FILE01 『日影丈吉全集』完結記念
給仕少年(ギャルソン)の推賞献立(メニュー)(日影丈吉未刊短篇集成2『幻想器械』解説)
陰翳や黒衣夫人の香りを偲び
日夏耿之介とか日影丈吉といふ名前は、実に佳い名前である。人の姓名、とくに作家の名前などは、それが本名であれ筆名にせよ、作品の累積とともに成長して独自の風格を漂はせるやうになるのだらうが、私にとつて、日影さんの印象は、まづその筆名の文字面にまつはる陰翳の好もしさであつた。同時に音誦するときの爽やかさでもあつた。尾崎紅葉・幸田露伴から永井荷風・近松秋江、また北村透谷・馬場孤蝶から三富朽葉・有本芳水に至る、明治大正の小説家や詩人の号は別として、筆名を用ひることをよくするのは、江戸川乱歩以下の所謂探偵小説作家と、号の使用が習慣となつてゐる俳壇とに多いようである。探偵小説作家の場合、乱歩でも小栗虫太郎や夢野久作でも、今ではその筆名と作風が密着して不離の趣を呈してゐるが、彼らの出発した時代を考へても、その筆名は、私にはやはり聊か大仰な或は凝りすぎたものといふ感じがする。久生十蘭などは、凝つてゐるわりにはそれほどでもない。そして、わが日影丈吉は、文字を撰び音訓(よみ)を練つたに違ひないと想はせるものの、殆どそれを感じさせず、然も一度目にしたら記憶にくつきりと残るような佳い名前である。この好もしい名前を識つたのは十代の終りの頃であつたと記憶してゐる。最初の一冊は小説ではなく、翻訳書であつた。ガストン・ルルウ著『黒衣夫人の香り』。
この小文の冒頭に据ゑた一行は、俳句ではなく片歌[五五七律]のつもりである。何ゆゑかゝる腰折れをわざわざ飾つたかと申せば、『黒衣夫人の香り』を読んで甚(いた)く魅了され、以来ルルウの佳作と日影さんの名前が相添うて想ひ起されるならひとなり、その訳文の見事な措辞に惹かれて次々と日影さんの作品を読む契機となつたからである。斯様(かやう)な申し様は、小説作家としての日影さんに対して失礼に当るかも知れない。たゞ、森鴎外や日夏耿之介や堀口大學らの名を挙げるまでもなく、翻訳の名手は多く詩歌小説の達人であり、見事な日本語の書き手と申し得るのである。とくに、ミステリなどは粗雑なる翻訳が多すぎた事もあつて、日影さんの訳業が一際光つて映るのである。
『黒衣夫人の香り』のあと、ボアロー&ナルスジャックの『死者の中から』[ヒッチコック監督『めまひ』の原作]を読み、いよいよ名訳者日影丈吉に惹かれたが、訳書は少い。
私が読み得たのは、ルルウの『黄色い部屋』、シムノンの『娼婦の時』及び『メグレと老婦人』くらゐであつた。最近、レウヴァンの書簡体ミステリ『そそっかしい暗殺者』を訳されたが、これはさほど傑出した作品とも思へないのに、日影さんの訳文には原作の物足りなさを補はうとする工夫や苦心の跡が窺はれ、感服させられた[その後の訳書にボアロー&ナルスジャックの『ちゃっかり女』がある]。ミステリに限らず、たとへばアンリ・ド・レニエ、マルセル・シュオッブ、ピエール・ルイスなど今ではあまり顧みられる事の少い作家の小説も日影さんの訳で読んでみたいものである。
日影さんの小説を、私はさう沢山は読んでゐない。一つには、私が読み始めた1966年頃、既に日影さんの著作の多くは入手困難になつてゐたのである。古本屋巡りをしながら、これほどの名手の本が新刊屋で買へぬとは情ないことだ……と訝しく思ひもした。それでも『宝石』のバックナンバーで「枯野」と題する百枚くらゐの好短篇を読んだのを手始めに、処女作らしい「かむなぎうた」を読み、『真赤な子犬』『移行死体』『孤独の罠』などを読む事が出来た。これらの作品は、すべて私の期待を裏切らなかつたが、とりわけ私が〈玉蘭姉妹の庭〉と呼び慣はしてゐる長篇『内部の真実』に甚だしく感銘を受け、短篇集『恐怖博物誌』[1961年版]に深く魅了された。また、『九つの顔』『仮面紳士』に収められた《ハイカラ右京もの》の娯しさも忘れ難い[その後、松山俊太郎さんの編輯に成る『ハイカラ右京捕物暦』が刊行された]。『恐怖博物誌』収載の「猫の泉」などは、現代日本の最も傑れた短篇小説の一つと申し得るであらう。ものを書き始めてゐた私は、いつの日にか斯様な小説が書けるだらうかと杳(はるか)に想ひ、今も全く同じ心地である。日影さんは『真赤な子犬』に〈作者のことば〉として次のごとく書いてゐる。
手足をもがれて、よけいに狭苦しくなった国の現状では、石油くさい写実スリラーがはやるのは道理だが、そればかりになってしまってもつまらない。探偵小説本来の、やや空想的な面白みを、動機の探究だの、計算問題みたいなアリバイ探しだけに限ってしまうのは、味けなさすぎる。まこと、戦後このかたの探偵小説には、砂を噛むやうな味気なきものが多すぎる。その傾向は、近年いよいよ強まるばかりのやうに見えもする。探偵小説本来の娯しさと恐ろしさを逐ひかけた作家は、戦後に劃れば、日影さんと山田風太郎と都筑道夫と、あとは中井英夫のみであつた。開闢このかたを展望しても、乱歩・久作・虫太郎・十蘭、少し譲つて濱尾四郎・水谷準・渡邊温・城昌幸・橘外男・大坪砂男・香山滋などの一部の作品、そして日影さんと『虚無への供物』の中井英夫を挙げれば、この国のこの分野の小説は充分なのであり、更に文体の穿鑿に及ぶならば、久生・日影・中井の三人に絞られてしまふだらう。「虫太郎や久作は折紙つきの悪文家であり、叶ふならば書き直してやりたい」などと高言するむきまであるが、彼らの文体は見事なまでにその作風と相乗して一つのスタイルを確立してゐると申して差閊へなく、これを一概に論難するのは如何かと思ふ。
スタイリスト御三家のうち、十蘭や中井が彫心鏤骨風の華麗とも伊達とも評すべき名人芸を示してゐるのに比べて、日影さんの場合は同じ端正なる名人芸でも聊か風合を異にしてゐるやうである。たとへばそれは、標題のつけかたなどに端的に現れてゐる。十蘭は、『金狼』や『魔都』などゴシック風のものから始まって「野萩」「奥の海」「無惨やな」等々美食の果ての精進料理みたいな趣を呈してゐるし、中井も『虚無への供物』をはじめ『悪夢の骨牌』『真珠母の匣』『薔薇の獄』等々暗く華やかな題を撰んでゐる。比べて日影さんの場合は、例外もあるが、多く『女の家』『非常階段』『多角形』といつた具合で、装飾性の薄い素っ気ないとも言へる付け方である。この本の標題『幻想器械』にしても、情緒を排した乾いた命名であると思ふ。十蘭も中井も、文体そのものは一見淡々として冷やかではあるが、感性の鋭さや審美性の強さとでも申すべきものは行間字間にきらきらとして耀うてゐる。日影さんに在つては、文体はもとより感性や審美性にもフィルターがかけられてゐるかの如くであり、それは寧ろ故意に抑制してゐるやうにも見受けられる。
おそらくは博識多才の士に違ひない。伝聞によれば、名だたる料理研究家であり、和漢洋の伝説民俗などにも精通してゐる由ながら、日影さんの小説にそれは直接的に顕れてゐない。小説とは、もともと異常を語るものだと愚考するが、異常を捌くに当つて常ならぬ方法を用ひるには、よほど周到にかゝる必要があらう。衒学や修辞の暴走は、往々にして異常を異常たらしめずに終る。日影さんは、そのあたりの事情を夙に見抜いてゐて、息ざし低きとも申すべき緻密にして目立たぬ文体を用ひてゐるのではなからうか。虫太郎も久作も十蘭も、一読してそれと判る特異なる文体の持主であつたが、描き得る世界には、その文体に相応する限界があつた。日影さんにその憂はなく、小説の底辺が広くなつてゐる。これは、どちらがよいかなどと眦を攣りあげるやうな問題では更々なく、いづれに蹤くにせよ徹底が肝要といふ事であらう。
日影さんの文体は、階層・職業・性格・その他に亙つて相当に幅広く人間を描き分ける事が可能であり、また如何なる小説形態・方法をも受け容れる余地を持つてゐるやうに思ふ。文体自体は常に不変でありながら、小説の設定によつて様々に変化してゐるやうに読者には映り、一篇ごとに異なる効果を出してゐるのだと申してもよい。あの厭な〈思ひ入れ〉といふものが無いのである。
この『幻想器械』を対象にとつてみても、一篇一篇にそれとなく個別の趣向が凝らされてゐて、実に嬉しい。巻頭の「女優」は、一種の吸血鬼譚であらうが、主人公の女優がはたして本当に吸血鬼であつたのかどうか、そのあたりの処理に工夫が施され、この小説を真実味の濃いものにしてゐる。この短篇は、脚本家の一人称で書かれてゐる。その文体は、はじめ抵抗の少い常凡なるものと感じられるのに、読み進めるにつれて何やら耳許で囁かれてゐるやうな気分に誘ひ込まれてしまふ。一人称を採用した必然性を感じさせられるし、その効果も能く出てゐる。また抑へてゐても身についた教養は滲み出るものの如くで、この一篇を読んだだけでも、炯眼の士は日影さんの作品の背後に豊かな集積のある事を察知するに違ひない。それは「六段目の勘平のように浅黄色の紋服を着ていたようである」といつた表現のことで、この一節を十全に理解するには、浄瑠璃または歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は「与市兵衛住家勘平切腹の場」の舞台を一度でも見てゐなければ叶はぬ事であらう。ほかにも、劈頭に据ゑられた俳句「木蘭(もくらに)や日の出る前に普門品」の〈木蘭〉などといふ語彙も、さう簡単に使へるものではなからう。木蓮を木蘭と書くことさへ近頃は稀であるのに、それを〈もくらに〉と正しく訓ませる知識は一通りのものではあるまい。
「大統領の高級秘書」は集中でも随一の好短篇であるが、こゝでは、文体は小説の舞台となる阿仏利加(アフリカ)の高原を吹く風のやうに颯爽と乾いてゐる……と感じられる。強ひて言へば、グレアム・グリーンとかイーヴリン・ウォーの、あの感じに似てゐる。この小説には様々なる人種・人格が登場するのだが、彼らは抽象的な表現を一切避けて描き出される。苦行者あがりで国家の危難に遭うと山に籠つて苦行すればよいと思つてゐる無能ながらも国民の支へにはなる聖者めく大統領と、その秘書たる日本人の山野をめぐる人々が、この小説の中では、「現実に彼らはさういふ性格であり人物であるのだから仕方がないのだ……」といふ具合に、一種運命論風に描かれてゐて、実は随分と伝統的な小説の形態を採ってゐるのだと合点させられる。そこに、飄々たる味はひが生まれてくるのであらう。
「変身」はクリスマス・ストーリーである。降誕祭物語はチャールズ・ディケンズの『クリスマス・カロル』以来の英国の特異なる小説形式で、ウォルター・デ・ラ・メアやジェームズ・ジョイス、グレアム・グリーンなど、またミステリ作家でもアガサ・クリスティやジュリアン・シモンズをはじめ仏蘭西のシムノンあたりまで、多くの作家が試みてゐる。この形式には約束事があつて、必ず奇蹟が起ること、〈善〉が勝利を収める幸福な物語であること、要は読み了へて「メリー・クリスマス!」と言へるやうな、適度に他愛なく洒落た物語がよいとされる。日本では、加田伶太郎[福永武彦]に「サンタクロースの贈物」といふ佳篇がある以外は、稲垣足穂の作くらゐしか思ひ中(あた)らないが、基督教の根の無い日本では当然の事と申せよう。日影さんの「変身」は、日本人にとつての風俗的なクリスマスを能く視つめてゐる。奇蹟は起るが幸福なる物語とは言へぬところが面目で、辛口の好短篇となつてゐる。
「十三夜の鏡」は切れ味のよい推理物であるが、主人公の警察官がチェスタートンのブラウン神父の使つたトリックを利用してゐるところなど、甚だ心にくい。「彼岸まいり」は所謂SFといふことにならうが、月の墓地に屍体が生前の姿で安置される情景がたいさう美しく、レイ・ブラッドベリの傑作に比肩するやうな寂寥感とイロニーが看取される。終章が冴える「写真仲間」と、手応へ確かなる異国噺「崩壊」は最も私の好みに適ふ。
ともかく粗略な作品が一つとしてなく、吸血鬼譚からクリスマス・ストーリーまで、また純推理物からSFまで、多様なる味はひを供してくれるといふ点では、料理研究家の面目躍如と申せよう。敬服のほかはない。おしまひにもう一言、仏蘭西語に堪能な日影さんでありながら、何れの作にも翳り濃く稍(やゝ)暗い調子が認められ、伝統的な英国の小説の香りがするのは、まことに床しく興味深き事と思ふ。
[1974年11月初出、1980年5月『望幻鏡』に収録]