FILE03 泉 鏡 花
魔界の哀愁――「天守物語」について(オペラ『天守物語』公演プログラム)
鏡花の戯曲
「わが戀は人とる沼の花菖蒲(はなあやめ)」と吟(よ)んだ泉鏡花は、この句に凝縮されるやうな怪しくも美しき夢幻世界の顕現を念じて、その生涯を文筆に賭けた稀なるロマンティケルであつた。作品の數は長短併せて三百篇にも上り、出来ばえに相應の差はあるものゝ、どれを採り上げても、他に紛れる事のない鏡花獨自の「心意氣」と「修辭」とが看取される。その作風は、同時代のいかなる作家のものとも似るところが無く、まさに極北に輝く浪曼の孤星と映る。
作品の大方は小説だが、二十篇ほどの戯曲も殘してゐる。明治末期から大正を挟んで昭和初期に至る三十年間は戯曲が盛んに書かれた時代で、森鴎外や幸田露伴を首(はじめ)として永井荷風・谷崎潤一郎・吉井勇・木下杢太郎・菊池寛など多くの作家が戯曲を手がけてゐる。鏡花の戯曲執筆も、斯樣(かやう)な時代の趨勢と無縁ではなからうと思ふが、小説家としての鏡花がもともと演劇的手法を好む質(たち)なのであり、歌舞伎や浄瑠璃など近世演劇の趣向本位の作劇法を受け繼ぐ、近代作家としては珍しい存在なのだと言ひ得る。
四十年ほど前までは、鏡花の芝居と言へば、『瀧の白絲』『婦系圖』『通夜物語』などの〈新派悲劇〉を指すのが普通であつた。これらの演目は〈鏡花物〉と呼ばれて劇団新派の舞台に永く命脈を保つてきたが、その實は、鏡花の小説を他の作者が脚色したものにすぎず、『紅玉』『戀女房』『海神別荘』『夜叉ケ池』『天守物語』『山吹』『お忍び』等々の、鏡花獨自の世界を開示した自筆戯曲はごく稀に上演されるか、全く上演を見ぬ儘に時が過ぎてしまつたのである。
これも戯曲に才能を示した三島由紀夫の言を借りれば、鏡花は「ユニークな、すこぶる非常識で甚だ新鮮な、おどろくべき獨創性を持つた劇作家」であり、つまりは、近代文學の常識に毒されることなく無類の光芒を放ち續けた鏡花といふ作家の眞の魅力が理解されるまでに、思ひのほか時間がかかつたといふ事であらう。
『天守物語』の初演
もし鏡花が生きてゐると假定して、『天守物語』に音楽が施されオペラとして國立の劇場で豪華に上演されると知つたら、落涙して喜ぶに違ひない。なぜならば、この戯曲は、鏡花本人が「上演してくれるなら、お金を拂つてもいゝ」と語つたと傳へられるほどの自信作であり、また自ら愛してやまぬ作品だつたからである。熱望も空しく、鏡花は生前に『天守物語』の舞台を見る事が叶わなかつた。新派の〈鏡花物〉は喜多村緑郎といふ女形によつて磨き上げられたのだが、喜多村の技藝は狭斜の巷(花柳界)に生きるやうな女を演じた時に生彩を放つ體(てい)のものであり、或は彼の藝質が『天守物語』に代表される夢幻的な戯曲の上演を妨げてゐたのかも知れない。
『天守物語』は今でこそ鏡花の代表作に數へられてゐるものゝ、初演は1951年10月、鏡花没後12年目の事である。劇団新派の上演(富姫を演じた花柳章太郎は毎日演劇大賞を受賞)ではあるが、演出を擔當したのは、戰前に歐米で名を馳せた舞踊家の伊藤道郎と、その弟で新劇の演出家・俳優として名高い千田是也であり、美術はこれも兄弟の伊藤熹朔(きさく)が擔當、音楽はドビュッシーを用いるなどして、新派悲劇の呪縛を斷ち切つてゐる。戯曲の發掘者は、おそらく千田是也である。主宰する俳優座の上演予定演目に『天守物語』を挙げてゐたし、獨逸の演劇に詳しい彼は、この作品に、たぶん獨逸浪曼派の理想主義に通ずるものを見出だしたのであらう。
鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝風夕風の爽かな空があります。決して人間の持ちものではありません――鏡花の台詞、特に『天守物語』のそれには、讀む者・聽く者を至上の高みへと押し上げてゆくやうな強靱な力があるが、その破格な戯曲構造ともども、歌舞伎・新派・新劇など既成の演出法・演技術では處理しがたいものがあらう。
殊に主役の富姫は、歌舞伎の御守殿(高級御殿女中)のやうでもあり、新派の辰巳藝者の如くでもあり、しかも妖怪としての凄味をも併せ持つといふ至難の役柄である。花柳章太郎(喜多村の弟子だが、師匠よりも役柄の範囲が廣く、容姿も優美であつた)の富姫は絶品であつたと傳へられるが、その後、歌舞伎の中村歌右衛門、寶塚の天津乙女、新劇の杉村春子らが挑戰し、今日では周知の通り坂東玉三郎の當り役になつてゐる。
『天守物語』の典據
『天守物語』は江戸時代の傳承に基づいてゐる。姫路城は、豊臣秀吉が築城(三層)し、池田輝政が完成させたが、天守閣に〈おさかべ姫〉なる女姿の妖怪が棲むといふ傳説が早くから流布してゐた。妖怪の正體は、一説に狐の類ともいひ、宮本武蔵が城主に頼まれて退治に赴いたといふ傳承もある。
〈おさかべ傳説〉は歌舞伎にも度々仕組まれ、『泰平姫ケ城』(1705年)や並木五瓶の『袖簿播州廻(そでにつきばんしゆうめぐり)』(1779年)などが知られるが、これは『天守物語』とは殆どかゝはりが無い。奇談・怪談の類では、作者不明の『諸國百物語』(1677年)に載る「播州姫路の城ばけ物の事」が早い例であるが、鏡花が参照したのは三坂春編(はるよし)の『老媼茶話』(1742年頃)巻之五「播州姫路城」である。ごく短いものなので、現代文に移してこゝに紹介しておく。
姫路の城主松平大和守義俊の児小姓(こごしやう)森田圖書(づしよ)は、十四歳の時、傍輩と賭けをなし、夜分に雪洞(ぼんぼり)をかざして天守の七階目へ上つたところ、三十四五の、いかにも気高き容子(やうす)の女が十二単(ひとへ)を纏うて、燈のもと、机に向かうて書を讀んでゐた。圖書を顧みて「なぜ来(きた)りしぞ」と咎めたので、床に手をついて「傍輩と賭けを致し、こゝまで参りました」と答へると、女は「では印を取らせよう」と言うて、兜の錣(しころ)をくれた。
圖書はこれを戴いて降りたが、三階まで下ると、大入道が肩越しに覗いて雪洞の火を吹き消してしまうたので、また天守に取つて返した。女は最前と變らぬ樣子にて、「なぜ、また来りしぞ」と問うた。圖書が「お天守の三階にて大入道に火を吹き消されて下る事かなはず、火を頂戴に参りました」と答へると、「まことに其方(そなた)は健氣(けなげ)なる者よの」と言うて雪洞に火を點けてくれた。
圖書は天守を降り、殿の御前に進み出(い)で、經緯(いきさつ)を語つて兜の錣を差し出した。大和守が御覧になると、御自身の甲冑(かつちう)の錣ゆゑ、急ぎ納戸の者を召し出だし、件の兜を検(あらた)めさせたところ、錣は失はれて鉢ばかりが殘つてゐた。この物語は、姫路の今の御城主に仕へる侍から聞いた話である。森田圖書は、今では侍大将になつた由である。
圖書之助の件がこゝから採られてゐる事は一讀了解されよう。また巻之三「猪苗代の城化物」には亀姫とおさかべ姫が姉妹分らしいとの示唆があり、巻之三「舌長姥(したながうば)」を見れば舌長姥と朱の盤坊が昵懇の妖怪仲間だと知られる。たゞ、奇談の傳へるところでは、彼らは在りきたりの妖怪であり、亀姫の眷属に至つては甚だ土俗的なる地妖にすぎない。これらの妖怪に愛嬌と憂愁の相を附与し、更に九天の高みへと引き上げてゐるのは、鏡花獨特の浪曼的理想主義の理念であらう。
また、富姫の侍女たちが白露を餌にして秋草を釣るといふ驚異的な幕開け、會津猪苗代の亀姫が霧を渡つて手毬(てまり)をつきに逢いに来るといふ素敵な設定、圖書を鷹匠に仕立て直すといふ傑れた書替など、全てに亙(わた)つて石塊を珠玉に變へるが如き錬金術が施されてをり、その最たるものが、おさかべ姫から富姫への變容であらう。
小説・戯曲の別なく、鏡花には〈人間界〉と〈人間ならざるものが棲む魔界〉との交錯を描いた作品が多い。魔界と申しても、そこに棲むものたちは在来の化物や妖怪とは全く趣を異にしてをり、人間の愚行蠻行を映し出す鏡のやうな存在に設(しつら)へられてゐる。殊に『天守物語』は、舞台を〈魔界と化した天守〉の五重に設定して、人間界を舞台上から切り捨てゝしまつたところに特色があり、これは他に類例を見ぬ戯曲構造であると申せよう。鏡花の妖怪や魔界の造形には、眞摯なる裏打ちが認められるのだ。
美しき御靈の芝居
『天守物語』『夜叉ケ池』『海神別荘』『多神教』など一連の作品の女主人公はみな「お友達」で、それは「石垣を堅めるために、人柱と成つて、活きながら壁に塗られ、堤を築くのに埋められ、五穀のみのりのために犠牲(いけにへ)として、俎(まないた)に載せられた、私たち、いろいろなお友だちは、高い山、大きな池、遠い谷にいくらもあります」云々といふ『多神教』の媛神(ひめがみ)の台詞によつても明らかで、底通する神話大系の如きものが背後に透けて見える。
『天守物語』にも、非業の死を遂げた美女の怨みが獅子頭の精靈に憑依した云々と、富姫の正體を示唆する台詞がある。鏡花の描く妖怪・媛神の類は悉く女の御靈なのだと申せよう。御靈とは、無實の罪を負ふとか望みを妨げられるとかして怨みを呑んで死んだ者の靈の謂(いひ)にて、古来、八所(はつしよ)御靈をはじめ菅原道眞・崇徳院・曾我兄弟など數多(あまた)の御靈が跳梁してをり、わが國の藝能は御靈を鎭めるといふ側面を持つとさへ言はれてゐる。この傳統を踏まへ、更には生来の嗜虐趣味や洒脱嗜好を加味して、鏡花は新たに優婉極まりなき女の御靈を創造したわけである。『夜叉ケ池』の百合や『海神別荘』の美女は、今まさに御靈へと變身する過程の女人であらう。
理想主義と申しても、鏡花の場合、並のものに非ず、人間の理想を具備するのは妖怪の側であるといふ逆説が看(み)て取れるのであり、詰まるところ、人間の奉ずる理想などといふものは繪に描いた餅だと言つてゐるやうでもある。しかし、「祈り」や「誓い」に籠められた鏡花の殉情と自恃の念は酌みとるべきであらう。
「千歳(ちとせ)百歳(もゝとせ)に唯一度、たつた一度の戀だのに」と嘆く富姫、覺悟を決めて果てんとする戀人たち。紅(くれなゐ)の鼓の緒(を)を張り廻(めぐ)らせた天守の五重に繰り擴げられる美しき御靈の芝居は、「美しい人たち泣くな」と聲をかけて姿を現す工人(たくみ)即ち藝術家によつて救済され幕を閉ぢるのだが、「紅の鼓の緒、處々に蝶結びして一條(ひとすぢ)、是を欄干の如く取りまはして柱に渡す」といふ装置指定は假初(かりそめ)の思ひつきなどではなく、この指定の裏には、鏡花の創作の秘儀の如きものが隠されてゐる。
鏡花の姪で後に養女となつた泉名月の「羽つき・手がら・鼓の緒」と題する文章(『鬼百合』収載)の中に「鏡花のお母さんが亡くなられてからです。おばあさんは虫干しをなさいました。部屋の鴨居から鴨居へ鼓の緒を渡して、おかあさんの振袖・小袖を掛けてほされました。おかあさんの振袖・小袖の間を、鏡太郎と豊春は、くぐったり、顔をだしたり、かくれたり、出たり入ったりして遊びました。」といふ一節(鏡太郎は鏡花の本名、豊春は後に作家となり泉斜汀と名乘つた弟)に照らせば、この鏡花の少年時代の體験が『天守物語』創作の一原動力となつてゐる事が知られる。
鼓の緒は、鏡花にとつて、若くして世を去つた母と忘れ難く繋がつてゐた。江戸から草双紙を携へて金澤の彫金師の許に輿入れしたと傳へられる鏡花の母は、能の葛野流(かどのりう)の大鼓方(おほつづみかた)の家の娘であつた。富姫には、亡き母の面影が強く籠められてをり、紅の鼓の緒こそ、その象徴なのである。
[新国立劇場1999年2月・オペラ『天守物語』公演プログラム]
【鏡花関連文章一覧】
★「戀母譚管見――鏡花私抄」1979年10月『ペーパームーン*泉鏡花・妖美幻想の世界』/1982年6月・西澤書店『扇さばき』/1991年11月・河出書房新社『新文芸読本・泉鏡花』
★「玉三郎と鏡花劇」1988年2月『銀星倶楽部』8号/1989年2月・ペヨトル工房『世紀末少年誌』
★「細部の驚異」1991年3月・国書刊行会『日本幻想文学集成1泉鏡花』解題
★「解題」1992年8月・国書刊行会『鏡花コレクション1 幻の絵馬』
★「解題」1992年11月・国書刊行会『鏡花コレクション2 月夜遊女』
★「解題」1993年1月・国書刊行会『鏡花コレクション3 人魚の祠』
★「玉三郎・鏡花の世界」チケットセゾン『tj』1993年12月号
★「美しき御霊の芝居」1994年2月・銀座セゾン劇場『天守物語』公演プログラム
★「泉鏡花・草迷宮」1998年4月12日『東京新聞』20世紀の名著・幻想文学1
★「鏡花など」1998年10月・共同通信配信〈20世紀BOOKレビュー・幻想文学下〉