大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2002年11月28日

 日々読書に追われ、なかなかゆっくり文章を書いている暇もありません。読書と言っても好きでしているものではなくて、あくまでも書評のための読書なので、ただのお仕事。世間にはたくさん読んでいることを誇る評論家もいるようですが、出来ることなら、たくさんの本を読みたくはないですね。
 さて、今日はちょっと言葉の使い方について話をしたいと思います。某日、某氏と作品の良し悪しの判断と好き嫌いについて話しておりました。評価の判断には好みというものが当然反映されるのではないかと某氏が言うのに、私は若干の反論を試みていたわけです。好みが反映されないわけではないが、「好き」なものはそんなに多くはないからほとんど関係ないと。それなら「好き」なのはどんな作家・作品かというやりとりがあれこれあって、そのうちに、「好き」という言葉の使い方がまったく違っていたことに互いに気付いたのでした。
 その作品をおもしろいと思うおもしろくないと思うということと、好き嫌いとは変わらないだろう、と某氏は言ったわけですが、それはまったく別のことだろうと私は思ったわけです。おもしろいとか良いとかすごいとかいったことと、自分の好き嫌いは、完全に別々ではありませんが、やはり違う。私が「好きな作品」だと断言している場合は、相当程度入れ込んでいるということだったのです。「良い作品」とは思っていても、好きでも何でもないことが多い。「好きだ」というのは、私には特別な言葉だったのですね。自分でもたいして意識しておらず、他人もそんなものだろうと思っていたのです。「好きだという作品がそんなにたくさんあるなんて、みんな情熱的なのだなあ」と、思っていたわけ。私の基準で「好き」と言えばそれは本気で好きなので、ある意味では評価の対象外になってしまいますから、作品の良し悪しの判断のさまたげにはほとんどならないのです。
 「好き」と「好み」もまた違うことで、「好み」、趣味嗜好は自分でも判ることですから、気を付けていれば良し悪しの判断の妨げにはなりません。「好き」となれば、理性的にはとどめがたいわけですから、高い評価を与えがちでしょう。でもその分マイナスしても良いのかどうかはわからない。もしかすると、その高い評価が正解かもしれないのです。「好き」な作品では、それがわからなくなってしまうのですね。自分を客観的に判断できなくなるわけです。
 たかだか「好き」という言葉一つでもイメージにそんな違いがあるとは……。この場合は私の方が明らかに規格外のようです。で、某氏にもいささか呆れられました。それでは「私が今まで〈好き〉と言っていたものは〈何がどうあっても大好き〉というような意味に取っていたんですね」と。某氏は、これまで好きだと言っていた作品の多くについて取り消したそうでした。
 言われてみれば「大好き」などという言葉もあるくらいだから、「好き」というのがそんな大仰な意味を持っていると考える方がおかしい。日常的には、例えば、珈琲が好きとか紅茶が好きとかこのケーキは好きとか、そんなに過剰な思い入れもなく使っているわけですし。ところが映画・美術と文学に限って、とても限定的に考えてしまう。アニメが好き、幻想文学が好き、詩が好きという大ざっぱな言い方は出来ても、好きな作品と言われると、極端に少なくなります。構えてしまうのでしょうか。
 好き、と言ったときにはやはりしみじみと好きなのですね。おもしろい、良い、すごいというような評価は簡単に与えられても、好きだということはそんなに簡単ではない。美術や文学に対してはどうしても批評家であるという意識が先に立ってしまって、感情的なものを抑制するのかもしれません。あるいはほかの何か心理的要因があるのかも。それはともかく、こういう言葉のすれ違いってあるもので、そんなことから、自分自身についても何がしかのことを気付かされます。そういう経験ってありません?

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 2002年11月29日
 そういう経験ってありません? と聞かれたわけですが、どうもうまい例が思い浮かびません。
 ことばとその意味する内容(シニフェとシニフィアンてやつですな)が、対話するお互いにとって違っている、ということなら、真っ先に思い浮かぶのはあなたと「ミステリ」の意味する中身が違っている、というあたりですが、これは「ジャンルの定義の話」なので、いささかずれたことになってしまうでしょう。
 ミステリ作家的にそのへんのことを考えると、「ん、これは使えるかも」ということになる。AとBふたりがあることを話し合って、お互い納得しているのに後で齟齬が生ずる。日常でも起こりがちの誤解に過ぎないが、片方が視点人物だと、そもそもそんなところに原因があるとは夢にも思わないから、これは相手が裏切ったかというようなことになって、ところが相手もまたそんなことは考えない。お互い率直に確かめないままトラブルが膨らんでいく、というような。これを「神の視点」から書いたらコメディで、片方の視点で書いたらミステリにもなり得ます。読者は視点人物に感情移入するものだから、視点人物の誤解によってミスリードされ、わかってみればコメディな状況も謎めいて見えるわけ。
 ああ、ちっともあなたが示唆した方向に話が行きません。

 だいたい私は根っからの唯我独尊的物書き体質だから、自分の好き嫌いが評価に直結することを疑ってもいない。そういう自分だから評論なんか書けない、書評はあくまでも「私の見方」という限定つきだと思ってます。だからあなたの「好き」は「例外的な愛を捧げる作品」で、ごく少数だから、「好き」な作品については客観的評価は下せないけれど、それ以外の「嗜好」くらいじゃ評価は動かないもん、というのは、すごいなあと思うわけです。評論やる人はそうじゃなきゃ。
 つまりあなたの話し相手の、「評価の判断には好みが反映する」というのは、それじゃ普通の人じゃない、と思ってしまいました。普通の人は物書きほど唯我独尊ではないとしても、自己中なのは人間の本能だもの。自分にはおもしろくない作品を、「でもこれは客観的に判断したら良い作品である」と判断できるのは、ひとつの特殊技能に違いない。そんなの一般人には出来ないから、職業として成り立つ。
 なあんだ、たいていの書評家はそうじゃないふりしてやっぱり自分の好みを反映させているのね。きっと「それでもいいんだ」と思っている人と、「それはまずいからできるだけ客観的に」と心がけている人がいるんだろうけど、どっちにしろ「好みの反映」は抜きにはできない、と。でもそれじゃあ、よっぽどその人の好みを知っていないと、うっかり書評なんか読めないよねえ。キャラクターを立てて書評するのは、実は楽な道を行っているのだといまさらのように気づいた次第。