FILE01 『日影丈吉全集』完結記念
日影さんのこと――〈追悼〉(『幻想文学』)
彼岸のお中日のこと、昨年(1990年)の九月に急逝した友人の霊前に香を手向けて帰宅すると、白水社の編集者からの電話で、日影さんの訃報を聞いた。御高齢ながら、去年は『泥汽車』で泉鏡花賞を受けられ、その後も長篇を御執筆中と仄聞してゐたので、未だまだお元気で活躍されるものと漠然と考へてゐた私としては、驚きもしたし、惜念も覚えはしたものの、長い闘病の日々を過されたわけではないと聞き、僅かに心を安んじる事ができた。
御存じのやうに、日影さんのデビュー作は「かむなぎうた」である。昭和戦前の作ながら発表は戦後の24年であり、既に不惑を越えてをられた。それまでに、美術・文学・宗教・料理など多岐に亙る志向を顕はし、実体験としても仏蘭西留学(*)から兵役まで、ちょっと普通の人とは異なる道を歩まれた模様で、而して独特の人格が形成されたかの如くお見受けした。結果として多作家ではなかつたと申し得るが、最も精力的に執筆されたのは昭和30年代、五十歳前後で、40年代になると漸次作品発表が減少し、僅か一作といふ年もある。しかし、40年代半ばには、小栗虫太郎・久生十蘭・夢野久作など一時期忘れられたかにみえた作家達が再評価され、それは橘外男・大坪砂男・香山滋らの上にも及び、49年に日影さんの未刊短篇の集成や傑作短篇集の復刊がなされたのも、この潮流と関はりがあつたと思はれる。その後は再び執筆の機会が増え、長篇も四篇を数へる。
日影さんは、どうやら寔(まこと)に恬淡とした性格であつたらしく、求められゝば書き、さなくば夫(それ)はそれとしてひもじいとも感じずに過すことが出来た、作家としては稀有な方だつたのであらう。40年代に作品が少いのは、単に依頼者が減つただけのことで、気鋭の編集者が在つて稿を請ひさへすれば、何時(いつ)でも書かれたに違ひないのである。
誘つてくれる人があり、昭和50年の或る日、新宿中村屋の喫茶室で私は日影さんに拝眉した。前年に刊行が開始された牧神社版《日影丈吉未刊短篇集成》の一冊に解説を書いてゐたので、お目にかゝらうといふ気持になつたのだと顧みられる。日影さんは、目立ちはしないが上等の仕立の服を召され、あまり通りのよくない声でもぞもぞとお喋りになり、周りの人声に掻き消されて半分くらゐしか聞き取れない。どんな話をうかゞつたのか、殆ど記憶が無いのだが、作家仲間でいちばん親しいのは島田一男氏だと仰有つたので、意外の感を覚えた。勝手に献呈郵送申し上げた私の創作集に目を通してゐて下さつたのは望外の喜びで、「乱歩さんが御存命で、読んで貰へたらよかつたのに」などと言はれた時には、嬉しいより背筋がひやりとした。最後に御著書[7冊か8冊ほど]に署名をお願ひしたら、初めのうちは「これは二度目の版だね、『真赤な子犬』は実は……」などと創作動機に類するやうな事を話して下さりながら丁寧に署名して下さつたが、3冊めあたりから文字が〈ぞんざい〉になり、「日」と「影」の左上の「日」とを兼ねさせて「影丈吉」となつた。あゝお厭なんだなあ……と申訳なく思つたが、作家としては珍しいタイプの方だと感服もした。我が身に照らしても、だいたい作家などと申すものは、自著に署名を求められゝば内心嬉しい筈なのだ。それが、こんな事をさせられてはたまらん……、心底さう思つてをられるのがそのまゝ表情に現れ、その駄々児めいた御様子が頗る印象的であつた。
徳間文庫が日影さんの旧作長篇を出し始めた頃のこと、三冊目の『応家の人々』の解説の仕事が私に回つてきた。日影さんからも直接お電話があり、「ひとつよろしく頼む」といふ御挨拶を受けたのだが、この時の事も忘れ難い。老齢の御婦人の声で「こちら、片岡でございますが……」、はて誰方(どなた)であらうと思ひ廻らす暇もあらばこそ、「片岡ぢやあ判らん、日影と言ひなさい」といふ叱咤の声が稍(やゝ)遠く聞えて、あゝと直ぐに納得がいつた。夫人に電話をかけさせ相手を呼び出し、さて安心してから受話器を持つ……といふのが日影さんの流儀であると知られ、明治生れの男性の一面を垣間見たやうで、ほゝゑましかつた。
それから暫くして、「都心に出向く用事があるから、銀座あたりで会はう」といふ御連絡があり、お目にかゝつた。たぶん、ホテルの料理人に仏蘭西語を教へるといふ類のお仕事ではなかつたか、月に何度か足を運ばれるやうであつた。東京生れの日影さんは、銀座と地続きの築地に住む私よりも、この界隈の事をよく御存じで、掘割が縦横に走つてゐた頃の話を興味深くうかゞつた。その折、よい機会だと思つて、未読作について幾つかの質問を試みたのだが、御返答は頗る曖昧で、「調べてやつてもいゝが、雑誌とかあまり残つてないからねえ……」などといふ具合で心許ない。自作の記録さへ留めないとの事で、私は唖然とさせられると同時に、作家などには本当に珍しい、恬淡とした性分に一層惹かれたのであつた。その日、旨くも何ともないといつたお顔つきで紅茶や両切煙草を口に運び、別に楽しいといふ風でもなく坐つてをられた日影さんの姿が懐しく偲ばれる。
日影さんには〈異色作家〉といふ類のレッテルがついて廻った観がある。褒詞だとしても、御当人は気にも懸けなかつたらうが、気に入つてゐたとも思はれない。日影さんは、虫太郎のやうな空前絶後のペダンティストでも十蘭のごとき稀代のスタイリストでもなかつたが、虫太郎にみる衒学性や十蘭に顕著な心意気と同質のものを持つてゐなかつたとは言ひ切れない。文章の正道を往くがごとく見えて、その文体は異彩を沈潜させてしばしば読者を感嘆せしめる体のものである。「夢想家のくせに異常なもののきらいな自分は」と『内部の真実』の登場人物に言はせてゐるが、これは作者の本音とみてよいだらう。このあたりに、また一人称の採用が非常に多いといふ点に、日影さんの小説の魅力を解く鍵が在る、と私は思つてゐる。
日影さんには、失敗作とか駄作とかがあまり見当らない。短篇も長篇も能く書き分けてをられる。強ひて代表作を挙げるならば、長篇では『内部の真実』と『地獄時計』であらう。『地獄時計』については触れた人が少いと思ふが、この小説はカトリック論としても審美論としても、また恋愛心理の分析としても傑れてゐる。カトリックに詳しく、仏説にも通じ、そして『荘子の知恵』を書かれた事に思ひ及べば、たゞ敬服するほかはない。短篇では「猫の泉」など多数、他にハイカラ右京シリーズ、また『黒衣夫人の香り』『死者の中から』などの傑れた翻訳のお仕事も忘れ難い。願はくは、著作集が刊行されんことを。
[1992年1月『幻想文学』33号初出]
*註*
私が冀うた日影さんの著作集は、周知のやうに国書刊行会より全9巻の全集として刊行され、このたびめでたく完結をみた。折々、刊行に尽力された礒崎編集長より編纂苦労談を聞く事を得たが、広く信じられてゐた〈仏蘭西留学〉については、親族・知人に誰一人としてこれを明言する方が無く、どうやら日影さんが巧妙に自ら作りなした〈伝説〉の類ではないかといふ。この他にも、日影さんは世を欺く仕掛を種々施してをられたらしい。やはり、つかみ所の無い不思議な方だつたやうである。