大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2000年7月15日
 最近読売新聞では夫婦別姓を可能にする法改正を望むという旨の投稿が続けて掲載されています。新聞側に何か含むところがあるのかどうかと勘ぐりたくなってしまいますが、それはともかく、対外的には夫婦別姓をずっと通している篠田さんの意見をうかがいたいものです。文筆業界ではペンネームというものが一応通用するので、あまり影響を感じないようにも思いますが。改姓によって自分の出自が曖昧になるということは、ある意味では嬉しいものでしょうか。それとも結局別の体系に組み入れられるだけだと思うと、それもうんざりということなのか。
 ところでファンタジーでは、「名前の掟」などに典型的に描かれていますが、名前はとても重要なものです。現実世界でも名前を重要視する習俗は世界のあちこちで見られるので、そこから引き出されてきた感覚なのでしょうが、ファンタジーの世界では多くの場合名前を知ることは相手を支配することに通じます。改姓の背後にある社会的な意味は支配なのだ、というようなところに踏み込むつもりはないのですが、名前に籠められた重さを考えるとき、改姓の問題はいかにも画一的で専制的な感じがするのも否めません。
 小説家にとっては登場人物に名づけるというのも重要なことですよね。蒼だのアスゥルだの、青いということを名前に選ぶのはどういうわけでしょう。名前はどこから訪れるのか? それも物語同様に天空の彼方からやってくるのでしょうか?

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様  2000年7月20日
 夏は嫌いです。まだ真夏でもないのに体調最悪です。当然ながら頭の方も。
 読売新聞のような保守的なところで、夫婦別姓希望の投稿が掲載されているとは、いささか意外な気がします。当然それと同じくらい、反対意見も載せられているのではないんですか? 家族崩壊の原因だとか、韓国では結婚しても女は元の姓のままだが、それは家制度が強いからであって、自分の姓といったってそれは父親のものに過ぎないんだから別にこだわることはないだろう、とか。
 一般論を述べる意欲も能力もないので、自分のことを書きます。『篠田』という家系は千葉県印旛郡にいまもかなりはびこっていて、なかにはすごい金持ちもいるそうで、そこに暮らしている私の母方の従兄弟などは『篠田一族』のしがらみの中で生きることを当然と捉えているようです。そうした中で育てば私も自分の姓を血縁のしるしとして意識し、捨てたいと思ったかもしれませんが、幸いそういうことはなかったので、私にとっては『篠田・真由美』という名がワン・セットで、自らのアイデンティティを牡蠣殻のごとくくっつける棒杭であったわけです。『篠田』の姓にこだわるのはそれが自分の一部であるからで、親が恋しいわけでもふるさとと繋がっていたいからでもありません。
 改姓の背後にある社会的な意味は支配だ、というのは、まったくその通りだと思います。最近こそ入籍しないカップルや、通称で別姓を使う夫婦が増えてきて、社会的認知も得られやすくなっているように感じますが、私が結婚するとき友人の陶芸家が表札を作ってくれるというので『半沢・篠田』にしてくれといったところ、それを聞きつけた両親が天下の一大事のごとく大騒ぎをしたことがありました。いまの家に越したときも、引っ越し挨拶の菓子折にふたりの姓を書いていったら、隣のおばさんが「なんだこれはっ」というような顔をしたものです。現在の住所がそれだけ田舎だから、意識的には二十年前の東京と変わらないのでしょう。結婚=女が男の家に入る=従属する、という意味があるからこそ、そうした社会的習慣を足蹴にする人間は、いまでもなお公序良俗の紊乱者という目で見られるのだと思います。
 この話題は下手をすると個人的ルサンチマンの垂れ流しになりそうで、書くのはなかなか難しいです。物書きにとってのペン・ネームのこと、通称は使っても公的書類では依然夫の姓を使わねばならぬこと、ファンタジーにおける名前の問題や、自分の作品での名付けのことなども、おもしろい話題だと思うのですが、字数がオーバーするのでまた次回。

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2000年7月31日
 いやはや、ここ数日の風のひどさはなんでしょうか。家の中がざらざらとします。
 さて、名前の話の続きですが、「名前が力を持つ」ということに関しては井辻朱美さんが既に「名前の力」(『ファンタジーの森から』所収)というエッセイで、手際よくまとめらておられます。要するに名前は自己と切り離しがたい一部であり、自身の全体とつながるきわめて重要な部分(自己の核)でありうる、というものです。とりあえずこれを踏まえて話を進めると、ペンネームを持って表現活動をするということは、もともとペルソナをかぶって仕事をするということにほかならないながらも、ペンネームを持つ以前の自己を変革してしまうという側面も持っていることになります。(当たり前か。)私はこの名前でものを書くようになって20年以上になります。本名である時間よりも、石堂藍である時間が相対的に長い状態になっていて、本名の世界(執筆以外の仕事や家庭生活)を侵犯するような気配があります。ときどき自分でもコントロールがうまくいかず、言ってみれば本名に戻れないというようなことがあるのです。本名の持っている生活のパターンや思考法が石堂藍的になってしまう。たぶんそれは居心地がいいので。ペルソナなのか、それとも自然な状態なのかという区別には結局のところなんら意味がなく、自己が全体として変容していく。それもペンネームによって自分の執筆活動を極力限定しようとしてきた私がそのような状態になってしまうということに、一種の悲しみを覚えます。
 冗談冗談という感じでつけた名前に愛着を持つようにもなりました。この名前は『放浪者メルモス』というゴシック・ロマンスの傑作に登場するヒロイン・イシドーラ(イマリー)のもじりです。自然児にして純粋無垢、愛情深く意志も強い乙女(もちろん大変に美しい)という、自分のキャラとはかけ離れた理想的な女性の名前を借りたわけですから、冗談というよりは一種の願掛けみたいなものだったかもしれません。もっとも石堂藍はイシドーラ風にはなれませんでしたが。
 私は自分が書いたものにはそんなに興味が持てないし、さして良いとも思いませんが、書いていく過程で必ず生じる思考、批評活動なら確固とした言葉になる前の批評そのものや、ものを書くときの姿勢は気に入っています。私にとってはそれこそが石堂藍であるという感じです。とはいうものの、石堂藍がどんなキャラクターなのか、本人にはよくわからないのでしょう。結局キャラなどというものは外部から観られるようにしか存在しないわけですから。
 本名の部分が石堂藍に侵されるような気配というのも、石堂藍が外部的になんとなく認知されているという状況と密接な関わりがあるように思われます。生身の私はかつては「石堂さん」などと声をかけられると、誰のことじゃ、と思ったものですが、今ではすっかり慣れました。私は石堂藍なのですね、と思うことができる。
 自分のことばかりしゃべってしまいました。なんか情けない。
 篠田さんがペンネームを持たないのはなぜでしょう。私たちは本名どうしで知りあい、やがて篠田さんはその名前のまま作家になってしまいました。もしもそこで篠田さんがペンネームを持つ人間であったら私たちの関係もどこなく変わったのでしょうか。篠田さんが習作にはペンネームを使っていて、小説を書く人間としても現れたとしたら。あるいは投稿書評などにもペンネームを使っていて、知りあったときにはすでにペンネームで慣れ親しんだ存在だったとしたら、何か変わることがあったでしょうか。私の中では、もしかしたら変わったかもしれません。気持ちの切り替えがしやすいとかね。わかりませんけれども。
 また繰り返しになりますが、作家として名付けるという行為についてはどのように意識していらっしゃいますか。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 2000年8月1日
 同じ暑いなら風があった方がいいや、と思うのですが、そちらはマンション住まいだからなおのこと風が強いのかもしれませんね。私はクーラーつけっぱなしで引きこもっています。
 名前の話。井辻さんのエッセイは読んでいないのですが、名前が自己の核であり得るというのは、その通りだと思います。そしてあなたの、石堂藍というペンネームとの関係も、今回初めてお聞きする話で、大変興味深く感じました。私はあなたと本名で知り合ったので、私の中ではいまもあなたは石堂藍というよりは「本名」さんです。あなたの仕事、『幻想文学』の評論やブックガイド、また『山尾悠子作品集成』や『奇跡』の解題を拝見しても、私にはやっぱりそれは「本名」さんの仕事と感じてしまうのです。あなたとは電話でも直に会ってもきりなくおしゃべりばかりして、その中ではお互いの仕事とかぶる話がかなり大きな部分を占めていますが、そのときのあなたは石堂藍なのでしょうか、本名のあなたでしょうか。それとも石堂藍は、ものを書くときこそ鮮明に現れてあなたと重なってくるのでしょうか。でも、あなたが「石堂さん」と声をかけられても違和感を覚えなくなったということは、実際に書いていないときも石堂藍であるわけですよね。
 私がペンネームを使わなかったのは、恥ずかしいような話なんでいま初めて明かしますが、大学の初めの頃だったか、大江健三郎が「自分の作品に責任を持つために本名で書く」といった主旨のことを書いていて、「おおそうか」と同意してしまったというところから来ています。投書の記名か匿名かじゃないんだから、ペンネームを使ってものを書いて発表したって別に責任回避じゃないと、いまは思いますが。しかし気が付いたときは私は、ペンネームを必要としない精神構造を確立していました。小説を書くということが自分にとって基本的な営みであり、もっとも篠田真由美という名前の存在にはふさわしいことだ、というか。私は大学卒業と同時に結婚し籍を入れたために、戸籍名を本名と呼ぶならば別の本名があります。なんとも皮肉なことに、篠田真由美は民法のおかげでペンネームと化しました。しかし依然私にとっての自己の核は篠田真由美であり、自己とは小説家篠田真由美であり、他の日常的すべてはそれに従属しています。しかしそれはおそらく、子供時代から私がそのようになりたかった自分であり、小説家としてヘタクソだ、思うようなものが書けないということを別にすれば、現在の私は幸せです。しかし私は法律的にも篠田真由美でありたいと思うために、夫婦別姓に賛成します。
 ペンネームというのは、親に名付けられた名ではなく自ら選び取った名前である、というふうに考えれば、私の篠田真由美という名前は、やはりペンネームといえるのかもしれません。法律のおかげで戸籍名が変わってしまったために、なおのこと私は篠田真由美という名に固執してきましたから。つまりあなたと会ったときも、私はすでにペンネーム・篠田真由美であったというわけです。違うのはあなたのように石堂藍から「本名」さんに変わる、仕事の部分をその名の中に囲い込むというのでなく、私の場合は本名を使わなくてはならない場合、役所に行くとか、夫の親戚とどうこうとか、そういうときこそ自分は仮面をかぶっていると感じます。そして年々、その仮面をかぶることが苦痛になってきています。それはやはり篠田真由美が、ある程度は世に知られるようになったからでしょう。
 あなたの中で石堂藍という名が大きくなっていったのも、間違いなくその名が社会的な認知を得てきたからだと思います。名前は自己のものであるのと同時に、他人によって発語され、読まれなくては存在しないものですから。その名を知っている人が、増えれば増えるほど名前は力を増します。物書きの自我肥大症もそこから生まれる病です。私がいかに篠田真由美でありたいと思い、結婚しないで本名を保持し続けていたとしても、小説家になれていなければ、その名の持つ力は知れたものです。ペンネームという仮面を持って物を書くことは、自我肥大症に対する予防手段かもしれませんが、名前の魔力はあっさりと本名の自分を呑み込んでしまうのでしょうね。
 ああ、またしても作品の中の命名の話までたどり着けませんでした。ぜいぜい。