明石町便り

須永朝彦を偲んで

■著作撰(書影集)
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須永朝彦バックナンバー

1・日影丈吉
◆給仕少年の推奨献立
◆色のない絵具
◆さまよへる悪霊、或は屈託多き女
◆日影さんのこと

2・井上保&森茉莉
◆殉情は流るゝ清水のごとく
◆Anders als die Anderen
◆『マドモアゼル ルウルウ』奇談

3・泉鏡花
◆魔界の哀愁

4・堀口大學
◆堀口先生のこと

5・足穂&乱歩
◆天狗、少年ほか

6・郡司正勝
◆郡司先生の憂鬱ほか

7・菊地秀行&小泉喜美子
◆美貌の都・月影に咲く蘭の花

8・高柳重信&中村苑子
◆るんば・たんば・『水妖詞館』の頃

9・バレエ
◆アンドロギュヌスの魅惑

10・ディートリッヒ
◆蛾眉

11・内田百間
◆片づかない氣持がする

12・和歌・短歌
◆戀の歌とジェンダー

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《明石町便り5  2002/5/26 訂正版》


★『将門』を観る
 4月の歌舞伎座は、昨年桜の季節に逝去した六世中村歌右衛門の一年祭、次男の松江さんが歌右衛門の俳名魁春〔徳富蘇峰より贈られた由〕を継ぐ二世襲名をも兼ねた公演で、成駒屋六世由縁の演目がずらりと並びました。昼の部に常磐津の浄瑠璃所作事『将門』が出たので、16日、瀧夜叉贔屓の菅原多喜夫さんを誘つて見物しました。午前11時開演、15分前に劇場の前で待合せといふ事で、当日は7時に起きて余裕綽々、時々時計に目を遣りながら《江戸の伝奇小説》第一巻のゲラに目を通してゐたのですが、多喜夫さんからお電話があり、「歌舞伎座は今日ですよね」との御質問、「ええ、さうですよ」なんて平然と答えたのですが、「もう開演なんだけど」と言はれて、「えつ!」と仰天、時計を見れば、何と11時5分前ではありませんか。どうやら「11時30分に家を出れば、11時15分前には着ける」〔明石町から歌舞伎座までは徒歩10分ほどです〕といふトンデモナイ計算をしてゐたとみえます。慌てて支度を調え、旧臘の事故以来乗らなかつた自転車に飛び乗つて駆けつけましたが、この年になるまで、芝居の開演に遅れたのは今回が初めての事、やはり寄る年波なのかと落ち込んでしまひました。昼の部は四本立のミドリ狂言〔撰り取り見取りのミドリ〕なので、最初の『鴛鴦』は途中から見るといふ始末、多喜夫さんには何とも申訳の仕儀となりました。
 次は『南部坂雪の別れ』〔真山青果の『元禄忠臣蔵』の一幕〕、何で桜も過ぎた時季に雪が降る芝居を見なきやならんのか、恐らくこれは吉右衛門〔大石内蔵助役〕の都合に合せたんでせうね。このところ、吉右衛門は何を演じても鬼平が後ろに透けて見えるやうな気がするのは私の僻目でせうか。丁度午刻なので、これはパス、外に食事に出て、銀座2~3丁目を逍遙いたしました。
 さて次がお目当の『将門』、御存じのやうに正式な外題は「忍夜恋曲者(しのびよるこひはくせもの)」と申しまして、山東京伝の読本『善知安方(うとふやすかた)忠義伝』を脚色した芝居『世善知相馬旧殿(よにうたふさうまのふるごしよ)』の大詰に演じられた舞踊劇で、『将門』は通称、この部分しか残つてゐません。謀叛人平将門の遺児瀧夜叉姫が如月(きさらぎ)といふ傾城(けいせい)に化け、朝廷方の勇士大宅光圀(おおやのみつくに)を色仕掛で味方に引き入れんとして叶はず、正体を露はして蝦蟇の妖術を披露に及ぶ〔京伝の原作では、蝦蟇の妖術を使ふのは瀧夜叉の弟の将軍太郎良門〕といふ筋立、「妖術魔術の業通にて、さすがの勇者もたじたじたじ、梢木の葉のさらさらと、怪し、おそろし」と歌ひ切つて、あとは屋体崩しの大仕掛で幕となります。
 赤姫〔公家・大名の息女〕ばかり演らされ、いつも首を振つてゐた印象の強い松江さんに向く演目とも思へませんが、亡父の追善といふ事で挑戦したのでせう。光圀は曾て歌右衛門の相手も勤めた團十郎で、台詞の少ない役ではあり、やゝ恰幅がよくなりすぎた嫌ひはあるものの、まあ適役ですね。瀧夜叉は他に中村雀右衛門・中村芝翫・坂東玉三郎などが手がけてゐますが、歌右衛門の全盛時に比べると、今の歌舞伎は全体に味が薄くなつてをり、中々「見入られる」域まで引き込んでくれません。後日、昭和47年所演の歌右衛門の『将門』〔光圀は十三世片岡仁左衛門〕のビデオを取り出して再見したのですが、黒衣(くろご)二人が差し出す面(つら)明りの寂光〔照明も今より暗かつたやうです〕の中、木の葉の吹寄せ模様の打掛を着て紗の蛇の目傘を肩にスッポン〔花道七三の切穴、妖怪変化や妖術師はこゝから出入りします〕よりセリ上がつてくる姿からして如何にも曰くありげで妖艶、劣化した映像ながらも幕末の頽廃味まで漂ふ気配、崩れた古御所の屋根の上で、キッと睨んで決まる見得(みえ)など真似手がなく、さう言へば『積恋雪関扉(つもるこひゆきのせきのと)』の墨染桜の精、『鴛鴦』の怨霊、『四谷怪談』のお岩様など、人間ならざるものの役の多くは、この人の独擅場(どくせんぢやう)でありました。
 昼の最後は玉三郎の『阿古屋』、浄瑠璃の『壇浦兜軍記』から移されたもので、傾城の阿古屋〔悪七兵衛景清の情人〕が詮議の場に引き出されて琴・三味線・胡弓の弾奏を強ひられるところから、俗に「琴責」と申します。昭和戦前に十二世仁左衛門が専売特許みたいに演じてゐたさうで、その長男の我童さんが覚えてゐたのを歌右衛門は教はつた由、生前には極めつけと言はれた演目で、私も見てゐますが、傾城の扮装(なり)で実際に三曲を騨くのです。実に目ざましいものでしたが、玉三郎は能くこれを受け継ぎ、上演を重ねて自家薬籠中のものとなし、このたびなどは安心して見てゐられました。大方の役者は胡弓〔中国のものとはやゝ異なる〕で躓いて断念するらしいのですが、こと胡弓に関しては、玉三郎は成駒屋よりも上に抜け出てゐるかとさへ聴かれました。裁き役の畠山重忠は中村梅玉〔歌右衛門の長男〕、敵役の岩永左衛門〔この役は人形振で台詞なし〕は中村勘九郎で、全体にバランスもよかつたやうに思ひます。
 帰りに一階のロビーで中村東蔵夫人とバッタリ、私の家主の杉本典已さん〔画家〕の姉君なので、ちよつと御挨拶。『阿古屋』で榛沢六郎に扮した御子息の玉太郎さんを拝見した直後だつたせゐか、咄嵯に「玉太郎さんも大きくなられて……」なんて陳腐な事を口走つてしまひました。

★3時間は辛い
 4月27日、古いお友達の女性〔画家の奥様〕に誘はれて、高校3年生の息子さんと御一緒に、丸の内ピカデリーで評判の映画『ロード・オヴ・ザ・リング』を見ました。午前11時の回を見ると仰るので、この日は時間を間違へないやうに気をつけて15分前にマリオンへ着いたのですが、実は劇場に問ひ合せた時に教えられた上映時間が間違つてゐて、2回目の上映は12時からだといふのです。私は時間に呪はれてゐるのぢやないかと思ひましたね。おまけに連休直前の土曜日とあつて、お客は引きも切らずに詰めかけ、通路に並んで待つ羽目に。まあ1時間前から待つたのですから、結構な席は取れました。つまらんアメリカ映画の予告編を10本くらゐ見せられて、漸く始まりましたが、最初の数分は何とナレーションで指輪の来歴を説明するといふ芸の無さ。主役の少年は好みぢやないし、大がかりなCGにも直に飽きるし、美しい直毛長髪のエルフが出て来なかつたら、席を蹴つて帰つたかも知れません。指輪の行方が世界の未来を左右するといふ類の話は、ワーグナーの『ニーベルングの指環』を知つて以来、ともかく苦手なので、トールキンの原作も読んでゐないのですが、恐らく映画は相当に撮(つま)んであるのでせう、それでも3時間、見終つてぐつたり、お付合ひで映画なんて見るもんぢやありませんね。第2部・第3部も製作され、3年がかりで完結する由ですが、多分、続編は見ないと思ひます。
 山尾悠子さんの情報によりますと、私の大好きなマーヴィン・ピークの『ゴーメン・ガースト』が英国で映像化され、インターネットではスチール写真も見ることが出来るさうで、ダウンロードしたものを送つて頂きました。(*徳間ジャパンからビデオが発売されるようです。)

★さやうならクロノス
 5月1日・2日は赤坂の渡邊一考さんのお店《ですぺら》の二周年といふので、2日の11時過ぎに出かけて飲んでゐると、四谷シモンさんが入つていらして、「須永さん、クロちやんが倒れて、意識不明の重態だつて。どうしよう」と仰つたので、気が動転いたしました。何分深夜の事ゆゑ、どう致しやうもなく、シモンさんは、迎へに見えたマネージャーの菅原さんとお帰りになり、私も3日の未明に帰宅したのですが、午前10時過ぎにジャズシンガーのKさんからお電話があり、午前8時過ぎに逝去なさつたと教へて頂きました。何でも、身体の不調を自覚して御自分で病院に赴き、診察を待つ間に倒れられたとか、蜘蛛膜下出血とうかがひました。要町のタックスノットのマスター、タックこと大塚隆史さん〔『二丁目からウロコ』の著者、オブジェ制作家〕が、病院で倒れた事を突き止めて、駆けつけられたさうですが、既に意識不明で、会話は出来なかつたやうです。
 通称クロちやんは新宿2丁目のバー《クロノス》のマスター、「優しく痛烈な毒舌」と「稀有の博識」が持ち味で、将に知る人ぞ知る2丁目の主のやうな存在でした。内外の映画・演劇に精通してらして、お客には男女を問はず文学・演劇関係の人が大勢みえました。初めて見(まみ)えたのは、彼がまだ《ぱる》といふお店に勤めてゐた頃で、私は22歳、以来三十数年に亙つて様々の事を教はり、また多くの人と知り合ふ契機を与へて頂きました。この15年ほど、殆どお酒を飲みに出歩かなくなり、従つてお店にもあまり伺ひませんでしたが、彼はほゞ毎月歌舞伎座に見えられたので、3箇月に1度くらゐ、昼の部が終る頃を見計らつて私が自転車で歌舞伎座の前まで出向き、近くの喫茶店などで30分ほどお喋りして過すのが習はしになつてゐました。今年になつてからは都合が掛け違つてお目にかゝれませんでしたが、『美少年日本史』の「銀幕のスター」の部分は打出し原稿を郵送して目を通して頂き、誤りを正して頂きました。その後、本を送付申し上げたあとにお電話があり、御感想など承つたのが最後となりました。親切だけれども、少しもベタベタとしない、さつぱりした気質の方でしたので、彼の死を悼む人は多からうと思ひます。
 「もしもの時は密葬に」といふ御遺言があつたさうで、葬儀は行はれず、7日午後1時、落合斎場までお別れに参りました。平日の午後、生憎の雨天でしたが、それでも高名な音楽家や詩人など50人以上の方々が参列され、皆さん涙ぐんでをられました。いづれ、〈偲ぶ会〉が催される事と思ひます。まだ61歳でいらしたのです、合掌。お店のはうは暫くの間、これまで手伝つてゐた方が続けるさうです。

★露台の植物続報
 今年は植物の成長が例年より2週間ほど早いやうです。天南星の類は大方4月中旬までには仏焔苞を広げてしまひました。多喜夫さんが接写レンズ附のカメラで撮影して下さいましたので、浦島草と西洋翁草のフォトをお目にかけます。浦島草は苞の形と言い、色合いと申し、天南星の女王、いやプリンスですね。腹草は少し時期が遅れたので写真が間に合ひませんので、また追加して御覧に供します。以上5月13日朝

浦島草  西洋翁草
浦島草              西洋翁草
★プラド美術館展
 5月14日、久しぶりの好天、昨日の寒さと打ち変り暑いくらゐの一日でした。前夜「スマ・スマ」を見ながら眠つてしまつた(料理の腕くらべは誰が勝つたのかなあ?)ので、午前5時過ぎ起床。この日は上野へ《プラド美術館展》を見にゆく約束があり、TVの天気予報を見たら、明日からまた天気が崩れるといふので、まづはお洗濯。水曜日までに送り返せと言はれてゐた《江戸の伝奇小説》第一巻の解題ゲラにもう一度目を通し、聖路加ガーデン郵便局へ。このゲラは昨日手渡されたばかりなのですよ。実は前日、『幻想文学』の川島徳絵さんが見えて、6月から刊行が始まる《江戸の伝奇小説》についてインタビューを取つて下さつたのですが、その第一巻『復讐奇談安積沼・桜姫全伝曙草紙』の初校ゲラが出たといふので、国書刊行会の礒崎偏執長もお出ましになりました。インタビューも済んで楽しく談笑(?)の最中、あとで偏執長に知れると恐いからと思つて「実は明日、上野へ《プラド美術館展》を見に行くんだけど……」と申しましたら、偏執長は既に御存じで、「吉村さん達と行くんでせう」と仰るではありませんか。ええッ何で知つてるの! 御自慢の情報網に掛かつたらしいのですが、やつぱり千里眼ですね、「あな恐ろし」と肝冷える思ひでした。その折、「解題」のゲラ〔これのみ初校〕だけは水曜必着で返送するやう釘を刺されたといふ次第であります。
 午後一時、上野の西洋美術館前で待ち合せ。《ですぺら》の森野薫子さんが一番乗りで、次に私、続いて吉村明彦さん〔フリー編集者、《倶楽部トランシルヴァニア》のお仲間〕、村上佳子さん〔郡司先生のお嬢さん〕、曽根睦子さん〔人形作家〕も到着、一同揃つたところで、いざ入場。平日としては結構混んでゐましたが、いつぞやの《チャルトリスキ・コレクション展》に比へれば、大した事はありません。私のお目当てはセバスチャン・デ・モーラ〔道化の肖像〕など4点のベラスケスで、初めて本物を見る事が出来ました。全77点の中には、ヴェネチア派〔ティツィアーノやティントレット〕やフランドル派〔ブリューゲルやルーベンスなど佳いものが沢山ありましたが、いちばん惹きつけられたのはフランシスコ・リシといふ未知の画家の『受胎告知』〔1665年頃〕ですね。一見美しい絵と映るのですが、子細に見ると、マリアの頭上に胎児らしきものが描かれ、また百合を携えた天使〔まことに優美〕の足許の雲(?)の中から幼児の首が二つ突き出てをり、実に不気味な絵であります。これからお出かけの方は、よく御覧になつて下さい。
 見終えたあと、東照宮の中を抜けて不忍池畔に下り、弁天様の辺りを散策、広小路の方へ。中央通りからちよつと入つた路地の〈はる乃〉で休憩。ここはお婆さんが二人で切り盛りしてゐる甘味喫茶、静かなので上野へ出かけた折には時々利用してゐます。たゞ、甘味が苦手な吉村さんには少々お気の毒でした。広小路には〈岡埜〉といふ老舗もあり、亡き郡司正勝先生と御一緒によく入りました〔先生は学生の頃から御利用とか〕が、こちらは表通りに面してゐるので、近年は客が立て込んでゐる事が多いやうです。私は、昔は甘味が苦手だつたのですが、この頃は和菓子ならば大抵のものは頂けるやうになりました。この日も、何とか蜜豆を注文、色の着いたものを先に食べてしまひ、「ああ、もう寒天ばつかりだ」と愚痴つたら、吉村さんに「子供みたいだ」と笑はれてしまひました。広小路からアメ横の辺りは、やはり独特の雰囲気で、ショーウィンドーに生きた縞蛇を展示してゐる昔ながらの蛇屋〔薬店〕が未だあるんですよ。4時過ぎ、中御徒町で解散。

★蝮草続報
 蝮草のフォトも出来ましたので御覧に入れます。これは私がバカチョンで撮りました。天南星の中では背高ノッポで、写真のものは70cmもあります。仏焔苞は緑に白の縞模様、これが普通だらうと思ひます。ところが、川島徳絵さんが山梨の御自宅附近にも生へてゐると仰つて、撮影してきて下さつたフォトを拝見すると、苞も大きめで濃い烏賊墨色〔セピア〕に白つぽい縞が奔つてゐるではありませんか。腹草は地域によつて固体差が出易いと申しますから、同一種には違ひないのでせうが、烏賊墨色の誘惑に甚だ弱い私は、フォトを見ただけで、欲しいと思ふ気持がむらむらと膨らむのを禁じえませんでした。川島さんが、折を見て採集して下さると仰いましたので、来年は我が露台で見る事が叶うかも知れません。今年は躑躅もよく咲きましたので、ついでにそのフォトも御覧に供します。
 それでは、また。天候不順の折柄、お大切にお過し下さい。 
                        5月20日
蝮草

つつじ