須永朝彦バックナンバー

須永朝彦を偲んで

■著作撰(書影集)
■入手可能著書一覧

須永朝彦バックナンバー

1・日影丈吉
◆給仕少年の推奨献立
◆色のない絵具
◆さまよへる悪霊、或は屈託多き女
◆日影さんのこと

2・井上保&森茉莉
◆殉情は流るゝ清水のごとく
◆Anders als die Anderen
◆『マドモアゼル ルウルウ』奇談

3・泉鏡花
◆魔界の哀愁

4・堀口大學
◆堀口先生のこと

5・足穂&乱歩
◆天狗、少年ほか

6・郡司正勝
◆郡司先生の憂鬱ほか

7・菊地秀行&小泉喜美子
◆美貌の都・月影に咲く蘭の花

8・高柳重信&中村苑子
◆るんば・たんば・『水妖詞館』の頃

9・バレエ
◆アンドロギュヌスの魅惑

10・ディートリッヒ
◆蛾眉

11・内田百間
◆片づかない氣持がする

12・和歌・短歌
◆戀の歌とジェンダー

明石町便り

明石町便り1
明石町便り2
明石町便り3
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番外篇
明石町便り9
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明石町便り15
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明石町便り17
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明石町便り18・續
明石町便り18・續々
明石町便り19
明石町便り19・續
明石町便り20
明石町便り21
明石町便り22

FILE04  堀 口 大 學

  堀口大學先生のこと
(『をがたま』2巻3號)

 堀口大學先生が逝かれて、早や一年余が過ぎた。周知のごとく、昨年(1981年)3月15日、89歳の高齢を以て他界されたのであるが、その日、私は郡司正勝先生のお招きに与つて歌舞伎座の夜の部(郡司先生の補綴・演出による大南北の『櫻姫東文章』の通し上演)を拝見し、帰宅後テレヴィジョンのニュースで堀口先生の御逝去を知つた――と思ひ出される。翌朝、新聞各紙は「詩に近代の息吹」とか「日本の詩に新しい命」とか「幸せな詩人安らかに」とかの見出しを掲げて訃報を載せた。
行きて待てシャム兄弟の片われはしばし地上の業(ごふ)はたし行く
  これは佐藤春夫の葬儀に際して堀口先生が詠まれた献歌五首の内の一首である。堀口大學と佐藤春夫は同年齢、同じ頃に新詩社に入門し與謝野夫妻によつて引會はせられて以来、固い友情の絆に結ばれてゐた事はよく知られてゐる。春夫は我が十代の日の愛誦作家であり、與謝野寛・晶子もまた同様であつたから、間もなく堀口大學の著作にも親しむやうになつた。むろん詩集も讀んだが、堀口大學は私にとつてまづ何よりも「佛蘭西文學の素晴らしき學校」であつた。66家340篇を収める譯詩集『月下の一群』をはじめ『コクトオ詩集』『ヴェルレーヌ詩集』『アポリネール詩集』『グウルモン詩集』等々、またレニエ、モーラン、メーテルリンク、ラディゲ、ジイド、モンテルラン、コクトー、シュペルヴィエル、メリメ、ジュネ、ケッセル……などの小説や戯曲を次々に讀んだのだが、悉く上等なる日本語に移されてゐると思つた。たとへばヴェルレーヌの「傀儡」といふ3行4聯の詩篇の最終聯は、   

仇し男はスペイン生れ

賊かせぎたれゆゑに

やぁさ、月が鳴いたかほととぎす

 といふ具合で、その他ヴァレリーの「失はれた美酒」、レニエの「思ひ出」、ジュール・ロマンの「戀はパリの色」、マリー・ローランサンの「馬」、ノワイユ夫人の「幻影」など瞠目の譯詩は枚挙の暇も無い。散文でもポール・モーランの『夜ひらく』『夜とざす』、ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏會』、シュペルヴィエルの『ノアの方舟』をはじめ名譯と謳はれるものは數多いが、ジャン・ジュネの『花のノートルダム』には次のやうな條(くだり)がある。   

彼女たちの一人は、大通りで警部から、

――名前は?」と尋問されて、

――わたし、もののあはれよ」

 因みに「彼女たち」とはモンマルトルに屯(たむろ)する男娼(タント)である。唯今原文を提示する用意が無いが、斯様な翻譯をこそ名譯と申すのであらう。詩人で佛文學者の窪田般彌氏に伺つたところ、堀口先生の譯は大胆不敵のごとく見えて實は正確この上もないといふ。
 堀口大學は晩年には汎詩壇的大詩人のやうに遇されてゐたが、翻譯家としての名聲は別として、不當に永いこと「傍流の人」と扱はれてきた観がある。彼は明治末年から大正末年まで外交官の父に従つて中南米や欧州を転々とし、大正7年より譯詩集『昨日の花』、詩集『月光とピエロ』、歌集『パンの笛』、譯詩集『失はれた寶石』、詩集『水の面に書きて』等を矢繼早に刊行したものの、同時代の詩人日夏耿之介の文章によれば、これらの集は全て自費出版であり、永井荷風や與謝野寛の序文つきにも関はらず、さほど賣れなかつたといふ。
 この時代は所謂(いはゆる)民衆詩派の最盛期に當たり、新詩社末流の歌や高踏詩派(パルナシャン)風の詩は黙殺されたとも推量されるが、大正14年刊行の『月下の一群』によつて文名を得た後も彼の詩はやはり時流に乗らず、詩人自ら、   

私の詩(うた)の中に真実がないといふので

人たちは私の詩を好まない

私の詩は私の夢なのだが

そして夢ばかりが私の真実なのだが……
 と歌つてゐるほどである。堀口大學の文學の母胎は、新詩社に於ける短期間のお手習ひと『スバル』や『三田文學』の雰囲氣と、あとは海外生活の間に耽讀した佛蘭西の詩文、それもスタンダールやユゴーやバルザックではなくコクトーやアポリネールであり、その作風は世に「機智(エスプリ)に富みエロスの影が濃い」と評される類のものである。惟(おも)ふに、重く暗いもの・悲壮的詠嘆的なものに惹かれやすい日本人の好みとは対蹠をなす詩風が敬遠されたのであらう。著作の標題に表徴される《寂しき幸福》のごときが彼の本領であつた。
 堀口大學は文語も口語も能くした。それは新體詩風の文語とも民衆詩派の口語とも岐れる處があり、文語は散文的で口語は古典的である。
  

私の耳は貝の殻

海の響をなつかしむ
  といふコクトーの「耳」でも、     

日も暮れよ 鐘も鳴れ

月日は流れ わたしは殘る
 といふアポリネールの「ミラボー橋」のルフランでも、古来の七五律が巧みに活かされてゐる。堀口大學への讃辭としては、「エスプリとエロス」といふ定説もさる事ながら、嘗て澁澤龍彦氏が用ひた「その本質にある獨特のギャラントリ、エレガンス」といふ形容が更に的確かと思ふ。申すまでもなく、一流のスタイリストといふことである。
 堀口先生も永い道程の途次には、信頼を寄せた先輩親友(水上瀧太郎と日夏耿之介)に背かれたり、アカデミズムからの中傷(先生の譯著が一般に歓迎されたので、東大佛文科などでは「堀口幼稚園」などと酷評した)を受けたりして、口惜しい思ひも味はゝれたらしいが、託言(かごと)も反論もなさらなかつた。 
 追々にその業績も正當なる評価を受けて詩風も理解されるに至り、なほ『人間の歌』『海軟風』『夕の虹』『月かげの虹』『消えがての虹』と集を重ねられたのは寔にめでたい。新感覚派の作家や『パンテオン』『オルフェン』等の詩人たちや中原中也や三好達治などへの影響は度々指摘されてきたが、佐藤春夫の詩集『魔女』や短篇『F・O・U』なども堀口大學の存在無くしては生まれなかつたらうと思はれる。
 私事に亙るが、堀口先生とは寔に僅かながら御縁があつた。廿歳の時、私は拙い小さな歌集を作つたが、十代の頃より御著作を愛讀してきたといふ勝手なる親近感と、新詩社の詩歌に遙かにでも繋がりたいと思ふ不遜な志とから、件の一書を先生に送附申し上げたところ、思ひがけず御懇切なる返書を頂戴した。次いで廿四歳の時に書いた最初の本『鉄幹と晶子』を献呈した折は、「草葉のかげの両先生も首肯なさつてをられませう」云々といふ過分な褒詞を賜はり、恐縮かつは感激した。お手紙には必ず「与門大學老詩生」といふ御署名があり、これは「与謝野夫妻」のお弟子である事の誇りと拝察された。或る折には
「古稀すぎて師恩いよいよ有難く与門の二字を名の上に署す」とも拝見されたが、私は暫くの間これが短歌であることに氣づかなかつた。先生には歌集として『パンの笛』『男ごころ』があり、この二集以後も余技と断りつゝ晩年まで歌を詠まれた。歌数は千首を越えるものの、管見では文字通りの余技と申し上げるの他はない。
 何かの折に返書を頂戴いたすのみにて、堀口先生に拝眉する機會も無かつたが、葛原妙子さんの御好意により先生の文化勲章受章の會に出席が叶ひ、一度だけお目にかゝる事が出来た。會場では葛原夫人とは別の卓に案内されて不安を覚えたが、幸ひ左隣には面識のある大手拓次研究の権威原子朗氏、右隣には嘗て文化學院に於て與謝野夫妻の教へを受けられたといふ戸川エマさんがそれぞれ席を占められたので、どうやら心細い思ひをせずに済んだ。戸川さんは、晶子の印象や佐藤春夫の小説「小妖精傳」のモデルの事などを話して下さつた。
 参會者頗る多く、堀口先生にはお別れ際に短い挨拶を申し上げたのみであつたが、私には明星派の昔を想像し且つ偲ぶのにまたとなき一夕となり、葛原夫人に心底より感謝したのであつた。私は先頃何冊目かの散文集に『扇さばき』なる標題を冠し、堀口先生との御縁のさゝやかな記念とした。  

かるたあそびか?

扇さばきか?

とかく女は狡(ずる)をする。
 といふ先生の譯になるコクトーの詩篇を引用した小文が収められてゐる事に由る。
[1982年8月『をがたま』2巻3號(葛原妙子主宰歌誌)]

堀口大学筆

★1982年6月刊行の『扇さばき』(西澤書店)の「後記」にも堀口先生に就いての記述があります。