストス=ドメックのクロニクル』がいちばん好き。また小説よりも詩の方に愛着を感じる。
 ボルヘスを扱ってみて思ったことは、この人のポストモダン性はヨーロッパの文学や思想に相当大きな影響を与えたのだろうな、ということ。現代に先んじているということではすごいものがある、と今は改めて思う。個人的には読んだ時期が遅かったせいで、あっさりと通り過ぎた。最初に読んだのが「アレフ」であったことは忘れもしないが、その時の感想が「ヨーロッパ(! アルゼンチン=ラテンアメリカという認識が当時はなかった)にもこういうことを思いつく人がいるのだな、すごいな」(華厳経などを既に読んでいたのである)というとんでもなく間抜けなものだったのだからしょうもない。そういう意味でもボルヘスは私にとっては澁澤のような存在である。いろいろな文学(的知識)を経てたどりついたせいか、そんなに心酔することがなかった。たぶん文学的な親和性もないのであろう。
ジェラルド&ロレッタ・ハウスマン『犬たちの神話と伝説』(青土社)
 犬の幻想譚を集めたものではなくて、犬種別の特徴を知るための本。幻想文学読者ではなくて愛犬家のための本だった。
歴史学研究会『再生する終末思想』(青木書店)
 一般論というよりは、これまでの研究を踏まえてその問題点なども考察する、あるいは新しいテーマに切り込んでいく、かなり専門的な内容。朝鮮の東学系新興宗教の終末思想の話が、知らないことなのでおもしろく読めた。

26日
三枝和子『女帝・氷高皇女』
(講談社)(京)
 持統天皇の孫で元正天皇となった女性を描く歴史小説。パス。
今泉恂之介『関羽伝』(新潮選書)(京)
 関羽(三国志の劉備元徳の弟分)はアジアで最も信仰を集めている商業(!)の神だという。史書の記述と三国志演義を引き比べつつ、関羽のイメージの変遷をたどる一冊。
 三国志と言うと、もはや川本喜八郎の人形でしかイメージできなくなってしまったバカな私。関羽はたくましい美丈夫の造形であったが、何と今の関羽の神は出納帳などを手にしていたりする。本当にまったくもって驚いた。
辛島昇編『辺境の世紀末』(平凡社)(京)
 川田順造、川端香男里、鼓直、橋本萬太郎・大室幹雄、辛島昇がリレー式に一つのテーマをめぐってエッセイを綴っていくisの連載をまとめたもの。辺境の世紀末のほか、時間、商品、肖像、東西南北、性について論じていく。ユニークな連載形式そのものに価値がある。
水野肇『クスリ社会を生きる』(中公新書)(京)
 日本のクスリに対する認識の甘さを糾弾する本。抗生物質の使用量はアメリカの1.5倍(一人当たりではない、全体で、である)、医療費28兆円のうち薬剤費が8兆円、薬害事件も世界の中では断トツに多い、この状況を生むものをクスリの歴史を振り返ることで確認している。
高木仁三郎『鳥たちの舞うとき』(工作舎)
 脱原子力運動で知られる市民運動家の遺作。なんと小説、しかもファンタジーなのである。小説としては……だが、ガンで余命いくばくもないと分かっているときにこういう幻を抱いていたのかと思うと、何だか切ない。

27日
多田智満子『十五歳の桃源郷』
(人文書院)
 自伝的なものを含むエッセイ集。やっと読了できた。私の持っている切り抜きAは入っているが、Bは入っていない、うふ……。ああなんという意地汚いマニア根性であろうか。
立木鷹志『女装の聖職者ショワジー』(青弓社)
 17世紀フランスの異性装者アベ・ド・ショワジーの評伝。ショワジー自身の回想録を併録しているにも関わらず、回想録の同じ箇所からの引用が二度にも及ぶという芸の無さ(都合三度読むことになる)。何度も繰り返されるのでショワジーの行状や意識はよく分かったし、異性装に陥った背景もきちんと説明されているが、時代背景全般に対する説明が不足しているため、異性装そのもののもつ社会的な意味や重さが伝わってこない。ショワジーのほかにも異性装をする聖職者がいたことの意味などがまったく掘り下げられておらず、ひどく食い足りない。
岡谷公二『ピエール・ロティの館』(作品社)
 サブ・タイトルは「エグゾティズムという病」。海軍軍人として世界を経めぐり、民族学的な報告と物語とで一世を風靡したロティの評伝。彼の改造したエグゾティズム溢れる家の内部の写真などが多数挿入されている。岡谷公二は評伝を書くのが本当にうまい。私は岡谷の民俗学的な意見や人物評や作品評そのものには納得できないことが多いが、それでも彼の評伝を読んでいると、その描かれた人物がとても魅力的な人物に見えてくるのだ。まったく大したものである。小説家になっても大成したのではないだろうか、と思うくらい。本書はだからとにかくおもしろい。かつての大流行作家ロティを読み直したくなってしまうほどだ。

28日
バーバラ・バブコック編『さかさまの世界』(岩波書店)
 何だか見たたことのあるタイトルだなあと思いながらも読んだが、やはり再刊であった。ただし刊行当時は読んでいないらしく、記憶に全くない。歴史の中での行事で、民族学の現場で見られる転倒・逆転の儀礼、そぶりあるいは演出について考察。女形(ジャワの演劇での)と女性上位の演出とウィチョル・インディアンの神の世界の裏返しとしての人間世界という発想から生まれる逆転儀礼とが一列に並んでいるところがおもしろい。それが社会的な枠組み(一般的世界観)を再確認させ、世界の現状維持を助けると同時に、世界を変革する、という位置づけを与えられているという点でも興味深く、さすがに良い本なのだと思った次第。全訳しないなんて、セコイぞ、岩波書店。
オクタビオ・パス『泥の子供たち』(水声社)
 特集の時は全部きちんと読めなかったので、改めて読み直した。やっぱり『弓と竪琴』には及ばない。刷り込みのせいではなくて、現実にそうだと思うのだが。

29日
ボルヘス『論議』(国書刊行会)
 読んでいなかったところを読んだ。「亀の変容」がボルヘスの数学好きを思わせておもしろい。「ウォルト・ホイットマンに関する覚え書」では、ホイットマンが「私」をきわめて拡大的にとらえて「私」は彼でありあなたたちであり……、「苦しんだのもぼく」と歌い上げる詩に対してものすごく大きな共感を寄せているのだが、この点については違和感を禁じ得ない。リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を読みかけており、これに対しても同様の疑義を差し挟みたい感じなのだ(今のところ)。私はこの感覚はアメリカ合衆国という国的な感性から出てきた傲慢さであって、輪廻的な世界観による謙虚さから出てきたものではないのではないかと思えてならないのだ。読了すれば考えも変わるかも知れぬが、いつ読み終えられるかわからない。忘れてしまいそうなので書いておく。
平賀英一郎『吸血鬼伝承』(中公新書)
 東欧の吸血鬼フォークロアの研究書。行間から東欧への愛情が滲み出ている好著である。東欧を中央に据えた姿勢が貫かれているという点だけを取っても読む価値のある一冊。

30日
ガラーツ&イノセンティ『白バラはどこに』(みすず書房)
 長田弘が選ぶ七冊の絵本というシリーズの一冊。収容所の少年たちにパンを運び続けた少女を描いているが、解放軍に撃たれてしまうという結末がすごい。寓話的な物語なので、いまいちという感じもするけれども。
リチャード・ウィルバー『……の反対は?』(みすず書房)
 同上。ちょっとリアを思わせる絵が良いのだ。「ガラクタ」の反対は、「これはすごい と だれかが思うもの」。すべてがガラクタで、同時にすべてがガラクタでない可能性があるということ。でもやっぱりゴミはゴミ。
ジャン・ドリュモー『地上の楽園』(新評論)
 ヨーロッパの楽園幻想の歴史をたどる。哲学と神学の文献に拠っているので、民衆的な視点が欠けているという難点はあるものの(ないものねだり? 確かに史料はほとんどないだろうから)、体系的に丹念に眺めているところは素晴らしい。このような著作を読むと、自分がいかに無知無教養かということを思い知らされる。アウグスティヌスからトマス・アクィナスに到る神学について、もうちょっと本格的に勉強し直すべきなのではないかと感じてしまう。そうでなくてどうして幻想文学を読みこなすことがてできるだろうか。もちろんそんな必要はないという立場もあるだろうが……。
野田昌宏『図説ロボット』(河出書房新社)
 ふくろうの本。アメリカ合衆国のSF雑誌の中からロボットのイラストと物語をセレクトしたヴィジュアル本。SFファンには興味尽きない一冊。ただ、時折噴出するオタク・オヤジ的視点にはげんなり。
巽孝之『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書)
 植民地の歴史やコットン・マザーやジョナサン・エドワーズの説教、そしてフランクリンの自伝などを文学として視野に収め、その地点から一般的な「文学」を語りだす。きわめて説得力がありかつおもしろい構成。アメリカ文学を支配するものの正体を解析する手際はみこどだ。柴田元幸の『アメリカ文学のレッスン』が、それなりにしゃれたテーマ設定で講義を展開したのに対し、むしろ表面的には文学史的な形を取りながら、はるかに刺激的でユニークなアメリカ文学史の新しい読みを提示していると感じた。ホイットマンの自我の拡張の問題は、当時の風潮やホイットマンの同性愛者としての立場と無縁ではないと語られている。これの方がボルヘスよりも納得できる。
巽孝之『メタファーはなぜ殺される』(松柏社)
 アメリカの文芸批評理論を解説した一冊。私はほとんどこのてのものに興味がなく、ろくすっぽ読んできていないので驚いたのだが、批評をするにあたって誰もが一度は考えるであろう当たり前のことしか書かれていない。これが「新しい」のなら、「古い」ものはどうだったのだろうか、と考えてしまう。そう思うのも、もはや「今」だからだろうか。初出は89、90年が中心で、確かにちょっと前だ。前掲書と同じフレーズが出てきたりするのが楽しい。


11月の雑感。今月は、『幻想文学』59号のために遅延していたもろもろのことをするはずだった。だが、思った通りに事は運ばず、「やらねばならぬ」が山積。なぜ? それはさておき、何より嬉しい驚きだったのはラテンアメリカ特集が思ったよりも評判が良いこと。読者のみなさんからも、好意的なお葉書が届いて、とても幸せ。ボルヘス効果もあると思うので、国書刊行会の編集長やその他の出版社のボルヘス本担当者にもお礼を申し上げたい気分である。また横山茂雄さんが「幻想のラテンアメリカ」を読んで、ラテンアメリカの小説を読んでみようかなという気になったと言ってくださったのがとても嬉しかった。私にとっては何よりの褒め言葉。ロシアのアニメも見たし(会場で渡電くんにも会った)、そのおかげで西村有望画集のためのエッセイを書き上げることもできた。今、印刷所と打ち合わせ中だが、この画集はすごいぞ!
 前川訳のドイツ短編集は一向に進まず、自分の段取りの悪さがなさけなくてならない。いろいろとやっているようで、何ひとつ終えられていない。本当に霜月になってしまったみたい。