大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2002年7月28日

 こんにちは。大火通信という字を見るだけで暑いからいやだと言われそうな夏の日です。大火というのはアンタレス(蠍座のα星)の中国名で、赤い星だから、星の温度としては低い、などと言ったところで仕方ありませんよね。これは篠田さんの星座に因んだものですが、夏場だけは私の星座に因んで水瓶通信とでしたほうが涼しげでよいのでしょうか。
 もしかすると、この説明で初めてこのネーミングの由来を知った若い読者もいるかも知れませんね。こんなことはまったく知らなくともよいことなので、火のように熱い議論を目指した(現実にはそうなっていないけど)ネーミングだと思ってもらっても一向にかまわない。けれども、知っていようがいまいがどうでもいいことと、知らないとまずいだろう、ということの境界はどこに引けるのでしょうか。
 ちょっと前のことですが、気象予報士の書いた本を読んでいたら、視聴者から寄せられる多くの質問に答えると言って、気象の初歩の初歩、降水量とは何を指すかとか前線とは何かとか、要するに中学で習う理科の説明をしていました。義務教育で習ったことすら、常識として通用しないのなら、いったいどのあたりまでの知識が常識として通用すると考えたら良いのでしょうね。
 知識のある人が読んだらでたらめで噴飯物の小説も、知識のない人が読めばそれなりのものに読めてしまうということを、あまりにもしばしば小説の世界で見かけるものですから、日本の常識はどうなっているんだろう?と疑問に思います。今日は、知識とリアリティの問題について少しばかり考えてみたいと思うのです。
 といっても厄介なテーマではあるので、私は何をリアルに感じるかというような話になってしまうと思うのですが。また文章そのものには立ち入らず、知識とリアルに感じることについて少し話してみたいです。
 例えば、私は歌を歌うので、小説の主人公が歌を歌う人だったりすると、気になりますね。これはある作品のヒロインですが、オペラ歌手で、煙草を吸って酒を飲んで夜更かしして外をほっつき歩き、揚げ句にその日に舞台があるというようなのを読むと、もう受け付けません。もちろんものすごく喉が丈夫な歌手というのはいて、こういうことをやっても平気なぐらいの大天才はいるかもしません。しかしふつう、このような行動を取るということは、プロ意識の欠如した傲慢、もしくは自堕落な人間ということでしょう。彼女をリアルに感じようとすると、ヒロインとしては認めがたくなります。
 あるいは篠田さんから教えてもらった音楽家が主人公のやおいもの。オーケストラの設定や主人公たちの設定を聞いただけで絶対に読みたくないと思いました。あまりにもアン・リアルで苛々してしまうに決まっています。
 また、ご存じのように、宗教的なことについては人並み以上の知識があるので、その点についての理解の浅いものは、まったくリアルに感じられず、白けてしまいます。「神の存在する証拠を求めようとするカソリックの神父」というあるSFの主人公の設定は、あまりにも変なので、真面目に読む気も失せました。あるいは一時話題になった芥川賞受賞作『日蝕』などもそうです。
 私にはリアルではなく、つまり現実とのギャップが容認できる限界量を越えており、よってアホらしいという感じが先に立ってしまってのめりこんで読むどころではない、という小説が、しかし一般にはとても受けたりするということはあるわけです。これは単純に知識の多寡というようなことなのでしょうか。
 もしかすると、現実との関わり方、また、読者と作品との関わり方に大きな要因があるのかとも思います。つまり現実をリアルだとは思わない、もしくは小説なんかに現実(リアルさ)を求めない、というどちらかの傾向があるのではないかと。
 私はとても現実的な人間ですが、小説の世界も私にとっては現実のようなもので、その中を私が生きられる世界でもあるのです。ですから自分にとってリアルであり、同時にあくまでも小説なので、現実を越えていることが必要です。でも、多くの読者はそんなことを求めない。とにかく設定なりなんなりはまず「そういうもの」として受け入れて平気、ということなのではないかと考えたりもします。あるいは現実にも重きを置いていないというか、外界というものに対する興味が薄い。だから、リアルかどうかという尺度はもともと存在しない。
 一昨年だか『ビューティフル・ライフ』という映画がちょっとした人気になり、ある社会派の作家も褒めていて、とてつもなく驚いたのですが、この映画を平気で観られる人たちというのは、アウシュヴィッツという過去をどのように一体捉えているのか、私には理解できませんでした。ユダヤ人収容所についての知識がどれほど少なければ、こうした映画を容認できるのでしょうか? それとも知識とは関係なくて、映画になんてそもそもリアリティを求めない、内容がデタラメでもとにかく感動できればいいんだということなのでしょうか。もしくは現実だってあやふやなんだから、それをどう表現しようとかまわないじゃないかということなんでしょうか。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 2002年7月29日
 夏に弱い篠田はクーラーの中に引きこもっています。あなたは水瓶座だったのか。占星術にはあまり知識も関心もありませんが、字面だけからは対照的な私たちというわけですね。議論にしたいなら、私の返事に対して反論を書いてもらえば簡単にそうなるわけですが、ネット上討論というのは一対一でもそれほど実りあるものにはならないというのが私の理解なので、別にかまわないんじゃないでしょうか。
 早速今回のお題ですが、待てしばし。「つまらない小説である」ということと「リアルさを感じられない」ということと「読者の知識の有無」というのは、必ずしもストレートに結べないのではないか、といきなりあなたの問題提起をくつがえすようなことをいってしまいます。
 もちろん「つまらない小説」の中には、「リアルさが感じられない小説」も含まれていて、なぜそんな「リアルさが感じられない小説」が書かれてしまうかというと、そのひとつの原因に「作者の知識不足」がある。もうひとつは、げすな勘ぐり方をすれば「作者が読者を舐めている」ということもあるかもしれない。そして、舐められて平気な程度の読者が「作者の知識不足のせいでアンリアルで、つまらない小説」を平気で世の中にのさばらせている、と。ああ、身も蓋もない。
 でも私の感じからすると、「作者の知識不足」や「読者への舐め」から「アンリアルでつまらない小説」が書かれるわけではない。むしろ昨今の小説は知識過剰、小説で**の勉強をしなさいといわんばかりの知識の羅列小説が多い気がします。『日蝕』なんかも、むしろその口でしょう。しかしその並べられた知識がいい加減であり、しかも並べられ方がつまらないというだけの。そしていくら作者に溢れるような専門知識があったからといって、「おもしろくてリアルな小説」が書けるとは限らないのです。むしろ知識に引きずられ過ぎれば、「小説のおもしろさ、リアルさ」からどんどん離れていくのではあるまいか。
 小説に「正しい知識」を求めすぎるのは、読書の楽しみを色褪せさせてしまう、といったらきっとあなたは不本意に感じると思います。しかし、例えば私は建築や世界史や宗教にこだわるので、珍妙でアナクロな建築が出てきたり、16世紀のフランスの学生下宿で朝からまな板の音がしたら白けます。でも、ほとんどの人はそんなこと気にしない。あなたも同じ小説を読んで、まな板の音には違和感を感じなかったでしょう。建築だって別に気にしないでしょう。同様私は「喉の異常に丈夫なオペラ歌手」の小説を楽しく読むことが出来ました。音楽の専門知識を持っていたり、建築史にこだわったりする読者は最大公約数ではないのだから、自分の知識を持っている分野にたまたま抵触した、という程度のことに目くじらを立てるわけにはいかないと私は思います。もちろん、それが些細な間違い程度のものではなく、作品世界の根幹に関わってきたりすると「ああ、これは異世界のファンタジーであったか」と思わないと読めなくなってしまいますけどね。
 たぶん私はおっしゃる通り、「外界というものに対する興味が薄い」のだと思います。小説にとって肝心なことは作品内世界の整合性であって、それが現実と似ていなくても別にかまわないと感じます。無論私にとっても「小説の世界は現実のようなもの」ですが、現実と似ていなくても「その中で生きられ」ます。受肉した天使や美貌の男が現実に存在するなどとは思いませんが、自分の作品世界ではそれは確かに存在しているので、私にとってはその方が現実より重要で、リアルなものなのです。
 つまらない小説は現実に似ていないからつまらないのでなく、不出来に現実から遊離していて、あちこち矛盾があって無様なのです。その無様さが「アンリアル感」を引き起こし、白けさせ、つまらないと思わせます。『ビューティフル・ライフ』という映画は見ていませんが、たぶん私が見てもつまらなかったでしょう。それはそこで描かれていたユダヤ人収容所が現実と似ていなかったからではなく、現実から充分なだけ飛翔することができなかったから、無様な離れ方をして制作者の意図に物語を奉仕させようとしたからだ、と思うのですが違うでしょうか。
 人の見る現実は人によって違います。趣味、知識の多寡、環境、さまざまな要因によって、人はみな違ったものを見ています。万人に共通するリアリティなどありません。私には私の作品世界がもっともリアルです。つまらない小説でも売れているなら、それをリアルと感じる人がそれだけいるのだろうと思うだけです。書評家にとっては、こういう相対主義的な観念は有り難いものではないのでしょうが、「我は我、我が道の他に行く道なし」の物書きは、そう思ってベストセラーを横目に自分を慰めるのです。