大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2001年1月15日  あけましておめでとうございます。もう小正月で、この言葉は遅いでしょうか。
ともあれ、本年もよろしくお願いします。
 本が読めないまま焦燥に駆られる日々を送っていまして、お便りも遅くなりました。

 今年の新年は21世紀の始まり、ということで、何かしら一つの区切りということについて考えさせるものがあります。けれども、個人の身に限って言えば、新世紀はおろか新年にさえさしたる感慨もなく、とにかく型通りの日本的な正月を過ごしはするものの、ずるずると前年(前世紀)の名残をひきずっているありさまです。新年に当たって、今年こそは、などと思うこともありません。
 とはいうものの、区切りのないだらだらとした日々を常に送り続けているというのではありません。私にとっては、『幻想文学』という雑誌が一つの区切りの目安になっています。
 『幻想文学』は一応季刊という建前なのですが、諸般の事情により、年に三回ほどしか出せません。とはいえ、さまざまな状況から準備に最低でも一ヶ月、長いときは二ヶ月かかり、編集作業自体には一ヶ月半ほどかかります。その間はほかのことはいっさいできないと言っても過言ではなく、まさに忙殺されるというか、死にそうに忙しい感じになるのですが、それが終ったときは、やっと一段落ついた、という感じになります。雑誌が出来上がって、配本などの面倒な作業もすべて終ると、その間に余計な仕事さえ入らなければ 半月から一ヶ月は充電期間がある、というような調子になっています。
 で、『幻想文学』の一冊一冊が私にとっての区切りです。作り終えると、その段取りの悪さやその間の生活習慣の乱れなどを大いに反省し、次こそは、というか、今日からもっときちんとした生活を……と思うわけです。
 毎号毎号そのように思うわけなのですが、うまくいいったためしがありません。ともあれ、新年などというものは、『幻想文学』の区切りに比べると区切りとしての機能は著しく低いと言わざるを得ません。新世紀などというものも同様で、50号という区切りに比べたらまったく取るに足りません。
 『幻想文学』は私にとっては人生の半面を形成しており、例えば最初の子供が生まれたときには『フランス幻想文学必携』を作っていたとか、母親が亡くなったときには『ロシア・東欧』をやっていた……という感じになっているわけですが、このように出版物に記憶が結びついているというのも、一種の職業病のようで悲しい感じです。『幻想文学』をある種の目安として人生の半分近くを刻んできたことは事実なので、それが習慣的な区切りになっているのも当たり前なのかもしれませんが。
 近年は『幻想文学』以外の仕事が若干増え、『幻想文学』が終っても、そのあとに仕事が山積していて、区切りがつかぬ感じが少しずつ増しています。それでもその他の仕事は『幻想文学』とはたいへんさが違うので、大きな区切りとしての『幻想文学』の機能は、きっとこれをやめるときまで衰えることはないでしょう。

 篠田さんも恐らくは、一作書き上げるのを大きな区切りと感じられていたと思いますが、最近は連載も増えて、何か区切りもなく忙しい……という感じになっているのではと推察します。それとも新年に当たって、何か節目のようなものを感じられることもあるのでしょうか。あるいは学生ならば三月を区切りの季節と考えるでしょう、そのようなものが何かあるのでしょうか。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様  2001年1月15日   明けましておめでとうございます。本年最初のお題は「区切りについて」ですか。

 人間というのは区切りが好きというか、そんなものを意識するのは人間だけだろうと、先年郵便局が妙に賑わっていたときに思いました。なにかの数字並びの日だったので、その数字の消印をもらう人、はっきりいって老人ですが、が大勢やってきていたのでした。そのへんの趣味はさっぱりわからない、というのが正直な感想でした。
 年の始まりも世紀の始まりも、なんとも感じないのはご同様です。新聞などでやたらその手の記事が載っているのをみると、本気でそう思っているのだろうかと疑問が湧きます。単に「そういうもの」だから「そういう記事を書く」というだけではないのかと。
 子供の頃はそうした年中行事以上に、学校の区切りが大きかったですね。伝統儀式としての行事の意味が薄らいで、消滅しかけている時代に生きていることをいまさらに実感します。また話がずれますが、去年奈良県の古い民家を見学に行ったとき、その家が単に古い民家を住まいに使っているだけでなく、さまざまの伝統行事をいまに伝えているということを聞かされ、同行の男性諸氏(木工関係者や建築家)はいたく感激していました。しかし私はその大屋根の重苦しさとともに、こんな家に嫁に来た女性の苦労を思って、どーんと落ち込んでしまったものでした。年中行事-家父長制-女性の労苦、と連想が進むのは、短絡思考かもしれませんが。

 個人的に大きな出来事で人生の区切りを感ずる、というのは誰しもあることでしょう。私の場合1980年に夫と長い旅行に出かけたことなど、ひとつの区切りになっています。近年だと母が死んだ1998年とか。ただ、こちらはあまり楽しい記憶ではないので、特に季節が重なるいまの時期は、思い出したくないことになってしまいます。
 もっと短いサイクルだと、書き上げた長篇作品が里程標になるといえなくもありませんが、お言葉の通りどんどん仕事と仕事の間がなくなってきて、充電期間などあってなきがごときです。「貧乏暇無し」が通常状態。こうやってすりきれるまで働いて、後になにが残るかなどと思うと文字通り暗澹とします。まだ、書きたいと思うものはいくつもあるので、それを書き上げることを考えると、作品が人生の区切りになるというよりは、人生が作品に引きずられて前へ前へ伸びているような気分です。
 区切りとは死ぬこと。死ぬまではだらだらと続いていくのが生。なんとまあ、身も蓋もない結論になってしまいました。正月は嫌いです。

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 1月29日
 御存知の通り東京新聞の新刊抄をいくつか書かせてもらっているのですが、普段は読まないような本で興味深いものを読みました。『宮大工千年の知恵』(祥伝社)というもので、松浦昭次というこの道五十年の宮大工の棟梁による語りおろしです。松浦氏は故西岡常一に次ぐ超一流の宮大工で、人間国宝に認定されているそうです。全国の国宝や重要文化財を三十以上も修理しているとのことですが、御存知でしょうか。この本では、もっぱら中世の建築技の高さを褒め称えていて、それもまたおもしろいのですが(人間の錯視を考慮に入れてフォルムを決定しているとか、美と実用性とを調和させているとか)、今回は修復作業ということについてちょっと話をしてみたくなりました。
 木造建築は二百年か三百年かに一度ぐらい、大掛かりな解体修理をしないといけないのだそうです。松浦氏は中世建築を中心に修理を手がけてきたわけですが、中世の建物も江戸時代に修理され、そして明治から現代にかけてまた修理され、今ではあらかた修理が終り、次回は百年後から二百年後に修理の時期が来るのだということです。その時にそなえて技術を伝えなければいけないと松浦氏は力説します。しかしこの本を読みながら到底無理なんじゃないだろうか、と思いました。だいたい、松浦氏自身が江戸時代には中世の技術の水準を既に保っていないと言っているのです。いわんや現代においておや。文献や資料なども昔とは比べ物ならないほど残すのでしょうが、最終的に問題になるのは職人の手による技術や建築美へのこだわりですから。そういう技術の伝統は失われてしまったら、もう取り返しがつかない。もちろん新しい形に技術が生まれ変わる可能性は常にあるでしょうが、過去の再現はとても難しいと思います。過去のものは過去の技術に拠ってしか癒されないという側面が確かにあると思うので、とにかく古建築物は厳しい状況をかかえていると言えるでしょう。こういう伝統の喪失は文学でも如実にあります。それもまあ話しだすときりがないですね。
 それにしても解体して修復に修復を重ねていく(場合によっては創建当時の姿からはどんどんずれていったりもする)建築というのはユニークなものだとは思いませんか。また、時として修復以前の原初の姿が優れた大工の眼で読み取られて、古形に戻ったりもする。もちろんそれとても本当の姿ではなくて、大工や学者の思い込みに過ぎない可能性も大いにあるわけです。本書の中では、千葉の法華経寺祖師堂が比翼入母屋造りに修復されたけれども、それはまちがっていてただの入母屋造りだったんじゃないか、という話が出てきます。過去を正しく見るということについては、こんなふうに形が残っている建物一つですら危ういものがあるわけですね。そのように変形していったものがまた未来のどこかの時点で誤って読み取られ、変化していく。変化していきながらも、それが古い形だと信じられていたりして。そんなことは建築に限らずある話ですが、自然にというよりは、修復という能動的な現場でそれが行われていくということが興味深く思われました。
 海外の建築は解体修復みたいなことをするのでしょうか。石造りの聖堂なんかは到底できないでしょうし。絵画などでは修復が盛んに行われているようですけれども、建築でも細かい修復は当然いろいろとあるのでしょうね。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 1月29日
 昨年の四月、実に久しぶりに奈良に行きました。そうなった経緯など、いろいろおもしろいこともあるのですが、話がそれてしまいそうなので脇に置きます。私は大学時代旅行というと会津八一をお供に年二回くらい奈良飛鳥に通い詰めていました。なんだってあんなにも寺回りばかりしていたのか、そのへんはもはや思い出せませんが、あれから二十年以上、寺や遺跡など、どこもかしこも整備が進んできれいになった印象でした。そのとき唐招提寺に行って、井上靖の「天平の甍」に出てくる例の本堂が解体修理になる、ということを知りました。
 買ってこられる資料などなにもなかったので、うろ覚えの話ですが、掲示されていた図面などによると、天平建築オリジナルと称されるここも、やはり幾度もにわたる解体修理を経てきていて、屋根裏の小屋組とか、その結果として屋根のスロープとか、ずいぶん変化しているようでした。
 現代の修復は原点回帰というか、可能な限り創建当初に戻そうということです。確かにその学問的根拠がどこまで正確なのか、素人には判断できません。ただ、近代以前の寺はあくまで宗教的施設であったので、その時代なりの美意識で修復されるのが当然のことであったようです。宗教的意味合いが薄れて、文化的遺産として認識されるようになったとき、オリジナルに戻そう、というベクトルが生まれたのですね。それを是か非かというより、それが我々の生きている非宗教的な現代なのでしょう。
 文化遺産の保存という理由は、宗教が社会を縛っていた時代の必要性という理由よりはずっと弱いものなので、技術の保存はおっしゃるとおり容易くないと思います。今年三重県津市の古寺で、まるっきり新規の五重塔を古来の工法で建てているという記事を読みました。そんなふうにして、いまのところはまだ細々と伝統工法を継承する努力が続けられているようですが。
 西欧の石造建築の場合、解体修理という概念は当然ながら存在しません。ただ私が実見してきたところでは、崩れたり摩滅したりした石材を剥がし取って、そこに新しい石を継ぐ、というかたちでの修復は盛んにされているようです。構造材が崩壊すれば一から積み直しです。そのときに古い石材を利用するということはあります。ダマスカスのモスクにヘレニズム期神殿の円柱が利用されたり、ローマで古代帝政期の建築の上に建てた建物がいまも市役所として利用されているような例も思い浮かびます。あちらでは変化よりも、継続が印象的。
 あ、でも、この継続というのは決して順当な継承という意味合いではなく、むしろ過去に対する勝利宣言のようなものが多いです。ローマのパンテオンがキリスト教会になり、コンスタンチノープルの教会がオスマントルコのモスクになるように、主は変わり神は変わっても、依然として宗教施設であるという意味は続いているような具合。なまじ続いているから勝ち負けの話が出てきて、現在のエルサレムみたいに、敵対する宗教で聖地が重なるようなことも起こってくるんですね。ああ、話がずれる。
 また、純然たる経済的要請から古材を用いることもあります。ローマのコロセウムは中世を通じて一種の石切場だったし、バルセロナのサクラダ・ファミリアも、お金のないときは古い石材を貼り合わせて使っていたそうです。最近はわりとお金があるらしくて、そういうことはないみたいですが、あの建物に使っている石はあんまり硬くなくて、水にも弱いんだとか。すでに早い時期の彫刻が破損してきたりもしているそうです。
 木材の文化に慣れた日本人には、石というと無条件で堅固、というイメージがついてくるようですが、実は石も案外もろいもの。というのは、サクラダ・ファミリアで働く日本人彫刻家外尾さんという人に聞きました。スペイン内戦のときにファシスト軍に市民軍が銃殺された広場、というのに案内してもらったのです。石壁が生々しくえぐれておりました。飛び散った血は染み込んで見えなくなったようですが。
 これが日本だったら、こういうものをそのまんま残しておくことに耐えられるでしょうか。原爆ドームは保存されていますが、同じ国民同士が憎み合い殺し合った内戦の跡というのはまた意味が違うでしょう。結局、変えまい、変わるまいとするのは、石という素材ではなく、それを用いる人間とその文化の質のようです。