《明石町便り18 續 2007/3/3》
★講演三題
朝日カルチャーセンターに講座を設へて5年餘になりますが、その間(かん)、文京區民大學に出講しただけで、お聲がかゝつてもよそで喋る事は無かつたのですが、去年からは心を入れ替へ〔貧に逼られて……といふ方が眞實かも〕引受けてをります。
まづ石井春生さんからの依頼を受け、3月25日、日本推理作家協會の〈土曜サロン〉にて「探偵小説と同性愛」といふ演題で喋りました。このテーマは既に朝日カルチャーセンターにて講じてをり、4回5時間かけて喋つたものを1時間半に約めたため、聊か驅足氣味となりました。大した事も申してをりませんが、要旨は推理作家協會のサイトに掲載されてゐますので、關心がお有りでしたら下記を御覽下さい。
土曜サロン第152回・3月25日 《探偵小説と同性愛》
〈土曜サロン〉の會場は南青山の推理作家協會事務局。初めて伺ひましたが、古いマンションの一室〔亡き生島治郎氏と小泉喜美子さんが新婚生活を送つた部屋の由〕にて、既に1Kの過半を占める長テーブルを圍んで10人餘の方がお待ちでした。肝煎役の石井さんと事務局の方以外は男性ばかり、存じ寄りは本多正一さんと書記役の垂野創一郎さんのみ、女性の受講者が多いカルチャー講座とは勝手が違つてちよつと戸惑つたものゝ、そのうちに小沢章友さんも見えたりして、何とか話し果(おほ)せました。
石川近代文學館からは秋の【文豪たちの遺したもの――収藏品展】の關連行事の講演依頼があり、10月14日に「古くて新しい鏡花の世界」と題して喋つてまゐりました。金澤へ行くのは初めてでしたが、館にお勤めの舊知の前多令子さん〔ニュルンベルクにて修行なすつた製本のマイスター〕のお執成(とりなし)よろしきを得て快適に過す事が出來ました。當日は快晴、午前9時過ぎに東京驛から上越新幹線に乘り、越後湯澤にて北陸本線直通のほくほく線に乘換へ1時半ごろ到着、家を出てから5時間かゝりましたよ〔前多さんのお話では20年前は7時間かゝつたさうです〕。出迎へて下さつてゐる筈の前多さんを探して暫しウロウロ、誰も近寄つてきてくれません。前多さんがお持ちの私のイメージと服装が懸け離れてゐたやうで〔以前お目にかゝつてゐた頃はトッポイ恰好をしてゐたのでせう〕、探すのに手間取られた由であります。今でも世にいふフォーマルな衣服など着することは滅多にありませんが、何分「顎・足・枕つき」にて丁重にお招き頂いたのですから、珍しくスーツを着用に及んだのが裏目に出てしまつたのであります。
金澤驛から車にて10分餘、市の眞央に位置する文學館は舊第四高等學校――通稱四高(しかう)の校舎をそのまゝ利用してをり、赤煉瓦の外觀が素敵です。展示室や講演會場にも昔の教室や講堂の雰圍氣が殘つてゐるやうに感じました。3時から1時間半ほど喋りましたが、50人の餘も見えたのでせうか、ほゞ滿員でした。あとから知つたのですが、吉村貞司氏〔病理學の視點から鏡花を論じた著作が有名〕も見えてをられた由、知らぬまゝ喋り了へてよかつた……。聽衆の中に専門家や知り合ひがゐると緊張を強ひられるものなのですよ。
一泊して翌日は、前多さんと小林弘子さん〔金澤の文學遺跡に最も精通された方の由〕の御案内を得て文學觀光(?)。小林さん運轉の車〔御高齢ながらハンドル捌きは大膽〕にて、まづは松任(まつたふ)の行善寺へ。この日蓮宗のお寺には、幼き日の鏡花が仰ぎ見て亡き母を偲んだといふ摩耶夫人像が安置されてゐます。住職夫人の前説には少々辟易させられたものゝ、御像(みざう)には不氣味な迫力があり壓倒されました。次に金澤市内に戻り、卯辰山麓の全性寺にてもう一つの摩耶夫人像を拜觀、此處には鏡花の母方中田家の墓碑が殘つてゐます。ついでに鬼子母神を本尊とする眞成寺へ立ち寄りましたが、折から柘榴の實が色づいてゐたのは寔にタイムリー、境内には秋冥菊〔菊とは呼ぶものゝ中国原産の金鳳華科〕が咲き亂れてゐました。此處には初代中村歌右衛門〔金澤出身ゆゑ加賀屋と號す〕の見上げるほど巨きな墓碑があり、六代目歌右衛門が晩年に一門の俳優と寄進した立派な石の圍垣が目を惹きます。
晝食後、鏡花の生家跡にほど近き鏡花記念館を見學、更に鏡花少年が遊んだといふ久保一乙劍宮の境内から「暗がり坂」を下つて淺野川畔の茶屋街へ。このあたりは舊(もと)は遊郭の由、道幅など昔のまゝださうです。金澤は戰災にも震災にも見舞はれてゐないさうで、往昔の風情がよく殘つてゐますね。市街の空洞化も無きやうにて、實に好もしい土地と映り、機會があれば是非再訪したいと思ひました。最後に鏡花の父・清次が立てた泉家の墓碑がある圓融寺に立ち寄り、4時過ぎの列車に乘つて事も無く歸京、樂しき二日間でありました。
石川近代文學館
眞成寺・歌右衛門寄進圍垣
行善寺・摩耶夫人像
暗がり坂
淺野川・卯辰山
「町田の殷賑に驚く」なる記事を載せたのは4年半前の事ですが、昨秋、市立の文學館が誕生、稱して〈町田市民文學館ことばらんど〉。その文學館から、国書刊行会の礒崎編集長を介して、日影丈吉に就いての講演依頼があり、これも引受け、去る2月18日、久し振りに町田まで出向きました。當日は東京市民マラソンが開催され、コースに中る此の邊りも早朝から物々しき気配。市場通り〔新大橋通り〕から佃大橋の方へ右折する入船橋交叉點が私の部屋から一望出來るので、出かける支度をしながら、時々眼を遣つてゐたら、午前11時頃、冷雨の中をトップのケニアの選手が走り去りました。交叉點は新富町・入船町方面が封鎖され、沿道では驅り出されたとおぼしき大勢の小學生が黄色い合羽姿で健気に應援。いつまでも見てゐる譯にはまゐらないので正午に家を出ましたが、日比谷線築地驛のあたりは一般參加のランナーが列をなして通過中でした。
1時過ぎ、町田に着くと早や快晴、地圖を便りに繁華街を抜けて〈ことばらんど〉へ。無料のせゐか滿員、年齡層が高い! 豫め「入門的なレベルで……」と言はれてゐたので、演題も私としては「日影丈吉――人と作品」と至極穩當なるものを掲げて、日影さんが晩年の20年ほどを町田でお暮しなすつた事から話し始め、その境涯と作品に就いて1時間餘り喋りました。日影さんの姪の丸山くみ子さんが聽きにいらして「よかつた」と喜んで下さつたのですが、これには恐縮、お土産まで頂いたのですよ。
去年は足腰のリハビリも兼ねて植物園・動物園・展覧會などあちこちに出かけましたが、續けて打ち込むには聊か息切れ氣味ゆゑ、そのお話は再た近々UP致します。