FILE08 高柳重信&中村苑子
るんば・たんば――高柳重信と舶來流行歌(『夢幻航海』第8號)
高柳さんに初めて見(まみ)えたのは、確か昭和44年の事だから、晩年の十數年しか知らないのだが、時々妙にお顔が見たくなつて代々木上原の坂を登つて會ひに行つた。千代田線が通じて、築地から行くのに便利になつたと思つた頃、荻窪に引越されたので、その後は多少訪ねる回數が減つた。
高柳さんは、いつもTVをつけたまゝ仕事をしてをられた。偶(たま)にはビールとかワインとか少々お飲みになる事もあつたが、大抵は私にだけウィスキーを勸めて、御自身は相變らず仕事を續け、煙草を吸ひ續けながら、ぽつりぽつりと話された。俳句の話も勿論なさつたが、時には私の知り合ひの歌人や詩人や評論家などが話題に上り、それはいつも私への質問の形で始まるのであつた。澁澤龍彦さんと種村季弘さんの文體の違ひを的確に論じられた事など、特に鮮明に記憶に殘つてゐる。
いつだつたか、もう記憶も定かではないのだが、例によつて上原のお宅の、あの大きな座卓を挾んで對座してゐた時、高柳重信の青春時代を僅かながら垣間見たと思つた事が一度だけある。
「須永君、音樂には詳しいの?」と訊ねられて、「えゝ多少は聽いてますが、どんな事でせう……」と應へはしたものゝ、突然の事ゆゑ、如何なる質問が發せられるのか、聊か不安に驅られた。單に「音樂」と言はれても甚だ漠然としてゐる。私は、バロック期の樂曲とか、オペラとか、シャンソンや中南米音樂とか、一部の古い流行歌とかには多少通じてゐたので、左樣な類の音樂に就いてなら答へられる自信はあつたが、あまり詳しくない分野の事でも聞かれたら、どうしようかと思つたのである。
御質問は「戰前の歌だけど、『上海リル』といふのを知つてる?」といふものであつた。内心ほつとして「えゝ、アメリカの歌でせう」と應へると、「ちよつと歌つてみてくれないか」と仰る。致し方なく「町といふ町から、丘といふ丘を、あちらもまたこちらも、探すは上海リル、懐しい町上海、想ひ出のリルよ……」と、ひどい節廻しで少し歌つた。「さうさう、その歌だ。でも歌詞がちよつと違ふやうな氣がする」と仰るので、また致し方なく「想ひ出を追ひつゝ、さまよひきたれど、歸らぬは優しき人、愛しの上海リル、忘れ得ぬ町上海、夢見しその頃……」と歌ふと、「それも違ふ、もつとほかの歌詞はないの?」と宣ふ。また「日は海に落ちて、町に夜が來れば、赤い口あだな姿、歌ふは上海リル、戀の町よ上海、流れ來るメロディ、高らかに口ずさめば心は弾む……」と覺つかぬ記憶を振り絞つて歌ふと、「あゝ、その歌だ」とお顔を綻ばせ、「時々節が浮かんで懐かしくてね、確かめたくてみんなに聞いたんだけど、誰に聞いても『上海歸りのリル』といふのしか知らないんだ」と仰った。
『上海リル』といふ歌は、1933年のハリウッド映畫『フットライト・パレード』の挿入歌で、ハリー・ウォーレンの作曲、主演のジェイムズ・ギャグニーが相手役のルビー・オーラーと掛合で歌つてゐる【この作品はDVDで見られます。人海戦術を駆使した驚異のミュージカル!】。日本では映畫とは無關係にこの曲がダンスホールなどで流行し、當時の常として翻譯盤、今で言ふカヴァー盤が各社競作で賣り出された。高柳さんが「懐かしい」と仰つた歌詞は松竹少女歌劇團のスター江戸川蘭子が吹き込んだものである。ついでに言へば、「町といふ町から……」は唄川幸子、「思ひ出を追ひつつ……」はディック・ミネのレコードの歌詞である。因みに渡久地政信作曲・津村謙唄の『上海歸りのリル』は昭和26年(1951)に大流行した、「本歌取」とでもいふべき歌謡曲である。
「ところで、戰後生まれの君が、どうしてこんな歌、知つてるの?」と、これは御尤もなる疑問である。どんな風に説明申し上げたかは覺えてゐないが、私は少年期の或る時から1920~40年頃の歐羅巴や中南米の流行歌、つまりタンゴやシャンソンなどを聽くと一種の〈デ・ジャ・ヴュ〉の如きに襲はれるやうになり、レコードなどを多少集めてゐたのであり、アメリカの歌ではあるが『上海リル』もそんな一曲だつたのである。
次に高柳さんは「それぢやあ『夢去りぬ』といふ歌も知つてる?」と訊ねられた。「英語の歌詞の方ですか?」と問ひ返すと、怪訝な顔をなさつて「日本の歌だよ」と仰る。致し方なく「夢いまだ醒めやらぬ、春の一夜(ひとよ)、君呼びてほほゑめば、血潮踊る、ああ若き日の夢、いま君にぞ通ふ……」といふ歌詞(奥山靉)を閊へながら歌ふと、「あゝ、それだ」と仰つて途中から一緒に口遊(くちずさ)まれた。
「でも、この歌詞は戰後に附けられたものですよ」と申し上げると、「いや、そんな筈はない。昭和15年の10月某日にダンスホールが一齊に閉鎖されたんだ。僕はダンスホールなんか行つた事はなかつたけど、何だか悲しくなつて、その日は友達と馴染みのミルクホールに出かけてね、その時、そのレコードがかゝつてゐたんだから、間違ひない」と言ひ張られる。「今宵限りのダンス・ホール、扉閉ざせば、明日しれぬ、いま風たちぬ、いざ征(ゆ)かん、あすは異邦のつむじ旋風(かぜ)……」云々といふ、あがた森魚の『最后のダンス・ステップ――昭和柔侠伝の唄』を髣髴とさせるお話で、私はそれ以上言ひ募る気持をなくしてしまつた。
『夢去りぬ』は確かに日本の流行歌ではあるが、昭和14年に發賣された最初のレコードは『Love's Gone=夢去りぬ』といふのであり、ラベルにも〈ハッター作曲/ヴィック・マックスウェル樂團演奏〉と刷られてをり、英語で歌はれてゐる。當時、『別れのブルース』や『湖畔の宿』など發表する曲が「退廢的で時局に合はぬ」といふ理由のもとに次々と發賣禁止にされた作曲家の服部良一(當時最もモダンな流行歌を作つてゐた)が〈盟邦獨逸(ドイツ)のタンゴ〉と偽装して出したレコードなのである(それにしても、獨逸のタンゴと稱しながら歌詞は英語、これでよく檢閲を通つたものだ)。日本語盤も同じ年に出てゐるが、歌詞が全く異なり、それは淡谷のり子の『鈴蘭物語』といふのである。
高柳さんが執着された歌詞のレコードは戰後の23年に霧島昇が吹き込んだものであつた。恐らく高柳さんの記憶が前後してゐたのであらうが、然し、その時は、「私が資料に據つて得た知識などは一片の價値すら無いのであり、高柳さんの記憶こそが眞實なのだ」と思ふしかなかつた。僭越ながら、この時、私は高柳重信の青春といふものの一端に觸れたやうな氣がしたのである。
その折か、また後日の事であつたか、これも判然としないが、『暗い日曜日』といふシャンソンも懐かしい――と洩らされた。「花を部屋に君を待てど、もはや我を尋ねまさず、たゞ一人むなしく待てり……といふのでせう?」と申し上げると、「この歌は僕の方が巧い」と自信ありげな御樣子である。「是非、伺ひたいものですね」と水を向けると、「たゞでは歌へない」と勿體をつけられる。「それぢや今度、『上海リル』とかお聽きになりたい曲をカセットに入れてお持ちしますから、その時にお願ひします」と言つて私は引き下がつた。
後日、まづ所藏する昭和10年代の舶來流行歌の音盤リストを郵送、聽きたい曲に印を附けて戻していたゞき、或る日の午後、テープを持參した。その時はもう荻窪に越してをられた。偶々お弟子の福田葉子さんがいらして、中村苑子さん共々お聽きになつた。淡谷のり子が例の歌詞で歌つてゐる『暗い日曜日』も勿論流れたが、高柳さんは「晝間から唄は歌へない」とか仰つて、結局、私は高柳重信の『暗い日曜日』を聽く事は叶はなかつた。
高柳重信が昭和10年代の所謂ハイカラな舶來流行歌に馴染んでゐたとしても、別に何の不思議もないが、それでは左樣な好尚が彼の句業に反映されてゐるのであらうか。『上海リル』や『夢去りぬ』の話題が持ち出された時、夙に私は、その痕跡をとゞめる作品を一句、想ひ起してゐた。
「ぽんぽんだりあ」は私などの少年時代には夏ともなれば到る處に見られた園藝植物であり、「ぱんぱんがある」は昭和20年代の都會の夜を彩つた女性たちである。「るんば・たんば」は即ち舶來流行歌の曲名だが、最近では知る人も少いだらう。三つの名詞=言葉の上には、明らかに或る一つの連想が觀ぜられ、この句を解くには當時の風俗に關する知識の援用が必要かと愚考する。『蕗子』集中のこの一句を採り上げて批評鑑賞した文章を寡聞にして知らないが、批評は兎も角も「るんば・たんば」に就いては、多分かゝる醉狂なる事は誰もなさらないと思ふので、聊かの註釋を施しておかう。ぽんぽんだりあ
ぱんぱんがある
るんば・たんば
『ルンバ・タンバ』は中米プエルト・リコの國民的作曲家と言はれてゐるラファエル・フェルナンデスが1936年に作詞作曲したルンバで、一名を『ルンバ・ネグラ(黒いルンバ)』ともいふ。はちきれんばかりの明るい旋律だが、原曲のスペイン語歌詞を見ると、黒人奴隷の悲惨な境遇を歌つたもので、タンバとは奴隷の名前なのである。レクォーナ・キューバン・ボーイズのレコードが世界的に有名で、日本でも戰前に發賣されてゐたが、この曲の日本初演は昭和13年(1938)7月の日劇のレヴュー公演であつた。當時中南米を周つて歸朝したばかりの音樂評論家高橋忠雄の構成になるレヴュー『南十字星』の中で淡谷のり子が歌ひ、同年の暮に彼女のレコードが發賣されて大いに流行したといふ。歌詞(高橋忠雄)は「青い空に輝く日よ、マラカスを打ち振り、歌はうよルンバ、やさし調べ心こめて、あの思ひ出のために歌はう……」と変じて原詞から遠く離れてゐる。馬鹿陽氣とでもいふべき明るい曲想なので、折からの暗い世相の下で受け容れられたのだらう。
高柳重信が聽いたのも、この淡谷のり子のレコードだつた筈で、多分「やぶれかぶれ」と申してもいゝやうな曲想と一風變つた曲名が強く印象に殘り、戰後の作品にあのやうな形で痕跡をとゞめたのではなからうか。因みに、戰前の舶來流行歌は戰後の一時期復活して暫く愛好されてもゐた。この曲も高柳さんのお耳に供したが、感想は聞き洩らした。
高柳さんの沒後、私は俳句の世界とは縁遠くなつた。今年(1989)は高柳さんの七回忌の由ながら、その間に、寺山修司さん、葛原妙子さん、澁澤龍彦さん……と敬愛する作家の逝去に遭ひ、何だか急に世の中が詰まらなくなつてしまつたやうな氣がしてならない。
(平成元年7月)
『水妖詞館』の頃――追悼・中村苑子
(『俳壇』2001年6月號)
二十代の後半から十數年間、時々代々木上原の坂を登って尊敬する高柳重信に會ひに行つた。後に荻窪に越されたが、そちらにも伺つた。高柳さんは大抵お仕事中で、私にだけ生(き)のウィスキーを勸め、苑子さんを交へて話をして下さつた。私はもう短歌をやめて散文専業になつてゐたが、私の提供した話題の中では、苑子さんは特に葛原妙子・森岡貞香・山中智惠子さんなど女流歌人の事に興味を示された。
當時、苑子さんは高柳さんの古いお弟子たちからは敬遠されてゐたらしいのだが、鈍感な私は一向に氣づかず、實際、お人柄に違和を覺えるやうな事も無かったのである。
俳人としては異色の經歴の方と拜され、そのせゐか處女句集の刊行は還暦を過ぎてからであつた。『水妖詞館』は、高柳さんと行を共にされて以降25年間の作品から嚴撰したといふだけあつて、秀句揃ひと見えた。難解無味の惡しき前衛風とは無縁で、強ひて申せば《正風連歌》の趣が濃厚だが、それを炯眼の加藤郁乎氏が「有心柿本衆ともいふべき典雅な作風」と的確に評されたので、太(いた)く感服した。
たゞ、象徴派末流の詩集みたいな標題には聊かたぢろがされ、また我が愛誦句が幾つか抜け落ちてゐる事に不滿を抱いた。俳句が大好きでいらした吉岡実さんも同樣の感を抱かれたやうで、間もなく吉岡・高柳兩氏によつて拾遺集『花狩』が編まれた。
『水妖詞館』は現代俳句女流賞を受けたが、御本人はさして嬉しさうな樣子とも拜されなかつた。その事に就いて、高柳さんから「讀賣文學賞ぢやないので、彼女は不滿なんだ」と聞かされ、初めて苑子さんの野心家たることを知つた。
高柳さんの沒後、世田谷の砧に移られたが、高柳さんに關する彼女の言動に聊かの不審を覺えてゐた私は、到頭お訪ねする事なく終つた。苑子さんは公称大正2年生まれで、高柳さんより10歳ほど年長でいらしたが、實は明治末年のお生まれであつたと福田葉子さんからうかゞひ、それにしてはお若かつたなと優しい氣持になれた。
「さしぐむや水かげろふに茜さし」「行く水の此處に始まる昔かな」その他の本格も結構なお作ながら、私などは「消えやすき少年少女影踏み合ふ」の懐かしさや「放蕩や水の上ゆく風の音」の無頼ぶりを得難いものとして諳んじてゐる。合掌。
(2001年6月)
【関連文章一覧】
★「わが盡忠は俳句かな――高柳重信寸描」1978年4月・毎日新聞社『昭和詩歌俳句史』/1982年6月・西澤書店『扇さばき』
★「形振(なりふり)かまふべし――《重信論》の方法二、三」1982年『俳句研究』3月號/1982年6月・西澤書店『扇さばき』
★「有心水妖集――『中村苑子句集』」1979年『俳句研究』8月號/1982年6月・西澤書店『扇さばき』