藍読日記 ☆読んだ本と『幻想文学』関連の情報、その他の情報をお届けします。         2003/7/5更新
★読書メモについては主観的かつ恣意的な趣味に基づく書き散らしです。文責はすべて石堂藍にあります。
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2000年12月


1日
水樹和佳子『イティハーサ6』(ハヤカワ文庫)
 続き。SFにはなってきたが……。
井村君江『妖精とその仲間たち』(ちくま文庫)
 平易な語り口の妖精の解説集。92年の河出書房新社の本の文庫化。白黒だがイラスト多数。

2日
J・P・クレベール『ミレニアムの歴史』(新評論)
 『ヨハネの黙示録』以降のヨーロッパの終末観をたどる。とにかく語り口がユーモラスで、すこぶる楽しい。まじめな研究書なのに、笑えるなんてすてき。
ジョージ・ジョンソン『聖なる対称性』(白揚社)
 サブタイトルが「不確定性から自己組織する系へ」。タイトルだけ見るとニューエイジ系の浮ついた科学書かと誤解する。原題は「内なる炎――科学、信仰、そして秩序の探求」。内容が何となく推測されるようなもので、こっちの方がかっこよいのでは? 五月刊行の本で『幻想文学』に載せるのを逸したが、紹介すべきだったと思われるようなまともな本である。最先端の物理学(量子論・宇宙論)と生物学とについて概説し、研究の現状がどうなっているのかをわかりやすく説明すると同時に、科学における「美しい理論」「究極の単純な説明」などの追究が幻想に過ぎないことを語る。「偏狭」という言葉を好んで著者は使うのだけれども、量子論が生みだした人間中心主義も、あるいは宗教が持っている独善性も、ひとしなみに人間が生きているこの世界に秩序(対称性)を求めずにはいられないという人間の業ゆえに視野狭窄の結果であると語るのである。人間は要するに世界を十全に理解するようには進化してこなかったのだ。……しごくもっともな意見である。サイエンス・ライターという専門家ではない立場から生じるのであろう、量子論の描き方などはユーモラスで、けっこう楽しめる。また、北米ネイティヴの生活の話、意識の変化の話などが間奏としてはさまれていて、そのあたりを読むと、非常に明晰に物の見えている人という印象を受ける。著者の『記憶のメカニズム』は読んだことがあるが、これまた分かりやすい本だったと思う。確か現状ではわからんことが多すぎる、という結論だったような記憶があるが、あるいは読んで自分でそう思っただけか。

3日
廣田律子編『アジアの仮面』(大修館書店)
 アジアの仮面をテーマに、平易に仮面劇、仮面舞踊などの芸能と、仮面そのものの意味について紹介したもの。小西正捷のエッセイに、「一九八一年は日本におけるアジア仮面研究史にとっての記念すべき年であった」とあるが、『アジアの仮面展』が開かれた年なのである。まだ学生だった私は、この展覧会と関連して催された実演の会場に(ほとんど演者と同一平面、時には見学者は床に座り込む)入り浸り、仮面劇や仮面舞踊、ガムラン音楽に耽溺したものであった。大変に懐かしい。舞台で演じられるものと、民俗空間でなされるものとは本質的な違いがあるとは思うが。

4日
キャサリン・ロバーツ『ライアルと魔法の歌』(サンマーク出版)
 歌によって意識を支配できる人種がいて、人々から孤立して暮らしているが、野心と魔石を持つ僧正がその力を欲して策謀を巡らしているという設定だが、あまりにもテーマが重いのに長さが足りないので中途半端。これなら同じサンマークでも軽快に単純化した話を進める『さよならいい子の魔法』の方が楽しんで読めてしまう。

5日
ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ』1
(あすなろ書房)
 ハリー・ポッターが売れたせいで、厚い本でもオーケーということになったのか、これはやたらに大判な、持ちづらい本。次男は続きはどうでもいいと言い(活字なら辞書でも読むくせに)、長男は指環物語と果てしない物語を混ぜたような何の独創性もない設定とにべもない。私は……これが良いと言われるのはドイツぐらいだろうなあ、と思ったことである。

6日
角野栄子『魔女の宅急便3 キキともうひとりの魔女』(福音館書店)
 コリコの町にもう一人魔女ケケが現われ、自己の存立を危うくされたキキが落ち込む話。最後でとんぼさんが上級の学校で昆虫の研究をすると聞いて唖然。技術者になるんじゃなかったのか? がっかりである。魔女には自然の研究者がふさわしいってことだろうか。いやだなあ。
ロナルド・シーゲル『幻覚脳の世界』(青土社)
 幻視・幻聴などについての事例報告。bk1

イアン・マキューアン『愛の続き』(新潮社)
 「「ぼく」につきまとい、病的なまでに愛を乞う男。その男の存在すら信じず、「ぼく」の狂気を疑う彼女――」という惹き句を読み『魔法』(クリストファー・プリースト)のような作品なのでは……と大いに期待をかけて読んだのがまずかった。が、普通に読めばこれはなかなか良い作品である。眩惑的な印象を受けるが、幻想文学ではない。bk1
長野まゆみ『海猫宿舎』(光文社)
 体の弱い少年たちが集団で暮らす海辺の学校を舞台にした童話風の作品。取り立ててこれということもないが、清新で優しい物語だ。

7日
岩井志麻子『岡山女』(角川書店)
 霊能者の霊との関わりを描く連作短編集。霊がいかにもありげで、はかなく恐ろしく、特に第一話の霊に取り憑かれた女の語りには何とも言えぬおぞましいものが感じられるし、箒を持つ勧商場の女の話も鬼気迫るものがある。この作品集では文体的には普通になってしまった感じがあり、内容的にも痴情小説集とでも言いたいような男女のもつれを描いたものが多く、私にはまったく興味が持てない。
 源氏物語の葵上を怪奇小説と定義づける気にはなれないのと同じように、この作品集も何となく怪談集と呼ぶ気がしない。

★東雅夫よりこのコメントに関して「『岡山女』をいいと思わないのか?」と訊かれた。誤解されるような文章だったか。私は岩井さんは現実に滲出する幽冥的な怪異の描写という点において、現段階では一番の人であると思う。その怪異表現についてとても高く評価している。私が現代怪談集を編むのであれば、『岡山女』の中のどれか一作を入れるのにためらうことはないであろう。けれども怪異とともに描かれる人間界の消息はすべて痴情絡みで、その点が私の嗜好とは相容れず、要するに趣味が合わないのである。「とにかく怪異が好き」という人には無条件でお薦めしよう。私の乏しい怪奇ものの読書体験の中では、今年いちばんの収穫であった。  
8日
平松剛『光の教会~安藤忠雄の現場』(建築資料研究社)(京)
 茨木市のプロテスタントの教会建築の顛末を記したドキュメンタリー。私は現代の芸術建築(?)には懐疑的なので、安藤忠雄のこだわりは不可解。この教会はあまりにも寒そうである(夏はすごく蒸し暑いとか)。プロテスタントの教会なのだから、日常的な場所ではないのだろうか? 私にはプロテスタントの教会は家庭的なものというイメージがある。牧師や信者が気に入っているのならそれでいいのだろうけど。
J・M・クッツェー『恥辱』(早川書房)(京)
 クッツェーと言えば、メタノベルの手法を初めとする小説的技法を駆使し、差別問題を根底に抱えた小説を書く南アフリカの作家であり、もちろんこの新刊にも目を留めていた。だがしかし、「52歳。大学教授。……教え子の前で、男はエロスのしもべとなった……」という惹き句を見、表紙裏の内容紹介を見て、買うのをやめた本だった。おやじが愛欲地獄に落ちる話なんて願い下げである。だがしかし、読んでみると内容は違うものだった。やはり差別問題をきちんと根幹に据え、真っ当なリアリズムの手法を貫徹して、南アフリカの危うい現状にも切り込んだ普通の小説。性欲の強い、女の好みにうるさい大学教師が、たまたま惹かれた女性が教え子だという事態にもめけず、アヴァンチュールを繰り広げた結果、彼女にセクハラだと訴えられ、教師の職を投げ捨てる破目に。そして農場を営んでいる娘のところに一時身を寄せるが、彼女とはいろいろなところで衝突する。アフリカの農場で生きていくということに対する見方が違うのだ。常に現在形の一人称的三人称であまりにも冷めた感じで綴られていく文章は、読者にも冷静であることを強いる。クールに状況を見つめなければならない。だが、誰の立場に立って? 何に共感して? もちろん視点は大学教師で、普通に読めば彼の立場に立って読み進めるということになるのだろうが、ある意味で彼が突き放されているため、誰に感情移入することもできるようになっていて、つまり、私たちも南アフリカで生きるということ、白人として、黒人として、女として男として、どの立場を選ぶのか考えさせられるということだ。すごい小説というのではないが、うまい小説ではあり、ブッカー賞を受賞している。
野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』(文春新書)(京)
 近代を過ぎるとまた中世的な社会がくる、という予測のもと、親鸞の教えに従った生き方がいいんじゃないの、と提言する本。ナチズムの歴史などやりながら、浄土真宗の寺院の住職も務めるという著者は、人間の歴史は暗黒の歴史というブルクハルトの認識から、火宅無常の世界と観ずる親鸞へと帰っていったというようなことを書いているが、そこで宗教に戻れる人は、幸いである。親鸞がいいよと言われても、宗教ばかりは理性的な判断とかいったものでどうにもなるものでもない。
樋口明雄『狼は瞑らない』(角川春樹事務所)(京)
 北アルプスが舞台のハードボイルド小説。文章も内容もとにかくエンターテインメントなので、こういうものが好きな人は楽しめるだろう。
 山での遭難は大方は自業自得で、自分できっちり責任を取るべきものだと思うが、現実には生きてても死んでも周囲に迷惑をかけまくることになる。山岳警備隊の皆さんはまったく大変だと思う。本書では彼らはちょっとかっこよく書かれすぎだが、小説なんだから、それもよいか。
米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)(京)
 ロシア語の同時通訳者で、エッセイの書き振りもおもしろい著者のエッセイ集。一世代前の文学少女長じて、会議通訳者となり、仕事関係(社会もの)のさまざまな本を読み漁っているという自己像が描かれている。通訳は臨機応変、そして完全主義者はだめ、と職人的な商売であることを強調、しかもだじゃれ好きの変人が多いという。通訳は職人というよりも、一種のエリート集団という感じがするが……。柳瀬尚紀との対談で、日当12万とあるのにびっくり。柳瀬尚紀もフィネガンズ・ウェイクなんて道楽だったなあと(それはまさしくその通り。ちなみに、新しい『ユリシーズ』の訳は英語がわかっていないことが丸見えだそうだ)。すぐにわかる誤訳の方が罪が無いという話題もあり、すぐにわかる誤植も記述ミスも罪がないということかもしれないと己を慰める。
J・K・ローリング『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(静山社)
 ポッター・シリーズ第二弾。二学年になったハリーは、クラスメイトたちが石と化す事件を解決する。なんでこんなにつまらないのに売れるのだろうか。今まで本を読んだことがあまりない子はおもしろいと言い、よく本を読んでいる子は別に……と言う、とは長男の観察。潜在的な読者はいて、適当におもしろい軽い読み物を待っている。だが当人達にとっては厚い本を読んだという充実感があるのだろう。ものは売り方一つということか。

10日
スティーヴン・キング『荒地』(角川文庫)
 図書館で借りて読みかけたが、挫折。文庫になったので読み返して何とか最後までたどりついた。SF、ファンタシー、ホラーの混成体であるこのシリーズは、決してつまらなくはないし、いろいろなエンターテインメント的要素を巧みに入れ込むキングの手腕に、さすがにホラーの世界を変えた作家のことだけはあるとは思うのだけれども、好きかと言われればまったく好きになれない。
 読みながら、物語におけるコンヴェンションということが頭を離れない。これはクエスト・変容(成長)・回復というファンタジーの基本テーマに沿った物語なのだけれど、いろいろなところで破格になっていて、そういう意味ではコンヴェンションは無視しているとも言えそうな感じであり、それは評価してしかるべきなのではないかとも考えられるのである。ところがどうも違和感がつきまとう。その破格なところが、というよりは、この物語がファンタジー的なところを中心に持っていること自体が、である。スター・ウォーズにファンタジーの概念が必要以上に出てきて、何だか白けてしまうのに似ているだろうか。まだ続きを読んでいる最中なので何とも言えないが、果して満足行く着地が得られるだろうか。
 ところで このシリーズを読んでいて、前からとても気になっていることが一つある。現実から持ち帰ったキーフレックスという抗生物質は塩野義のケフレックスと関わりがあるのだろうか。こんなつまらぬことばかり気にかかるのはバカらしい。

12日
スティーヴン・キング『魔道師の虹』(角川書店)
 まったく長ったらしくて緊迫感に欠ける小説だ。あまりにも視点の転換が多いので、うんざりさせられる。最近読んだアメリカの小説はみんなこうだ。やれやれ。これは恋愛小説なので、ぬれ場が出てくるが、どうもつまらない。(これを読むと、小池真理子の『月狂ひ』なんてやっぱりうまいのだな、と思う。)下品な描写も多い。この秋の痛恨事はアニメだというだけの理由で『サウスパーク』を観に行ったことだが、ああいうサイテーな映画を観ると、下品さに対する感性が海彼とこちらとでは違うのではないかとつくづく思う。
 このシリーズにはキングの文学的な知識などがいろいろとつめこまれている。私は教養が薄っぺらいのでほとんどわからないが、たまにこれは……と思うものがある。その使われ方が好きじゃなかったりするので、どうしてもキングは好きにはなれないのだろうな。どっちにしてもこれまで10冊程度しか読んでいないんだけどね。
乙一『石ノ目』(集英社ノベルス)
 中学生が書いたようなかったるい文体、深く練られていない陳腐で冗長な物語。こんなもののどこがよくて一書一会に取り上げようと東が言ったのか理解に苦しむ。もしも評価するとすれば、その浅さ、諧謔味、ホラーかと思わせてファンタジーへとずらしていくずれの感覚などが醸し出す、中途半端な雰囲気か。まだまだ子供な青年を天才と言って持ち上げることに罪悪感を感じないのだろうか。
22日
ターハル・ベン=ジェルーン『あやまちの夜』(紀伊國屋書店)
 『砂の子ども』よりは緊迫感が薄いが、エロティシズムの横溢していることでは前作を大幅にしのぐ。bk1
大江健三郎『取り替え子【チェンジリング】』(講談社)
 タイトルはセンダックの『窓の外のそのまた向こう』から来ているものだが、幻想や怪奇ではない。つまらない。パス。自殺した映画監督の残した自伝的告白テープを聞く作家の一人称で、文学談義やら作家の現実談義やらが繰り広げられる。誰がこのようなものを楽しんで読むのか、うまく想像できない。とにかく、私はこの人のだらだらとして緊密な感じのしない文章が好きではない。傍点を多用するところにもいつも違和感を感じて仕方がない。
サーデグ・ヘダーヤト『生埋め』(石井啓一郎訳・国書刊行会)
 狂気と絶望をテーマにした暗黒的な短編集。ほとんどが幻想的な作品ではないが(というよりはそういうものの否定)、二千年後が舞台の「S.G.L.L.」という一編がおもしろい。

23日
★ほとんど本を読んでいないので(どれもこれもつまらないので読みさし状態)、代わりに昨日観た映画の話をしてしまう。『幻想文学』59号で渡電君が紹介してくれたボリビアの映画集団ウカマウの映画を三本観た。「コンドルの血」(70)「地下の民」(89)「鳥の歌」(95)。渡君の言っていた通り、ボリビアのインディオの民俗的な側面を観ることができたばかりでなく、今回ロードショー分の二作は幻想的な手法が使用されている。
 「鳥の歌」はメタシネマの手法で、差別に批判的な人間が実は根深く持っている差別意識に切り込んだ作品で、差別問題に意識的な人は必見である。ホセ・アルゲダスの『ヤワル・フィエスタ』を読んだとき、どうしてもインディオの視点にうまく立てない自分を意識せざるを得ず、自分の囚われている文化的な枠組、その強固さに今さらながら愕然とする思いを味わったのだが、この映画にもそれと同様の作用があると思う。
 「地下の民」はインディオのアイデンティティをテーマとした作品。仮面をかぶって死ぬまで踊り続けるという儀礼(苦難の年に民族のために身を捧げるという意味がある)を敢行した男の物語で、基本的には非常に政治的・現実的なテーマを扱っている。だが、「死の踊り」自体がもはや幻想的(誤解を招きそうだがうまく表現できない)であり、このテーマは非常に私を引きつける。インドのチョウだったか、仮面を被っているあいだはまともに呼吸ができないというものがあり、舞踊のあいだに踊り手はまさに彼岸へと赴きかけるわけだが、このインディオの「死の踊り」も似たようなところがあるのだと思う。こういうこと(漠然としてるなあ)に感じてしまうような人には薦められる映画。
 なお初めて行ったシネマ下北沢はちゃんとした感じのいい映画館であった。もちろんスクリーンは小さいが、アップリンク・ファクトリーとかイメージ・フォーラム、ラピュタのようなところよりはずっとマシである。

ローズマリー・サトクリフ『ケルトの白馬』(灰島かり訳・ほるぷ出版)
 バークシャーの丘陵に地表を抉って描かれた巨大な白馬の由来を物語る歴史ファンタジー。小品ながら骨格ははずさずにしっかりとしている。ただ、古代人の意識、殊に死に対する意識にやはり難しいものを感じる。昨日ちょうど「地下の民」を観たせいもあるだろうが、主人公の意識は近代的過ぎるように思える。とはいえそれをしてしまうと、現代の読者に共感が得られないだろう。

ベン・ライス『ポビーとディンガー』(雨海弘美訳・アーティストハウス)
 妹のケーリアンの妖精の友だちポビーとディンガンか行方不明になってしまう。悲しみの余り衰弱したケーリアンのために、オパール掘りの父は妖精たちを捜すのだが、それが事件に発展してしまう……。目に見えぬドラゴンと暮らす弟を描いた花形みつるの童話があったが、そっちの方がはるかにおもしろかった。この話ではたぶん、ケーリアンがまるて描かれていないし、語り手である兄に魅力がないので、つまらない。

24日
車谷長吉『白痴群』
(新潮社)(京)
 私小説。自らをコケにするところに魅力があるのだが、今回の作品集にはあまりそれが感じられず、面白くなかった。特に教師の話などはパス。
谷川彰英『マンガ 教師に見えなかった世界』(白水社)(京)
 マンガの教育的なところを称揚し、マンガを教材に使おうという活動をしている人のマンガ讃。断然パス。教材に使われるようではマンガもおしまいである。
野上尚『深紅』(講談社)(京)
 妻の残した保険金を騙し取られた男が、騙した男の一家を惨殺。一人助かった長女が、成長して、被害者の一人娘に接触するという話。パス。
野田正彰『国家に病む人びと』(中央公論新社)(京)
 北朝鮮、バルト三国、震災後の台湾などを精神科医がルポした本。ちょっと薄手。金正日一家の写真が公開されたが、子供も本当によく肥えている。その一方で、北朝鮮の餓死者は三百万とも言われ、著者の写真を見ても、子供らはその年齢に見合う成長を遂げてはいない。援助品はすべて幹部のところで止まると言う。これが現実である。著者は最も近い国、日本と韓国が北朝鮮についての情報を流し続けることが肝要だと訴えている。著者が最も嘆くのは、日本が大国であるがゆえに、小国の状況を想像できないということだ。想像力の欠如。またしても。
平谷美樹『エリ・エリ』(角川春樹事務所)(京)
 信仰心が揺らいでいる神父が、神の痕跡を探し求めるという話を主軸に、アブダクション妄想に陥っている精神科医、地球外生命体との接触を試みるプロジェクトなどがからむ。小説としてはパス。またしても神がテーマ。この人は神に対して何を感じている人なのだろう。神がいないということが合理的に大多数に納得されている半世紀後の社会(うーん、リアリティのない設定だ)。しかしエイリアン信仰は高まっている(それはそうだろう)。そんな中でわざわざカトリックの神父になった人間が神の実在に悩み、物的証拠を求めるというのが、ものすごく変。あり得ないとは言わないが。
ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフ短篇全集』(諌早勇一・貝澤哉・加藤光也・沼野充義・毛利公美・若島正訳・作品社)
 うわ。これは驚いた。私はナボコフの良い読者では全くなかったので、35編を収録した本短編集の作品のうち、三分の一程度しか読んでいなかった。本書の収録作は、半分以上の作品が広い意味での幻想文学で、若きナボコフの魅力がはじけている。翻訳もすべて新訳で良い。bk1


●12月の雑感 あまり大した本を読んでいなくて情けない。実はこのほかにも、私のごくごくプライヴェートなページを作るために、神林長平と稲生平太郎を(雑誌も含めて)読み散らしているのだが、あまりにも煩雑なので掲げるのをやめている。この二人の文章を読んでいると、ほかのものを読む気がしなくなるので仕事にならない。ともあれ、もう冬休みに入るので、今日で今年の藍読日記は終りにしようと思う。
 ホームページを開いて半年が経った。アトリエOCTAのおまけ(おみそ?)のページである藍読日記の維持に関しては、疑問を感じることも多かった。そんな中で開設当初から一貫して励まして下さった谷澤森さん、藪下明博さんに心から感謝したい。また私の疑問に丁寧にメールで答えて下さった高原英理さん、貴重な助言を下さった中野善夫さんにもお礼を申し上げたい。そしてこんなものを読んで下さったみなさんにも。どうもありがとうございました。どうか良いお年をお迎え下さい。