大火通信 ☆篠田真由美と石堂藍の著作物です。無断転載を禁じます☆
篠田真由美に一問一答
大火通信1号●名前
2号●ロマン派的悪
3号●建築の修復
4号●安直なもの
5号●名前再び
6号●リアリティ
7号●好みと評価
8号●人間の権利
9号●はてしない物語

篠田真由美の公式サイト・著作目録、日記を連載中篠田真由美

石堂藍から篠田真由美へ
篠田真由美様 2003年1月27日
 まだ『幻想文学』を始めたばかりの頃のことです。当時はぽえむ・ぱろうるという詩の本の店でアルバイトをしていて、その関係で知りあった人の中に、高原英理さんがいたのですね。いつも黒い服を着て店に現れる、色白で繊細な美少年(同じ年なのですが、青年というよりはそういう感じだったのです)の高原さんと、どういう経緯でか食事をご一緒したことがあったのです。そのときに何を話したのかは、完璧に忘れていたのですが、最近(と言っても数年前)、その時私は、エンデの『はてしない物語』が傑作であるから読め、と力説した、と高原さんに言われたのです。当時は、どんな人だったかまったく分かっていなかったので、その時読んでおもしろかったものを薦めたのでしょうけれど、今考えると、赤面ものですよね。あの手の児童文学は誰にでもおもしろいというものではないでしょう。
 そう言えば篠田さんはエンデがお嫌いなのですよね。私はエンデは好きというわけではありませんが、嫌いでもなく、まあまあおもしろい作品を書く作家だと思っています。特に、彼の空間感覚のようなもの――というよりも、空間に関わる構築力とでも言えばいいのか、そういう想像力をおもしろいと感じますし、いかにもドイツ的な神秘主義者の系列に入る作家としてもおもしろく読むことができます。
 『モモ』『はてしない物語』と続くエンデの作品は、児童文学のファンタジーとしては、やはりとても優れた作品で、そのあまりにも剥き出しの説教臭さに、大人は思わず身を引いてしまうこともあるでしょうが、子供にとってはすばらしい作品と言えるでしょう。その分りやすさが、子供にとってはむしろ好ましいのです。子供の世界観は複雑ではありませんから、ある程度図式的な方が望ましいということです。『モモ』はだいたい八~十歳ぐらいから、『はてしない物語』は十~十二歳ぐらいから読む作品で、物語のおもしろさとその年齢に見合った思想とがきちんと絡まりあうように構築されているのはさすがです。
 しかも『はてしない物語』は大人が読んでもおもしろい作品になっている。メタフィクションの一種でもあって、そのために、単純な冒険物語とは異なる深度があるからです。非常に無味乾燥に図式的な言い方をすると、ファンタジーのような空想文学の世界は、読者もまた積極的に参加しなければ、生き生きとはしないものだ(痩せ細ってしまう)という理論が開陳されていると言えます。随所で「これはまた別の話」とオープン・エンドになっているのも、物語とは、一冊の本で独立し完結するものではなく、本の形になったものは大海の一滴のようなもので、その背後にたくさんの物語があって、しかもそのあらゆる物語は、想像力の世界を介してつながっていると言っているようです。最初に読んだとき、このメタフィクション性に、私は感動しました。アトレーユの悲壮感漂う姿は、物語から読者へと投げ掛けられた呼びかけそのものであって、読者を代表するバスチアンに応えさせることで、エンデは物語、ファンタジーそのものを救ったのだと感じます。おさな心の君、モンデキントはその点、余計なキャラクターですが、お話をわかりやすくするためには、象徴的存在が二重に必要だったのでしょう。
 バスチアンが主人公となる後半では、それでは物語を紡ぐような想像力とは何かということが語られ、イメージする力が、存在そのものとどのように関わるのかという点まで考察できるようになっています。想像力は誤って使えば危険なものでもあるということが、語られもします。子供にはちょっとわかりにくいことかもしれませんが。
 この話は、バスチアンを中心として読むと、父親との和解にしろ、世界に貢献する立場にしろ、どうも見ていられない、というところはあると思います。特にクライマックスでの異世界脱出からエピローグのあたりは、『カリオストロの城』の最後の方(クラリスとルパンが別れる辺りから)ではビデオを止めたくなってしまうのにも似て、「しょうもなくおっさんくさい」という感じがあります。しかしそれでも『カリオストロの城』がおもしろいアニメであるのと同様に、『はてしない物語』もまたおもしろい作品だと思うわけです。
 どんなものでしょう?

篠田真由美から石堂藍へ
石堂藍様 2003年2月10日
 物語とは読まれることによって初めて完成するものだ、というのは私の信念のひとつですが、加えて、物語と読者はそれぞれ出会うに適した時があり、それを外すと幸せな読書とはいえないのだ、ということを、いまさらのように痛感しています。
 以前に『はてしない物語』を読んだときの、自分の精神状態といったことはまったく思い出せないのですが、20代の後半で知人に借りた、というのだけは確かです。そのときはなぜか、ちっとも面白くなかった。面白くない、というのがまずあって、「説教臭い」という理由を後からつけたような気がします。「説教臭い」のはいまも苦手ですが、なぜか今回はとても面白かったのです。
 実はこれを再読する前に、『ハリー・ポッター』を既刊分全部読みました。若い友人たちの楽しそうな会話に「ふーん、そんなにおもしろいの」と思って借りて読んだのですが、これまた「それほどのもんかあ」という印象しかありません。そして続けて『はてしない物語』を読み出したところ、ファミ・レスのハンバーグの後にドイツ料理の名店のそれを一口食べたような、似て非なる、そして次元が違う本物の物語と自分は出会っているのだ、という感動に襲われてしまいました。
 『ハリ・ポタ』と『はてしない』には似た部分もあります。主人公はどちらもいじめられっ子で、親はいないか、いないも同然で、相当に陰湿な迫害を受けています。そしてそんな現状からの救済としての「幻想的異世界」が出現し、彼らはそこへ行くことで冒険と喜びを得るわけです。ところが『ハリ・ポタ』ではその「異世界」も異世界を成り立たせている魔法の原理もきわめて曖昧で、ご都合主義的です。主人公はタナボタのようにすばらしい力や庇護を与えられ、なんなく勝利を勝ち得ます。『はてしない』ではまさしくその「異世界」と「人間の救済」、「夢想」と「逃避」の相克が物語の駆動力となり、勝利の瞬間が転落へと繋がる恐ろしさに呆然としつつページをめくらなくてはなりません。
 昔読んだ曖昧な記憶では、『はてしない』はひどく陰惨で気の滅入るような印象だけが残っていました。物語を編むことでみじめな虫が生まれ、それを助けようとするとさらに異様な虫が生まれて、というあたりは覚えていました。たぶんその当時の私はバスチアン以上に現実に耐えられないがきだったのでしょう。
 『ハリ・ポタ』は苦いところなどまったくない、いい気なおとぎ噺です。ファンタジーからとげを抜いて、甘くて口当たりのいい部分だけ残したような作品です。昔の私ならむしろこちらを楽しんだことでしょう。
 そして正直に言いますと、あなたが「しょうもなくおっさんくさい」といったラストの父親との和解も、いささか父親の変化が唐突だとはいえ、私は嬉しく読み終えました。こんな終わり方だったとは全然覚えていなかったのですが、ハッピー・エンドは好きなんです。