大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2000年8月20日
 フランスのロマン事件というのを御存知ですか。それをもとにしたドキュメンタリー風の小説エマニュエル・カーレル『嘘をついた男』(河出書房新社)を読みました。1993年に、ロマンという医者の両親と妻子が殺され、家に火がつけられるという事件が起きました。捜査の過程で、犯人はロマン自身、しかも彼が医者だというのは真っ赤な嘘であったことが判明したというものです。WHOに勤務し、相当な収入を得、名士とも知り合いの優秀な人物、というのが彼の世間的評価で、親も妻も親友もみんなそう思っていたけれども、実はただ森の中をぶらついただけ、金は他人の金を銀行に預けると偽ってすべて使い込んでいたのです。しかもガンを患っているという嘘までついて。なんとみんなを騙してきた年数は18年にもなるのです。
 かつて医学校に通っていた彼は、ある追試をさぼったのをきっかけに、嘘にまみれた人生を歩むようになりました。ただ一度追試を受ければ、嘘偽りなくそんな医者になれたかも知れないのに、それをせず、ただ嘘に嘘を重ねて生きたのです。都合が悪くなると嘘をついてごまかす。とにかく、後味の悪い小説で、著者は最初に抱いた好奇心からロマンのことを書く羽目に陥ったけれども、結局のところ、著者がその怪物的な虚言癖をおぞましいと感じていることがあからさまに分かります。
 ロマンは、みんなを殺して自分も死ぬことしか考えていなかった、と言いますが、本気で自殺をしようとしたとは思えません。家に火を放っても、発見されるように工夫を凝らしているし、最初は殺したことも否認していたのです。裁判の席上ではとにかく改悛しているらしい態度をとり続けるのですが、その姿は一種のヒロイズムのようにも見えてしまいます。その点ではアイヒマン裁判を思い出させるわけですが、アイヒマンは結局死を引き受けたのに対して、ロマンは既に自分が決して死刑にならないということを知っています。フランスでは死刑は廃止されていますから。
 ロマンは刑務所の中でも、模範的な囚人で、囚人を慰めるボランティアなどにも愛されています。だまされやすいボランティアを著者はほとんど非難していますが、本書を読むかぎりではそれに同調せざるを得ません。とにかく、このロマンは自分の描いたシナリオというか妄想の中に生きているのです。そしてそれを妄想だと知りつつも、それを糊塗し、自分でも半ば信じている。嘘をついている、というよりも妄想の中でひたすら自分を美化してそれを真実だと思い込む、というような感じです。ロマンはひどい例なのですが、こうしたことは現実には容易に起こり得ます。卑近な場所でも、また重大な場所でも。例えばアイヒマンもあるいはルドルフ・ヘスも手記を読むかぎり、そうした自己の美化、英雄化を免れていません。私はどちらかといえばそういう気質の人間なので、今でも現に私の中でそういうことは日常的に展開していると言っても過言ではなく、私はそのように現実を曲げようとする自分の中の自分としばしば戦わねばなりません。
 アウシュヴィッツの生存者として小説を書き続けてきたプリーモ・レーヴィが、見て見ぬふりをしたドイツ人に問いただしたとき、反ユダヤ主義はヒトラーのせい、すべては悪魔的なヒトラーと恐ろしい全体主義のせいだった、という反応を示すドイツ人がいました。自分の罪を知っていながら、そのようにごまかすのですが、もはやごまかしているという意識もなく、自分で信じているのです。
 人間は心理的にはもろく、そのために防衛機構も発達していて、ある意味ではしたたかなのでしょう。したたかなことは人間の魅力でもありますが、それは同時におぞましくもなりうる。なんにせよこれは一種衝撃的な本でありました。
 ミステリ作家の立場からすれば、こんなのありか? というふうにも思われることでしょうね。前にダイアナ妃が亡くなったときにも、もしも小説でこんな悲劇を書いたら非現実的と言われてしまうだろう、とおっしゃっていましたが、ロマンの話なども、これはないだろう、というようなものと感じられるのではないでしょうか。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様  2000年8月25日
 久しぶりの大火通信、となったら話題がガラリと変わりましたね(笑)。現実に自分が背負う名前のことはさておき、物語の中の名前、あるいは名前を巡る物語は、私には結構興味深いものがあるので、また今度話を振って下さい。
 アイヒマン裁判の記録映画「スペシャリスト」は、先日教えていただいて見に行き、なるほど真に恐るべき悪というのは、決して私が描いたジル・ド・レや彼の教唆者のそれではなく、凡庸にして卑小な姿をしているものだと、いまさらのように思ったものでした。悪を行う素質とか才能などというものではなく、誰もが成りうる悪、悪人。
 私にはご存じのように時代遅れのロマン派的旧弊が強く、つい悪に惹かれる、それも悪を美化して惹かれてしまうところがあります。ミステリを書いていればどうしても悪と犯罪を書くことが多くなりますが、物語を犯罪の側から形成していく過程で、犯人に感情移入する、それもかっこいい犯人に。やむを得ざる動機を持った人間が、己れの置かれた状況を覆すために、最後の手段として行う犯罪。で、犯人はその結果を引き受けて、なんらかの形で自らの決着をつけていく。それが私の書きがちな、美化された悪、感情移入可能な犯罪です。
 しかしたぶん現実社会に、そんな犯罪者はいない。上部の命令に忠実に従い、能率良くユダヤ人を移送して殺すことに職業的満足感を見出したアイヒマンは、別に特殊な存在ではなかった。彼に命じたナチス政府は、特殊といえるだろうが、どんな政府だろうと自己の判断を棚上げにして、黙々と職業的な義務を果たすことで結果的な悪を産み出してしまう人間は、ロマン派的で確信犯的な悪人よりはるかに普遍的で、いつ自分もそのようなものになってしまわないものでもない存在でしょう。
『嘘をついた男』は未読ですが、楽をするために嘘をつき続けて、最後はなにもかもご破算にするために殺人放火を犯しながら、自分はちゃっかり生き残っている男、というのはおぞましい。けれどそのおぞましさは、ジル・ド・レの幼児虐殺のおぞましさとは別の種類の感情です。ジルの悪が大地の深淵を覗き込んだときの戦慄なら、彼の悪は、『罪と罰』の中の比喩を引用して「田舎屋の埃にまみれて蜘蛛の巣が張った風呂場」とでもいいましょうか。自分のすぐ隣にある悪、そのキモチワルサです。
 ところで、ダイアナ妃の悲劇について私がいったのは「非現実的」ではなく「不条理」です。物語の世界では安住させられない不条理だから、人は陰謀説を産み出したがる。しかしそれがたぶん現実というやつなのだろう。私は書かないが、と。
 つまり私は、ミステリで現実をなぞる必要はないと思っていました。エンタテインメントは読者を楽しませ、感動させるものであって、後味が悪くげんなりするようなものは誰も読まないだろうし、私も読みたくない。ダイアナ妃のようにヒロインが、単なる交通事故で急死するような不条理は嫌いだ。自分が読んでおもしろく心惹かれるものとして、上記のようなロマン派的悪の物語を書いてきた。
 ですが最近ちょっと、「これでいいのだろうか」という気もしてきています。それは、こんな悪人はいないという問題とはまた別のことで、「これだと動機さえあれば殺人を犯してもいい、というメッセージにならないか」という疑問なのですが、話がずれるのでここでは止めておきます。
 どうもあなたとミステリの話になると、隔靴掻痒の気分になってしまうのはなぜでしょうね(笑)。犯人と探偵が知的一騎打ちをする本格ミステリは、もともとロマン派的な悪になじみやすい。私も広くはこの流れの中にいます。本格ミステリが一部で「非現実的」とくさされるのは、「こんな悪があるか」という意味でもあります。『嘘をついた男』のような犯人は、いかにも実際にいそうだし、現代の犯罪小説ではたぶん珍しくもないでしょうが、私はそういう物語はあまり好きではないし、エンタテインメントとしては書けそうにないです。とはいっても、いつまでもロマン派的悪を反復書き続けることがいいとは思っていないんですが。