大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2001年9月30日  菊田まりこ『いつでも会える』(学研)という本を御存知ですか。小型でうすっぺらくて、立ち読み3分というような、本当に手間ひまのかかっていないように見える本なのですが、なんと八十万部も売れているのだそうです。読者カードも一万五千通も返って来て、自分の体験をそこで縷々綴ってくるという話です。
 『いつでも会える』は犬が語り手で、飼い主(少女)が亡くって可愛がってもらえなくなり、どこ? どこへ行ったの? と探し回るというものです。絵本の結論は、肉体的には触れ合えなくなったが、いつでもそばにいる、という少女からのメッセージが聞こえてきて、犬が目を閉じれば、心の中に彼女がやってくる、というもの。文飾は一切なくて、そのまんまというか、全文引用しても、この説明と大差ないぐらいの行数しか取らないでしょう。陳腐だという言葉を使うのさえためらわれるほどのド陳腐ぶり。絵も本当に軽いタッチで、私からすれば魅力的とはとても言い難いものです。
 戸田恵子が朗読したというCD版まで作られていて、こんな稚拙なものが売れているということ、それに感動してしまうということに驚きます。わが長男に言わせれば、「感動しているやつは一部で、大方は、売れているから、他の人が持っているからという理由で、判断力も思考能力もゼロのやつが買っているのだ」ということです。稚拙なものに平気で感動してしまうのと、判断力がゼロなのと、どちらがマシなのかは悩むところですが、ともあれ、こういう当たり前に過ぎる言葉で心を動かされるのか、不思議でなりません。
 編集部には、現実に子供を失ったりしている人間からも感動のお便りが届くそうですが、シビアな現実を前にしたらほとんど無効としか言いようのないような凡庸すぎる語りに、なんで感動できるのか、私にはまったく理解できません。こんな程度のもので慰撫されてしまうのだったら、その悲しみの深さはほとんど水たまりのように浅いのではないかと思えてならないのです。
 かつて、身近に死者を持ってしまった人を慰める言葉として、他人が不用意に使ってはならないとされたのが、このような、「あなたの心の中にかの人は生きている」というような安易な慰めの言葉でした。大事な人間を失った人が、このように考えられるようになるためには時間が必要であり、この言葉が通用するときにはもはや傷はほとんどいやされているというのが常識であったように思います。そしてそんな言葉は、失ったものの大きさを知ることのできない他人に使って欲しくない、というのもまた一般的な感情であったかと思うのです。今はもうそんな時代ですらなくなっているのでしょうか。
 篠田さんもよく御存知のように、幻想文学の中にはこのような慰めの文学の系譜が存在します。つらい死に出会った人々を励ますために、何らかの形で死者を描く。それも、この絵本のような「そのまんま」の形ではなく描いて心の隙間を埋めていく、というのが表現者の務めであり、また技術の見せどころでもあると思います。技術を使うなどというと、心が籠っていないなどと誤解される向きもあるでしょうが、技術を尽くすことはそれだけ心が籠められているということにむしろ等しいのです。もちろん執筆者の立場からはそのようにあからさまには言い難いでしょうが。
 拙劣な表現でも心揺さぶられてしまうということはあるでしょう。けれどこの本の場合はそういうものとは違って、ただ軽いだけ、と私は感じます。こんな作品よりもはるかに良質な、上等なものがたくさんあるというのに、どうしてこんなもので満足できてしまうのでしょうか。これでいいのなら、作家の苦労は何なのでしょうか。
 何にせよ、薄い時代になったものです。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様  2001年10月1日
 ご無沙汰いたしました。ご承知の通りというか、ひたすら仕事に追われています。急速に感性が干上がりつつあるようで非常にやばいです。『いつでも会える』という本は知りませんが、こういうときはへたをするとそんな本でも手軽に感動して、手軽に「癒やされて」しまったりするのじゃないかと、いささか己れを危ぶんだりいたします。
 人間は感動するのが好きです。それから、楽をするのも好きです。本を読んで感動できることはわかっていても、長い小説を読むのはけっこう大変。苦労した末に得たものはまた嬉しいということもわかっているけど、手軽な楽なものの方にやはり手が伸びる。だってみんな忙しいもんね。長い難しい小説は時間もかかるし、それに小説の感動というのは読者の器によって変わります。未熟な人間には味わえない感動というのは、小説の場合に限らないと思いますが、たくさんありますね。苦労して読んだ末に感動できなくて、しかもそれは本が悪いのじゃなく自分がそれを読み取る力がないんだ、なんてことになったら不愉快じゃないすか。
 楽に感動したいから、苦労したくないから、かけた時間と値段の元を取りたいから、未熟な人間にもわかりやすい、そして手軽に読める薄っぺらな本がはやるのじゃないでしょうか。そういう変な流行本というのは、昔からときどき出現しました。作品の出来の善し悪しを別にすれば『星の王子様』や『かもめのジョナサン』も、そういう流行り方をしたような気がします。前者の場合など、そのように読み替えられた、といった方がいいでしょうが。
『星の王子様』の「大切なものは目に見えないんだよ」も、真心や、やさしさのようなわかりやすいものに読み替えられる。『カモメのジョナサン』の孤高もまたしかり。脱サラの話だなんていわれたんじゃなかったっけ。それからうんざりして口がひんまがりますが『一杯のかけそば』とかねー。あれは「親子の愛」と「見ず知らずの他人の思いやり」と「いつか苦労は報われる」がテーマ。あーわかりやすい。
 手軽な感動の共通点はわかりやすさ、既存の価値観によりかかった俗耳に入りやすい人生論、というあたりだと思います。楽に感動したいとは、手軽に、手間をかけずに、であると同時に、いまの自分を侵害されるような、つまりなにかを変えられるような感動じゃなくて、もっと微温的な、楽に納得できるような質の感動を得たい、ということです。これだけ価値観が多様化した現代でも、「みんな仲良く」「一生懸命」「**を守るために闘う」「愛と勇気」「母は大切」みたいなテーマはあっさり納得できて、共感できて、そういうのをやさしく絵解きしてもらって「うんうん」と感動するのは娯楽として楽しいのでしょう。
 だからあなたがそれに向かって怒りを覚えるのは理解できるけど、「仕方ないんじゃなーい」としかいえない。昔からそういう売れ方をする本はあった。でも、それがどんどん安直なシロモノになりつつある、というのは感じますけど。この際大衆蔑視、人間嫌いの本性を丸出しにしていってしまえば、人間って楽な方に流れる。良質なもの、高い技術を駆使して作られた上等なものは、それだけで敷居が高く感じて敬遠する、という傾向はあるでしょう。素人芸がもてはやされるのとも、根はひとつだと思う。だから軽いものの方がバカ売れする、と。
 物書きのはしくれである自分に引きつけてみると、そういう怠惰な読者をも引き寄せてやりたい、「美形キャラ」や「ギャグ」の蜜で引きずり込んで、自分の小説を読ませてやりたいという気持ちはあります。それくらいはプロの戦略の範囲内。だからって売れを狙って、軽いものを書けるわけじゃない。それはほとんどの作家がそうだと思う。みんなそれほど器用じゃない。自分の好むテーマを、自分の書き方で書いていくだけで、それをどう売るかは出版社、どう買うかは読者の責任です。『いつでも会える』の作者も、売れを狙ったわけじゃないのでしょう。たまたまその人の拙い技術と、わかりやすいテーマが大衆の口にあったということで。別にうらやましくはないです。税金が大変だろうな、またヒットが出るといいね、とは思いますが。
 当の本を見たことがないので、こんな程度で癒やされる悲しみはとんと浅いのでは、というあたりには踏み込まないことにします。「みんなが感動している」というのが後光効果になることもあるかも知れない。「癒やされたい」「感動したい」という要求が強ければ、薄っぺらいことばがジャスト・フィットするタイミングもあるかも知れない。悲しみでよれよれになった心には、薄い方が楽だという可能性もある。そういうふうに流れるのが大多数、一般大衆ってものじゃないかとも思うので。
 私自身は自分の喪失を、虚構化して小説に吐き出すことで一息ついたけど、そういうのってたぶん一般的ではないし、それは私自身の癒やしのための努力で、読者を癒やしてやろうなんて思わなかった。「癒やす」ということに関していえば、それは「自らを癒やす」しかないんで、私の作品に繰り返し「癒やし」のテーマが現れるのは、自覚的じゃないんだけど私自身が「癒やされたい」傷を内に抱え込んで、自らを癒やす努力をしている現れなんでしょう、きっと 。
 本を読んだ読者がそれによって癒やされたとしたらそれもやっぱり「自らを癒やした」ことになるのだと思う。受け身の「癒やし」なんて一時の麻酔でしかない。だから、どんなしょうもない作品によっても「自らを癒やす」場合はあるでしょう。「癒やされた」と錯覚する人もたくさんいるでしょう。あ、踏み込まないなんていって踏み込んでいるね。
 というわけで、安直なものが売れるのは「大衆文化の逃れがたい趨勢」で、「しかしそれは最近ますます傾向を強めている」で、「しかしどうしようもない」で、「それでも私は自分の作品を書いていくだけ」ということです。そういう本に飛びつく人が、だから私の本はもう買わないとはいわないと思う。いわれたらそれはこっちの負けで、それも仕方ないというほどの覚悟はあります。
 あなたのような、出版界全体を見据えて本を読み続ける仕事を己に課した人は、清濁併せ呑むというか、濁だらけということできっとゲロゲロでしょうが、我慢できなくなったら止めるだけですよ。そして踏みとどまっておれる内は、なし崩しにスタンスをゆがめないよう務めるだけ。
 私もいつか安直で薄っぺらなものを書いてしまい、それが自分でわからなくなるような日が来ないでもありませんが、そのときは君が私のドタマをどついてくれるものと期待しています。そして、その声が聞こえないような馬鹿にだけはなりたくないと切に願います。これは絶対に、どつく方が大変でリスクも大きいとは思うけど、頼む。「俺が俺でなくなったら、殺してくれ」なんつーて。
 繰り返しや矛盾のある文章ですが、半ば私信のつもりなのでご容赦。そして長くなったのでこのへんで。