須永朝彦バックナンバー

須永朝彦を偲んで

■著作撰(書影集)
■入手可能著書一覧

須永朝彦バックナンバー

1・日影丈吉
◆給仕少年の推奨献立
◆色のない絵具
◆さまよへる悪霊、或は屈託多き女
◆日影さんのこと

2・井上保&森茉莉
◆殉情は流るゝ清水のごとく
◆Anders als die Anderen
◆『マドモアゼル ルウルウ』奇談

3・泉鏡花
◆魔界の哀愁

4・堀口大學
◆堀口先生のこと

5・足穂&乱歩
◆天狗、少年ほか

6・郡司正勝
◆郡司先生の憂鬱ほか

7・菊地秀行&小泉喜美子
◆美貌の都・月影に咲く蘭の花

8・高柳重信&中村苑子
◆るんば・たんば・『水妖詞館』の頃

9・バレエ
◆アンドロギュヌスの魅惑

10・ディートリッヒ
◆蛾眉

11・内田百間
◆片づかない氣持がする

12・和歌・短歌
◆戀の歌とジェンダー

明石町便り

明石町便り1
明石町便り2
明石町便り3
明石町便り4
明石町便り5
明石町便り6
明石町便り7
明石町便り8
番外篇
明石町便り9
明石町便り10
明石町便り11
明石町便り12
明石町便り13
明石町便り14
明石町便り15
明石町便り16
明石町便り17
明石町便り18
明石町便り18・續
明石町便り18・續々
明石町便り19
明石町便り19・續
明石町便り20
明石町便り21
明石町便り22

FILE06  郡 司 正 勝

  『郡司正勝刪定集』編集縁起――表裏
(『郡司正勝刪定集』月報)

著作集を出すことになつたので手伝つてほしい――と郡司先生から言はれたのは、1988年の初夏の事である。過去に先生の御本の編集を二度ほど手伝つた事があるので、買ひ被られたのだらう。お弟子の方々は皆さん忙しい由なので、ともかくもお引き受けした。
かぶき・舞踊・民俗芸能・文学……といふやうな巻立は、既に腹案とした持つてをられたが、巻数に限りのあることゆゑ、収録するものの取捨が急務であつた。折から自分の著作が二冊進行中で忙(せは)しなかつたものゝ、「演劇学」25号所載の先生の著作目録(かなり不備がある)を基に、全著作を分野別に分類する作業に取りかゝり、この基礎資料は11月末に出来上がつた。89年6月には白水社の担当編集者に会つて巻立を決め、編集作業を開始。無論、大概は先生御自身が「刪定」されたが、幾許かの意見を和田修さんと私とが具申して取捨を決めた事もある。先生は〈劇評〉を輯める巻も考へてをられたが、書肆側が江戸色の濃い巻を望んだので、私が試案を作り、それを基にして第5巻が成つた。先生から各巻のタイトルを見せらた時には、その感覚の若々しさに唖然とさせられた。
編集に際して、書肆から一定の表記統一の提案があつたが、画一的な統一は著者の好むところではなく、また却つて読みにくさを招く事さへあるので、場合によつて処理する事とした。送り仮名は概ね現今のそれに拠り、特殊なものは旧来の慣用に従つた。作品名の括りは、芸能は「 」、文学や単行本は『 』としたが、例外もある。全編に著者の加筆が施されてゐるが、編集者としては、同一巻内に重複箇所がないやうに意を用ひた。引用文のうち、演劇関係書及び大方の古典に就いては、和田さんが改めて原典に当つて下さつたが、如何に面倒な作業であつたか、その労が思ひ遣られる。
先生の文体が独自であるのは隠れもない事ながら、独特に過ぎて読者に通じ難いと思はれるやうな箇所に就いては、助詞の措辞などに御一考を願つた。校正は、著者・和田・須永がそれぞれ個別に行ひ、先生と和田さんとで付き合せたものを私の分と校合し、三校まで閲した。この種の作業は、一(いつ)に効率のよいシステムの確立にかゝつてゐるが、何事にも束縛を嫌ふ先生が左様なものに馴染まれる筈もなく、最後まで臨機応変で対応するほかはなかつた。申し上げにくい事も、つまりは先生のお為と考へて口にしたから、時には私のことを憎らしく思はれたに違ひない。
先生は「三日も家にゐると息が詰まる」と宣ひ、国内旅行はもとより外国にも気軽に出立なさる。旅行嫌ひの私は羨ましいとは思はないけれども、先生の他出はしばしば刪定集の仕事に優先した。聊か憮然たる心地でゐると、「いろいろ御無理をお願ひして傷ついてゐます」などと記されたお葉書が中国から届いたりするので、怒る訳にもまゐらない。徳を具へてをられるといふか、得な御性格と申すべきか。私は「唐土(もろこし)得兵衛の唄」などといふ戯唄(ざれうた)を作つて秘かに溜飲を下げ、結局は、先生が息災で在られることに心を安んじるのである。
平成4年3月『郡司正勝刪定集』月報第6号


郡司先生の憂鬱
(『演劇学』郡司正勝先生追悼号)

中年までの郡司先生は御病気がちに過された由ながら、私の知る五十代半ば以降の先生は行動派で、「三日も家に閉ぢ籠つてゐると息が詰まる」と口にされ、旅行や他出を好まれた。劇場や会合の梯子もちよくちよくなさつたが、移動の間に空き時間が生ずると、電話にて私の在宅を確かめられた上で立ち寄られた。予告なしに訪ねて来られる事もあり、「留守だつたら無駄足でせう」と申し上げると、「手帳を忘れたもんだから」と仰有つて澄ましてをられた。築地明石町の私の住居は、先生の休憩所として聊かのお役に立つたやうである。
逝去されて半年餘も経つのに、今でも、執筆に倦んで茫としてゐる午下がりなど、今日あたり先生が寄られるかも知れないと、ふと思つてしまふ事があり、その時ばかりは私も気が滅入る。明石町に住んで二十年、先生に拝眉したのは、それより七年以前の事であるから[その間(かん)も先生は音羽、私は江戸川橋に住み、御近所で往来が容易だつた]、世間の狭い私としては、実に長きに亙つて御厚誼を賜はつたものと、やはり感慨が深い。
私のやうな半端者の何処に興味を持たれたのか、お訊ねした事もなかつたが、私の定本歌集の栞に書いて下さつた御文章の中に「わたしが彼に会いたくなるときは、心の不安定なときとか、逆に豊かな気持のときとか、そのときどきで違うが、大体、断られたことがない」といふ一節があり、どうやら尋常なる御気分の時には会ふ気にはなられなかつた如くで、或はトランキライザーのやうな役割を宛行(あてが)はれてゐたのかとも推量したのであつた。
展覧会、映画館、お花見、庭園、酒場、近場の古跡……等々、随分あちこちと御一緒したが、大抵は先生からのお誘ひだつた。一人でお供する事もあつたものゝ、私の友人たちが一緒の事も多く、また私に友人たちを集めさせて小宴会を催される事も度々に及んだ。
長い間には顔触れも多少変つたが、私が紹介した友人のうち、最も先生のお気に召されたのはグラフィックデザイナーの石黒紀夫さんで、「石黒さんなら甘えられるから」と仰有つて、創作舞踊公演の舞台美術や刪定集の装幀など次々に依頼された。
先生は座談の名手で冴えた洒落を飛ばされたから、先生との同座を私たちは大いに楽しんだが、今にして思へば、かういふお誘ひを下さつた時は、御気分が尋常ではなかつたのかも知れない。それが「心の不安定なとき」であつたか「豊かなとき」であつたかは知る由もないが、「心の不安定」を露(あら)はにされた事が無かつた訳ではない。
稀に、深夜、先生から「気が滅入つて眠れないもんだから……」といふお電話がかゝる事があつた。これは偶々(たまたま)私が深夜まで起きてゐる人間だつたからで、相手は誰でもよかつたのだらうと思ふ。先生が「それでは」と仰有るまで雑談の相手を勤めるより他に致し様もなかつたが、果たして先生のお気が霽(は)れたかどうか、甚だ心許なかつた。
もとより窺ひ知れぬ事ではあるが、先生の御心の奥底には何か宥めかねるものが蟠踞してゐて、時にそれが頭(かうべ)を擡げて先生を憂鬱にせしむるかの如く拝察された。それに当て嵌るものとして、修羅とか虚無、或は原罪意識に近似したもの、無常観の如きものなど、種々の辞や概念を想起してみるものゝ、言ひ中(あ)てたといふ気はしない。御専門の論考は措いて、随筆の類には先生の憂鬱の核のやうなものが仄見える事があつた。
俳句には一層その影の揺曳が露はであり、また『かぶき夢幻』収載の「宙ぶらりん」と題する詩の最後の二行は、

夜はちっとも

明けはしないじゃないか

といふのであり、更に凄絶である。
御逝去の後、御長女の宮坂桂子さんが見せて下さつた先生の御遺稿の中に『迷語録』と題を附した二冊の小さなノートがある。卓見に満ちた箴言風の短章が率直に時には辛辣に記されてゐる稀有の冊子である。他者の閲読を許さぬメモとも、或は後に見るであらう人への戒めとも推量し得るが、これは紛れもなく先生の憂鬱の所産と拝され、多くは深更に記されたものゝやうである。
この数年、深夜にお電話を頂く事が無くなつたが、眠られぬ夜々、先生はこの冊子を書き継いでをられたのであらう。結局、私などにはトランキライザーの役目は荷が勝ちすぎて勤まらなかつたのである。
1999年3月・早稲田大学演劇学会『演劇学』郡司正勝先生追悼号


郡司先生――わが交遊(一)
(2000年4月7日「読書人」)

大学にも行かず、二十代早々にものを書き始めたせゐか、同世代の友人が少なく、若い頃は年長の方との交はりが主であつた。既に故人となられたが、歌人の葛原妙子さん、詩人の吉岡実さん、俳人の高柳重信さん、古典演劇学者の郡司正勝先生など傑れた先達に親しく接し得たのは半生の幸ひであつたと顧みられ、殊に若き日の私が身を置き始めた詩歌や小説の分野とは聊か離れた世界にをられた郡司先生との邂逅は僥倖と申すほかはない。
1971年の或る夜、新宿のさる酒場で、先生は私の隣に席を占められた。お店の人が知り合ひだと早合点して隣席に案内したのであつた。初対面と知つて改めて紹介してくれたが、名を聞いても先生には私が何者かお判りにならなかつたらう。私の方は、むろん存じ上げてゐた。
先生は、過去に類を見ぬ体の画期的なる歌舞伎や舞踊に関する著作を何冊も出してをられたし、また国立劇場に於て鶴屋南北の『櫻姫東文章』復活上演の補綴・演出も手がけてをられた。私は未だ最初の著作『鉄幹と晶子』を出したばかりだつた。
翌年、先生は文京区の音羽へ、私は江戸川橋へ転居、御近所ゆゑしばしばお目にかゝるやうになつた。私のやうな者の何処がお気に召したのか、知る由もないが、先生は実に好奇心の旺盛なる方で、御専門の分野を超えて様々な事に興味を示されたから、多分、私のやうな者をも珍しく思し召したのであらう。
1998年に逝かれるまで、27年の長きに亙つて交際して頂いたが、その間(かん)、美術展(巧みに絵筆を執られた)・お花見・映画・古跡巡りなどにお供したほか、私に友人達を集めさせて宴会を催す事も度々に及んだ。中でも忘れ難いのは、二度に亙つて歌仙を巻いた事である。
中年まで御病気がちに過された由にて、外出や賑やかな事がお好きだつたが、反面、底(そこひ)の知れぬ憂鬱の核のやうなものも抱いてをられたかの如くお見受けした。洒落や冗談がお得意で、上等の皮肉もちよくちよく仰有つたが、時に口が過ぎたとお気づきになると、甚(いた)く傷つかれるのであつた。
最晩年は癌と闘ひながら御自作『歩く』の海外公演に同行され、執筆活動も御逝去直前まで続けられた。歌舞伎や錦絵の見方をはじめ、多くの事を教へて頂きながら、あまり御恩に報いる事もしてゐないが、和田修さん(現在、早稲田大学助教授)と二人で『郡司正勝刪定集』全6巻の編輯を完遂した事が聊かの御恩返しになつたらうかと自らを慰めてゐる。
 2000年4月7日「読書人」第2330号「わが交遊 須永朝彦の巻1」

【郡司先生関連文章一覧】
★「編集後記」1975年1月・西澤書店*郡司正勝『古典芸能 鉛と水銀』
★対談「幻妖歌舞伎評判」1986年2月「幻想文学」15号/1990年・新書館『歌舞伎ワンダーランド』
★インタビュー「ふたなりひらの系譜――歌舞伎のアンドロギュヌスたち」1991年2月『幻想文学』31号
★「郡司正勝先生の事――追悼」1998年9月『幻想文学』53号