大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2002年1月26日
 とにかく仕事が忙しくて、頭がうまく働きません。そういうわけで今回は人間の権利ということについてちょっと話してみたいと思います。
 小松美彦の『人は死んではならない』という対談集を読んだのですよ。小松さんというのは、脳死を人の死と認めることや死体からの臓器移植に一貫して反対し続けている人で、死というのは、個人的なものではなくて、周囲との関わりにおいて存在するのであって、医者が「脳死判定」という形で決めるべきではないし、また死者にも自分の死を勝手に選ぶことは認めない、という立場を取っているのです。笠井潔さんも対談相手の一人なのですが、彼は一種のリバタリアニズムの立場から、自殺権を認めよ、と言っています。
 たぶんこの自殺権というのは、法律上の問題なのだと思いますが、法律的に何を保証するようなものなのかは、この対談だけではちょっとわからない。それはさておき、小松さんは、自殺する権利はない、死刑ももちろん廃止、という立場です。
 自殺権にせよ、死ぬ権利にせよ、権利があろうがなかろうが、人は勝手に死んでしまうわけですから、そのあとでそんな権利はなかったと他人(もちろん親族だろうが何だろうが他人です)が言ったとしても後の祭りで、どうにもならない。死ぬというのは、そういうことでしょう。
 私見によれば、人間には生き死にに関して何の権利も有してはいません。人間の社会の中で、法律を作って、権利が有る無しのルールを決めるのは、それは結構でしょう。ただでさえ、人間はデタラメですから、人間同士の関係を野放しにしては収拾がつかないでししょうからね。しかし、人間存在そのものは、どんな権利をも有していない存在だと思いませんか。人間に限らず、あらゆるものに権利などというものはないと私は思う。ただ生きているから生きていくのであって、生きる権利があって生きるものではないでしょう。そんなものはないが、取りあえず生きているのです。
 迷惑さえかけなければ、どんなふうに生きようが死のうが私の勝手、という考え方は、ごくまともなようですが、迷惑をかけずに勝手に出来ることなぞ、この世の中にはないでしょう。息をするだけで酸素と二酸化炭素の交換をしたりウィルスを吸ったり吐いたりしているわけで、人間がある程度大きな行動をとれば、それはもうさまざまなところに影響が出ずにはいない。勝手に一人で生きられるわけもなく、とにかく生きているだけで既に迷惑であるとでも言えば良いのか、何らかの影響を与えるわけです。迷惑をかけながら生きていて、というよりも生きていくとはそういうことだと感じます。
 脳死反対の小松さんの、死とは共鳴するものだという意見――これを表わす言葉の一つとして中井英夫の「死んだら人の心の中へ行くのだ」という言葉が取り上げられています――は、別に死だけでなくてあらゆるところでそうなので、だから脳死を人の死として押し付けるなという根拠は、あまり説得力がない。現実的に弱い立場の人間が臓器を取られるという事態が起きてしまうわけですから、臓器移植反対、安楽死反対の立場を取った方が説得力がある。社会的な問題は哲学めいたことを言うより、具体的なことをあからさまに言った方がインパクトがあることが多いものだと私は思います。個人的には臓器移植の法律に反対だし、自分でも例えばドナーになろうとは思いませんけれど、死は個人だけの問題ではないという意見には同調できません。
 生きていこうとするときに、自分で何か選べば我儘だとか勝手だとか言われてしまう。人に気を使って生きていて、うんざりします。死ぬときもまた人に気を使って死ぬのでしょうけど、それを考えるとげんなりするし、そのことについてとやかく言う人間がいるということ自体にぞっとします。自殺する権利なんてものは人間にはないけれど、それでも自殺したいですね、私は。

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 2002年1月28日
 自分が読んでいない本に関しての話はできにくい、というか、あなたの要約が正確かどうかも判断できないので、『人は死んではならない』についての賛否はいわないことにします。
 人間の生き死にに関する権利、というのも、ここで「権利」ということばを使うのはなんだか的外れのような気がしてしまうのですが。つまりそれは「権利」というものをどう捉えるかの問題なのでしょう。
 私は、「人間には誰も生きる権利があるのだから、生命は等しく尊重保護されなくてはならない」というのが現代の共通認識だと思います。つまり「法の下における平等」に基づく「生存権」の話です。人間が「法の下における平等」を獲得したのは進歩であると私は考えます。かつて人間は平等でなく、「生きる権利を持つ人間」と「持たない人間」がいたので、いまもなおあたかも「生きる権利」など持たぬがごとく死んでいく多くの人間がいるのは事実でも、「法の下の平等」を是とした現代から見れば、それは克服されるべき矛盾であると考えられるからです。
 あなたが人は「生きる権利があって生きるものではない」というときは、法概念などとは違う、もう少し根源的な意味合いでの「権利」の話をしているように感じるのですが、いまひとつ明確な意味合いがわからないというのが正直なところです。
 私が基本的に肯定したいのは自由意志です。生きたいと思う人は生きられるのが当然の権利だと思う。臓器移植は私も願い下げですが、先端の医療技術を使っても生き延びたいという人がいて、たとえばサイボーグになっても生きたいなら、それもその人の権利だろうと。逆に「安楽死」の権利は肯定したい。
 ただ、同様に死にたい人は自殺すればいいか、というと、そこであっさり頷く気にもなれません。私は基本的に「生きること」を肯定したい。それに経験してみればわかりますが、肉親に自殺されるほど嫌なものはありません(嫌がらせの方法としては効果的です)。権利などあろうがなかろうが、自分が知っている人に自殺はしてもらいたくないと考えるのは身勝手ですか。「人に気を使って生き」ることにうんざりするなら、取り敢えず気を使わず生きる生き方を模索する方がましだと思うのですが。