FILE01 『日影丈吉全集』完結記念
色のない絵具(徳間文庫版『応家の人々』解説)
「作家の分析は花火みたいに後が侘しいので、やらないことはないが、あまり好きではない」と、これは日影さんが澁澤龍彦氏について記した文章の一節である。この小文を書くにあたつて、私は日影さんの小説やエッセーを沢山読み返したのだが、その心弾む作業の途中で、この一節に出遭ひ、聊か出鼻を挫かれた恰好である。まあ私なども〈好き嫌ひ〉を明言すればそれでよいと考へてゐる人種だが、とくに好きな作家や作品に対しては幾許かを記してみたいと思ふ事はまゝある。
日影さんには、仏蘭西文学者にして傑れたエッセイストの澁澤龍彦氏や中国文学者の草森紳一氏や詩人の天沢退二郎氏など、筋金入りの読書人とでも形容したらいゝやうな御贔屓筋が存在する。近頃の中間小説誌に華々しく顔を並べて出来の悪いシナリオのト書みたいな文章を書いてゐる流行推理小説作家には望み得ぬ事だらうが、久生十蘭とか小栗虫太郎とか大坪砂男などといつた往年の探偵小説作家にはたいてい立派な読者が幾人もあつた、否、今もついてゐるのである。現存のこのジャンルの作家で左様な御贔屓筋を持つてゐるのは、日影丈吉と山田風太郎ぐらゐなものであらう。そして、詩人だの外国文学者だのといふ気難しい人たちから評価されるこのジャンルの作家は、往々にして〈異色作家〉とか〈幻視者〉とか〈稀代のスタイリスト〉などと称されるのであり、日影さんの場合も例外ではなく〈名人芸、ディレッタント、格調高い文体、ペダントリー、錬金術師、美と戦慄のメルヘン、夢魔の作家……〉等々の褒詞が捧げられてきたが、日影さん自身はこれらの評価をわりあひと醒めた面映ゆいやうな気持で受け取つてゐるのではなからうか。
確かに日影さんは博学であり、その作品は端正なスタイルに貫かれてゐる。少年時代から油絵を描き、後には川端画学校[日本画家川端龍子の塾]に学んだといふ体験と、散文の描写が的確な事とは因果関係がありさうだし、またお茶の水のアテネ・フランセに十年通ひ仏蘭西に三年留学したといふ経歴[仏蘭西留学を実証するものは皆無らしい]は後年の博学と容易に結びつくだらう。実際に、日影さんの小説には、ボードレールがさりげなく引用してあつたり、一般には耳馴れぬ仏蘭西の書物の名が出現したりするし、「まるでゲンズボロオの宮廷肖像画の、ニスの下からうかび出てきたような」といつた形容辞も見受けられる。『応家の人々』にもジェラール・ド・ネルヴァルが引用され、「ヴェラスケスの描いた皇女のような孫娘」といふ一節がある。しかし、私の見るところ、日影丈吉は、小栗虫太郎のやうな天を欺く体のペダンティストや久生十蘭のごとき何処から眺めても完璧なスタイリストとは明らかに別種の作家である。よしあしは措いて、モノマニアックなところが日影さんには無いのだ。適当な比較かどうか迷ふが、例へば虫太郎を泉鏡花だとすれば、日影さんは森鴎外か幸田露伴に近いといふ気がする。ついでながら彼らは悉く私の愛誦作家である。
日影さんは學藝書林版『恐怖博物誌』のあとがきに「これは雑誌社の依頼で、ばらばらに書いた作品の集成だから、発表年月など示すべきでもあろうが、記録魔といわれた江戸川乱歩さんなどと違い、そういうことにいっこう無頓着な私は資料になるノートなど何もとってない」と書いてゐるほどだから、気質なども恬淡とした方であらう。文章に関しては、首(はじめ)に引いた龍彦論の中に「新人作家などの中には、名文を書くマニュアルみたいなものがあると考えていて、何かいいレトリックの本はないか、という質問を受けたこともある。あいにく大工さんの雛型帳みたいなものはないのである。どうしたらいいか下手くそな文章家の私などにはわからない。せいぜい呼吸をととのえるぐらいしか私には方法がない」といふ謙辞めいた條(くだり)があるものの、一半は真実の披瀝と推量いたすとしても、半ばは煙幕ではないかとの疑ひも残る。
本音は案外と創作の中に吐露されてゐるのではあるまいかと思い、一人称の作品に当つてみたら、『内部の真実』に「夢想家のくせに異常なもののきらいな自分は……」といふ條があつて、日影さんの平衡感覚のよろしさを証し立てゝゐるかの如くである。更に「私にはときどき前後の連絡もなく、恐怖に似た違和の感覚に、ぞっとする癖がある。が、いつもたいがい、はっきりした理由を求めることはできない」(短篇「ねずみ」)や「そして、どうして私は人間の不思議さにこうも心を惹かれるのかと思うのであった」(短篇「焚火」)等を照応させれば、〈モノマニアックならざる幻視者にしてスタイリスト〉といふ日影丈吉の輪郭が朧げながらも顕ち来るやうに思はれる。日影丈吉は、同胞を過不足なく観察し、時には恐怖にも似た違和の感覚に導かれて、また多彩な手法を駆使し、息ざし低きとも申すべき抑制の利いた文体を以て、実に多様な世界を描いてみせる作家であり、その限りでは〈異色作家〉と呼ぶことにも結構であらう。しかし、私などには、例へば文芸雑誌の目次に円地文子さんや深沢七郎氏や野坂昭如氏らと共に名を列ねるのが適はしい作家と映る。
さて『応家の人々』は昭和36年5月に刊行され、日影さん曰く「ベスト・セラーになった」長篇で、御覧の通り、二重構造の入れ子話[正確には三重構造]になつてゐる。日影さんの作品が重層性を有する事は既に何度か指摘されてゐると思ふが、殊に一人称を採用した作品にそれが顕著である。回顧・追想・聞書(きゝがき)などの形を採つて二重となす外枠つきの小説が多く、処女作「かむなぎうた」以来、「鵺の来歴」「飾燈」「月夜蟹」等々、この手法に拠つた短篇の秀作は少なくない。〈郷愁漂う作風〉などとしばしば評される所以でもあらう。回顧と聞書を併せたものもあつて、「ふかい穴」「異邦の人」等が相当するが、「吉備津の釜」や「饅頭軍談」となると更に時制や主題が錯綜していよいよ巧緻な作品に仕上げられてゐる。長篇『内部の真実』のやうな形式上の二重構造もある。『応家の人々』は、序章こそ現在[この本が書かれた昭和35年頃]で、〈私〉が殺人事件に巻き込まれるのだが、第一章では忽ちフラッシュ・バック、舞台は昭和14年9月の台北となる。
日影さんは戦時を兵隊として台湾で過し[昭和16年応召、21年復員。小説「眠床鬼」に拠れば、台湾軍司令部所属の下士官で、編隊移動の先遣任務のため単独で行動し、殆ど全土に足跡を記したといふ]、職掌柄民間人とも交流したため深い印象と感慨を懐いたと思しく、華麗島[イラ・フォルモサ]とも呼ばれるこの島を舞台とする作品を沢山書いてゐる。長篇には『内部の真実』と『応家の人々』[日影さんには十数篇の長篇があり、みな趣向豊かな佳作揃いだが、殊にこの二篇は傑出してゐる]、短篇には『華麗島志奇』として纏められた六篇のほか、「ねずみ」「崩壊」「吸血鬼」等がある。悉く一人称の二重構造仕立であり、愛着の深い素材である事が窺はれる。
『内部の真実』をはじめ殆どの作品が戦時中の日本兵と台湾民間人[二通りあつて、一は内地人と称される日本人、一は本島人と呼ばれる嘗て大陸から移つてきた人々の子孫]とのかゝはりを扱つてゐるが、『応家の人々』は例外で、昭和14年すなはち戦前の話である。しかし、台湾は日清戦争以後日本の植民地であつたから、支配階級が日本人である事には変りがなく、これは推理小説の伏線といふより、この小説の〈前提〉なのだ。昭和14年の物語は台北に始まり、事件は台南近郊の大耳降街から更に南部の高雄州を舞台として、応氏珊希といふ美貌の未亡人を軸に展開してゆくが、こゝで私が筋を追ふ必要はないだらう。
第一級の恋愛小説と申したいやうな『内部の真実』が読後にもたらしてくれる一種の浄化作用を伴つた感銘のごときものは『応家の人々』には薄いが、代りに類の無い大仕掛が施されてゐて愉しめる。たゞ、犯罪及び犯人の背後に蠢く〈もの〉については、往時の台湾を知る人も知らぬ人も等しく敬虔に想ひを廻(めぐ)らせ、作者がミステリといふ遊戯の形式に籠めた創作意図を確(しか)と受けとめるべきかと愚考する。
『内部の真実』や『応家の人々』のいま一つの魅力は、独特の異国情緒(エキゾティシズム)を醸し出してゐる事だらう。白蘭姉妹も烏衣夫人(ダムアンノワール)もその真央(まなか)に荘厳されてゐる。私は佐藤春夫の『女誡扇綺譚』を読んだ折に味はつた美的至福感を想ひ起す。春夫は「小説とは根も葉もある嘘八百だ」とか「文学の極意は怪談にある」とかの名言を吐いたが、これはそのまゝ日影さんの小説のよろしさを言い中(あ)てゝゐるかの如くである。
最後になつたが、『応家の人々』の目次は12色揃の絵具を連想させる。橙や茶などの中間色が無い代りに金銀があり、更に色の無いチューブが一本ある。日影さんは、たぶん、この色の無い絵具を仕上げに用ひて絶妙なる小説を為(つく)るのであらう。
[1982年8月初出]