須永朝彦バックナンバー

須永朝彦を偲んで

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須永朝彦バックナンバー

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◆給仕少年の推奨献立
◆色のない絵具
◆さまよへる悪霊、或は屈託多き女
◆日影さんのこと

2・井上保&森茉莉
◆殉情は流るゝ清水のごとく
◆Anders als die Anderen
◆『マドモアゼル ルウルウ』奇談

3・泉鏡花
◆魔界の哀愁

4・堀口大學
◆堀口先生のこと

5・足穂&乱歩
◆天狗、少年ほか

6・郡司正勝
◆郡司先生の憂鬱ほか

7・菊地秀行&小泉喜美子
◆美貌の都・月影に咲く蘭の花

8・高柳重信&中村苑子
◆るんば・たんば・『水妖詞館』の頃

9・バレエ
◆アンドロギュヌスの魅惑

10・ディートリッヒ
◆蛾眉

11・内田百間
◆片づかない氣持がする

12・和歌・短歌
◆戀の歌とジェンダー

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FILE05  稲垣足穂&江戸川乱歩

天狗
(『太陽』《特集・稲垣足穂の世界》)

 稲垣足穂、花田清輝、三島由紀夫と三人並べると、これは亡き澁澤龍彦の愛誦作家の雄(ゆう)なるもので、この三人に強ひて共通点を探れば、日本の中世への関心といふことになり、それは澁澤の上にも当て嵌るだらう。
 たとへば花田清輝は、中世に〈転形期の精神〉すなはち〈日本のルネサンス〉のごときを認めて多くの論作を成したが、稲垣足穂には左様な殊勝なる心がけは無かったと思はれる。足穂が中世を好んだのは、一に中世が、殊に室町時代が他のどの時代よりも抽象的で雅致に富んでゐたからであり、そこに好もしいオブジェを見いだしたからに他ならない。そのオブジェとは、天狗である。
 世に、天狗の肖像ほど変転極まりなきものはない。中国の古書『山海經』に見える奇獣の像は措くとしても、『日本書紀』舒明紀の「アマツキツネ」の訓(よみ)以来、その姿は妖星・流星に始まつて木精(こだま)・魑魅魍魎のやうなものから、山伏修験道と結びついて鬼神に類するものへと変転を重ね、近世に至つても猶その像は一定しない。
 江戸期は雅俗あはせて考証の流行をみた時代だから、幕府の御用学者から民間の國学者・戯作者に至るまで〈天狗論〉を唱へた者は多いが、その説くところは一樣ではない。図像も樣々で、瀧澤馬琴などは「鬼神は人の見るものならねば、杜撰(づさん)也といへども咎むるものなし」といふ『草木子』の説を引いて「謎々といふものにひとし」と述べてゐる。
 足穂がオブジェとして認めた天狗は、山岳信仰修験道のうちに育まれた烏(からす)天狗であり、この中世出来の天狗は殊のほか美少年を愛好した。謡曲「鞍馬天狗」では山伏と身を変じた僧正ケ谷の大天狗が遮那王こと牛若丸に恋を打ち明け、御伽草子『天狗の内裏』では牛若丸が大天狗に抱かれて一百三十六地獄と十方浄土を経巡るのである。天狗が美童を誘拐する話は稚児物語『秋の夜の長物語』などに見え、その決定版が謡曲「花月」であり、足穂の鍾愛措く能(あた)はざる一曲であつた。
――たとえば謡曲の、『花月』を、君は知っているか? これは、九州彦山の麓の左衛門というのが、一子花月を天狗にさらわれてから、出家して回国中に、京都の清水寺の境内で我子にめぐり逢う話である。弓矢を携えた喝食(かつしき)すがたの花月がうたい出す詞につれて、彼が七ツの年に天狗に取られて遍歴した山々が、青いフィルムを繰るように覚束なく、しかもまざまざと展開する…… 『少年愛の美学』
 花月が歌ひ出す詞とは「取られて行きし山々を、思ひ遣るこそ悲しけれ、まづ筑紫には彦の山、深き思ひを四王寺(しわうじ)、讃岐には松山、降り積む雪の白峰(しろみね)、さて伯耆には大山(だいせん)、丹後丹波の境なる、鬼が城(じやう)と聞きしは、天狗よりも恐ろしや……」といふのであり、私などは、こゝに甘く切ないもの――少年の恋の未練のやうなものを感受するが、足穂にはまづ少年の眼をレンズとするパノラマのごときが看取されたのであらう。こゝには足穂の嗜好を満たす三つの要素、すなはち〈美のはかなさ――少年愛〉〈墜落の確信――飛行願望〉〈地球の思ひ出――天体嗜好〉が全て見いだされるかの如くである。
 足穂は、『花月』を映像に仕立てようと想を練り、師の佐藤春夫に相談を持ちかけたりしたものの、果たせなかつたといふ。その経緯を軸に据ゑて1962年に「花月幻想」を執筆、その後「花月ファンタジア」「誘(いざな)われ行きし夜」「天狗考」と書替へ、三島由紀夫の死を枕に置いた「鼻高天狗はニセ天狗」が最終稿となつた。
 足穂も「修験者に誘拐されて、山伏の手から手へ渡り、いまは清水寺の門前男がプロデューサーになって、曲舞(くせまい)、羯鼓(かっこ)打ち、簓(ささら)摩りと容色とを売り物にしているスターだと解すればよい」と記してをり、少年誘拐を事とする天狗の正体はまづ山伏と考へるのが妥当であらう。『隅田川』『櫻川』『粉川寺』など一連の謡曲の存在からして、人買の影が重なつてゐるかも知れない。
 柳田國男などは山人(さんじん、大和朝廷に逐はれ山中深く隠れ棲んだといふ蝦夷・國巣・佐伯の類)説を唱えたが、南方熊楠には敬意を払つても、柳田や折口信夫の学問を「たとえ文化ではあっても、文明だとは断じて云うことが出来ない」と断じた足穂には採るに足らぬ説であつたらう。
 今日では、足駄を履き葉団扇(はうちは)を携へた赭顔長鼻の天狗像が一般に知られてゐるが、これは猿田彦信仰が混入した中世末期以後のものとされ、それ以前は伎楽の迦楼羅(カルラ)面に起源が求められる烏天狗が主流である。足穂も、平田篤胤の『古今妖魅考』などを引いて説を樹て「品位の失墜」を指弾してゐるが、彼が鼻高天狗を嫌つた一番の理由は、あの鼻がペニスを想起させたからではなかつたか――と私は推測してゐる。
 「太陽」1991年12月號《特集・稲垣足穂の世界》

【足穂関連文章一覧】
「天の菫――『パテェの赤い雄鶏を求めて』」(書評)『日本読書新聞』1971年11月15日號/1982年6月・西澤書店『扇さばき』
「少年愛の苦学――稲垣足穂」1987年11月『別冊 幻想文学3・タルホ*スペシャル』/1989年2月・ペヨトル工房『世紀末少年誌』

少年
(『太陽』《特集・江戸川乱歩》)
 乱歩は同性愛への関心を隠さなかつた。同性愛に関はる内外の古典や性科学文献を渉猟し、それを踏まへて幾篇かのエッセーを執筆発表してゐるが、昭和戦前に於ては奇特なる文章と申すべきであらう。
 一口に同性愛とは申すものの、その様態は多種多様である。乱歩の場合、理想主義的傾向が顕著であり、古代希臘(ギリシャ)の少年愛=パイデラステイアと、我が國近世初期の衆道(しゆだう)にその理想を見てゐたらしいことは、彼のエッセーや稲垣足穂の「E氏との一夕」などによつて容易に知られる。同性といふより少年、更に言へば〈中間の性〉に憧れてゐたのだと推量しうる。
 書斎に掲げてゐたといふ村山槐多の絵に就いて記した「槐多『二少年図』」などには一種情熱的な口吻のごときが読み取れるが、同性愛関連のエッセーから乱歩その人の肉声はあまり聞えてこない。むしろ初期の自伝的文章に本音が窺へるやうで、大正15年発表の「乱歩打明け話」には数へ年15歳の折の同級生(相当有名な美少年云々)との恋愛が初恋として語られてゐる。
「つまりよくある同性愛のまねごとなんです。それが実にプラトニックで、熱烈で、僕の一生の恋が、その同性に対してみんな使いつくされてしまつたかの観があるのです」
 とあり、この「双方対等」で「実行的なものを伴はない」プラトニック・ラヴの後、ついぞ恋愛といふものをしなかつた(「ある意味において恋愛不能者であつた」「恋愛と結婚を別物に考へてゐた」云々)といふのだから、たゞ事ではない。
 昭和12年末に筆を起した三人称の自伝「彼」に於て、乱歩は再び件(くだん)の初恋を語らんとするも中断、後に「恥かしくて書けないのである」と申し開いてゐる。
 エッセーや自伝的文章によれば、乱歩は〈性愛〉と〈恋愛〉を峻別し、しかもプラトニックな少年愛に〈恋愛〉の至高の相(すがた)を見てゐたといふ事にならう。この恋愛観は小説にはあまり反映されてゐないやうに見受けられるが、仔細に読めば、随所に嗜好は認められる筈である。
 縁日の見世物さながらに〈変態物〉を書き継いだ乱歩ではあるが、同性愛を描いた作品は『孤島の鬼』一篇しかない。この通俗長篇(作者曰く)は、作者も主人公の「私」も同性愛を「異様な恋」として否定してゐるものの、それは飽くまでも建前で、本音は少しも厭がつてはゐないといふ、煮え切らない実に奇妙な小説であり、そこに乱歩の苦心を見るべきなのかも知れない。作品自体は、畸形・人外境・迷宮などを取り合せた構成に異様な迫力があり、「売文的駄小説」といふ乱歩自身の否定的評価に反して傑作である。
 同性愛を真向から採り上げたものは『孤島の鬼』1作に尽きるが、他に少年愛的趣向を織り込んだ作品が無い訳ではない。大体に於て乱歩の小説では、美女の描写は形容が類型的で、美少年美青年の場合の方がずつと精密に描かれるのだが、それが際立つてゐる作品が幾つかある。
 たとへば『大暗室』。「ギリシヤ彫刻のアドニスのやうな美青年」で「悪魔の申し子」たる大曾根龍次と、「正義の騎士」たる有明友之助といふ異母兄弟が対決する大活劇だが、これは曲亭馬琴の『近世説美少年録』の書替に他ならない。
 また明智小五郎物では後期の作に属する『暗黒星』。こゝでは明智は「女のやうに美しい二十歳あまりの青年」伊志田一郎に心囚はれて、
「不思議な青年だ。胸の中に冷たい美しい焔が燃えてゐる感じだ。その焔が瞳に写つて、あんなに美しく輝いてゐるのだ」
 などと呟くのである。更に申せば、
「一郎はベッドの明智の顔の上にかゞみ込むやうにして、親しげに挨拶した。その様子には事件の依頼者と探偵との関係ではなく、何かしら父と子、或ひは兄と弟のやうにうちとけたものが感じられた」
 といふやうな描写の背後には、〈少年愛〉乃至〈衆道〉への憧憬が透けて見える。その点に関しては、そもそも明智が最も怪しき登場人物なのである。
 明智小五郎は一応妻帯者ではあるが、妻の名を記憶してゐる読者は少ないのではないか。文代さんの名は極く稀にしか現れず、甚だ影が薄い。明智の身の廻りの世話に勤(いそ)しむのは「十五、六歳のリンゴのやうな頬をしたつめえり服の少年」すなはち小林芳雄であり、『化人幻戯』に至つては、明智夫人は高原療養所に追払(おつぱら)はれて、探偵は「小林とたゞふたりの暮らし」を楽しむのである。
 乱歩は、この師弟をクローズアップするために少年探偵団のシリーズを企てたのではあるまいか。そして、この美(うるは)しき師弟愛に楔を打ち込む役割を負ふ者として、すなはち小林少年の誘惑者として怪人二十面相を登場させた。「すらつとした好男子」「年もまだ三十前後」といふ二十面相も、なかなか素敵なのである。

★僕、先生のおつしやることならなんだつてやります[小林芳雄・談]

★ぼくはかわいくて仕方がないほどに思つてゐる[怪人二十面相・談]

 1994年「太陽」6月號《特集・江戸川乱歩》/
1998年6月・平凡社コロナ・ブックス『江戸川乱歩』


自らの死後に手を打つ ――『探偵小説四十年』を繞る迂闊なるノート
(『国文学 解釈と鑑賞』《特集・江戸川乱歩の魅力》)

 乱歩の集書、特に〈江戸時代の版本〉と〈同性愛文献〉の蒐集は名高く、随筆「私の蒐集癖」に「私のこれまでの生涯で、最も興味を持ち得たものは、探偵小説と同性愛文献の蒐集であつた」云々とある。その存在に関心を抱き続けながら具体的な内容に就いては殆ど知らぬ私にとつて、「太陽」94年6月號《特集・江戸川乱歩》巻頭に掲載された〈蔵の中〉の写真は、将(まさ)に垂涎物であつた。〈乱歩の土蔵〉は既に伝説と化してゐるが、その中身が斯(か)くも完璧に保存されてゐるとは思つてゐなかつたので、一驚を喫すると同時に、これを守り通して来られた遺族の方の努力に敬意を抱いた。
 天眼鏡まで引張り出して私が見入つたのは、版本類を収納する二階の写真である。御存じのやうに、版本は和綴なので背中に題簽類の貼付がなく、また多くは稀覯書ゆゑ、当然の事ながら箱に収められたりハトロン紙に包まれたりしてゐる。原型は窺ひ得ないのだが、その一嵩(ひとかさ)ごとに几帳面な筆跡で内容が記されてをり、その文字を私は夢中になつて判読したのである。
「……和本の虫を防ぐために、本毎に桐の箱を造らせたり、厚紙の箱を手製したり棚に 並べておいて、一目で分かるように、それらの何百という箱の小口に、一つ一つ、丁寧 な書体で、毛筆で、書名を書いたりすることに、多くの時間を費している」云々
 件の写真は周囲が溶暗状態なので全容は判らないが、仮名草子・浮世草子・読本類では怪談書や好色本や公事(くじ)物、中国関連では志怪・伝奇や『淵鑑類函』等の情史の類が目立つ。合巻(幕末の草双紙)も『白縫譚(しらぬひものがたり)』の揃ひが見えるほか、『御贄美少年始(おとしだまびせうねんし)』も揃つてゐる模様である。『白縫譚』などは、草双紙狂の泉鏡花でさへ端本をこつこつと集めてゐたのだから、今日では完全揃ひ本の入手など至難であらう。殊に『美少年始』は複製も復刻も無く、私には未見の書なので、思はず溜息を洩らしたほどである。『美少年始』を収める箱には「上本」と記されてをり、また乱歩は随筆「集書」の中で己が蒐集版本の美本たることを婉曲に自慢してゐるから、中を検めれば、おそらくどの箱からも稀代の美本が出現するのではあるまいか。
 乱歩の集書の多くは、流行作家として成功し経済的な余裕を得た後に始められたものだらうが、そもそも書籍などの〈物〉に限らず、つまり形而上下を問はず、何かを集成して喜ぶといふ気質を具へてゐたのだと思はれる。学生時代に手製本『奇譚――ミステリー覚書』を作つた事に始まり、多量の分類や文献表を登載するミステリーの包括的解説書『随筆探偵小説』や『幻影城』正続の執筆に至る、一連のアンソロジスト的あるいは学者風営為(因みに、日夏耿之介は乱歩を「探偵文芸学者」と評してゐる)も、彼の蒐集癖・集成志向の一端と申せよう。そして、この気質に発した営みの最たるものが〈自己蒐集〉であり、詳細を極める自伝『探偵小説四十年』の執筆であつたらう。
「人への手紙の写しを一々取っておいたり、調べものについてはカードを作製したり、また新聞であれ雑誌であれ、凡そ我身に関した記事はスクラップブックに貼りつけるほどの几帳面な性格」とは親交のあつた稲垣足穂の言であるが、「我身に関した記事」の「スクラップ」は勿論有名な〈貼雑帳〉であり、これが詳細な自伝の基礎資料となつてゐる事も亦よく知られてゐる。几帳面な性格」に就いては、乱歩自身は「私の蒐集癖」の中に、
「他人からは、いかにも私が几帳面に見えるのだが、実は几帳面が附焼刃(つけやきば)だからこそ、わざとそういうまねをするのである。『探偵小説三十年』の材料となっている例の『貼雑帳』なども、几帳面の見本みたいなものだが、これがやはり、私の疎漏な性格への対症療法の如きものであった」云々
と記してゐる。たゞ、こゝには乱歩の照れや謙遜も反映してゐるかとも推し得るので、読者がこれを鵜呑みにする義理はないだらう。右の引用に「探偵小説三十年」とあるのは、実際にこの題名の連載(雑誌「宝石」)があつたからで、更に遡れば「探偵小説十年」(昭和7年・平凡社版『江戸川亂歩全集』第13巻)や「探偵小説十五年」(昭和13~14年・新潮社版『江戸川亂歩選集』全10巻各巻末に連載)も既に書かれてゐたのである。
『探偵小説四十年』に至る経緯を煩瑣を厭はずに辿れば、まづ「探偵小説三十年」の標題で「新青年」に連載(昭和24年10月號~25年7月號)、「新青年」廃刊に伴い一時休載、場を「宝石」誌に移して続稿を連載(26年3月號~31年1月號)、途中、昭和28年度までに限り還暦記念として29年11月に『探偵小説三十年』の標題で宝石社より単行本を上梓するも、引き続き「探偵小説三十五年」と改題して「宝石」誌に続稿を連載(31年4月號~35年6月號)、都合110回、記事は31年度までに及んだ。更に35年度までの出来事を要約増補し、36年7月に桃源社より『探偵小説四十年』と改題して刊行、原稿枚数は400字詰2500枚に達するといふ。原型たる「探偵小説十年」から数へれば、実に30年に亙る一大事業の観さへあるが、それでは一体何が彼をして、かゝる詳細な自伝を書かしめたのであらうか。

「私は日記が書きつづけられない性分だから、自分に関する記録は何でも収集しておくくせがあり、新聞・雑誌の切り抜きなど丹念に保存して、その大部分は『貼雑帳』という大きなスクラップブック数冊に貼りつけてある(中略――横長で新聞紙半頁大)。この回顧録は主として貼雑帳の資料によって書いた、というよりも、鋏と糊でそれらの資料を貼り合わせ、そのあいだあいだに、自分の文章を書き加えたというのが正しいであらう。」(『探偵小説四十年』序文)

「私は日記というものをつけ得ない性格なので、友人からの書翰や、私に関係のある新 聞、雑誌の記事、広告に至るまで、思い出の資料として、気がついた限り切りとっておく癖があり、それが大袋に何杯もたまっていたのを、戦争中、探偵小説が全く書けなくなったつれづれに、暇にまかせてこれを整理し、大きな手製の帳面二冊に、年代順に貼りつけて「貼雑年譜」と名づけ、私の生涯の日記に換えることとした……(以下略)」(『探偵小説四十年』余技時代)

「実をいうと、私は西洋探偵小説史と日本探偵小説史の相当詳細なものを書き、いろい ろな写真なども入れて二冊の厚い本を作りたいという野心を持っていて、その資料は日頃から心がけて集めているのだが、書誌学的に正確な遺漏のないものを作ろうとすると、 非常に時間をかけなければならないので、軽々しく着手する気になれない。(中略)

そこで、二つの探偵小説史のうち、日本の探偵小説史に少しも手を着けないで終るような場合を考えると、その近代篇ともいうべき部分を、身を以て経験して来た私の思い出話をまとめておくのも、あながち無意味ではない。そのある部分は日本探偵小説史近代篇の側面史というような意味を持つのだから、後年誰かが探偵小説史を書くような場合の、一つの参考資料となるであろう。」(『『探偵小説四十年』処女作発表まで)

 以上が乱歩の〈言ひ分〉の主なるものであり、いかにも尤もらしい。が、作家といふ人種に限定するとしても、そもそも「日記が書きつづけられない性分」の人はざらにあつたらうし、現在でも多数に上ると思はれる。一方、「自分に関する記録は何でも収集しておく」といふ人はそれほど多くないのではあるまいか。まして乱歩のごとき徹底家(あの「貼雑帳」の一端を目にするだけでも尋常ならざる執念が看て取れる)となると極く少数だと思はれる。
 自己に執しない人などゐない筈はないが、度合の違ひはあるだらう。乱歩の場合、それが際立つて深かつたと申すほかはなく、更には、具体的に自己を語る欲望、あるいは自己を回顧する欲望、すなはち〈自己収集癖〉のごときも殊のほか強かつたのだと推量し得る。自己は創作を通じても語り得る訳だが、所謂〈自然主義〉流の描写に天から反撥を覚える体(てい)のロマンティケルであつた乱歩にあつては、創作に顕れる自己は嗜好や審美の質(たち)などに限定されるだらう。勢ひ自己を回顧し語る欲望はエッセー乃至(ないし)自伝の形を採らざるを得ない。尋常的自伝の雛形たる「探偵小説十年」の執筆は昭和7年だが、それ以前にも自伝的文章を幾つも発表してゐるのであり、最も早い「乱歩打明け話」の執筆は処女作発表から僅か三年後の事である。
 いったいに乱歩は、随筆・評論の類を多作した人で、所謂大衆小説家の中では殊に際立つてゐる。それは、創作家としての彼の一種尋常ならざる資質と裏腹の関係にあるごとくに見える。乱歩は自作の評価に寔に厳しかつた人で、初期のものを除き殆どの作品を「売文的駄小説」だと決めつけてゐる。『探偵小説四十年』にも「着想の乏しい私」とか「私は、もともと短篇作家型の性格であって、長い物語の筋を考えるのが不得手なので、今日に至るまで首尾一貫した本当の意味の長篇小説を、一度も書いていないのは、そのためである」とか頻りに愚痴めいた嘆きを託つてゐる。私などが傑作と信ずる『孤島の鬼』に就いても「売文主義の皮切り」だの「結局あんなもの」だのと散々に扱(こ)き下ろし、これ以後「程度の低い、即ち読者数の非常に多い娯楽雑誌に、ひどく通俗な作ばかりを書くようになった」と卑下を隠さない。
 そもそも乱歩は〈文芸〉といふものを、また創作家としての己の位置を、如何様(いかやう)に考へてゐたのか。日本の近代作家では泉鏡花・谷崎潤一郎・佐藤春夫・芥川龍之介・宇野浩二などを認めてゐたとはしばしば述べてゐる事だが、
「純文学は尊敬していたが、自らその作家になる気持はなかった。(中略)純文学方面 にも認められるほどの探偵小説を書きたいとは思ったが、純文学そのものを、殊に普通の意味のリアリズムの文学を志す気はなかった。そういう自信がなかったばかりでなく実は純文学よりも探偵小説の方が面白かったのである。」
と記し、また別のところでは「命がけで純文学をやっている作家」ではなく「探偵小説を書き出したのは、そういう命がけのものではなかった。一つの遊戯としてはじめたものである」と言ひ切つてゐる。こゝにいふ〈純文学〉には聊か乱歩流の偏見のごときも感じられるのだが、つまりはポー・ホフマン・鏡花・潤一郎・春夫に蹤(つ)く儕(ともがら)が探偵小説を選んでしまつた不幸のやうなものが看取されるのではないか。
 そのあたりの事情を日影丈吉は、「幻影城はどこにあったか」と題する一文に於て、乱歩に始まる日本の推理小説は「それまで日本になかった、外国の既存のジャンルとも違う新しいものだった」と述べ、これに続けて、

「乱歩さんたちが外国ものを受け容れて、怪奇と推理の組合せの文学をつくったのだが、 それは自由だが特殊な制約もある新しい日本的な文学だった。乱歩さんの嗜好は幻想の文学で、その嗜好は生涯、乱歩さんから離れていない。」

「乱歩さんの周囲には、幻想趣味の人達ばかりが集っていた。たとえば藤村ぎらいの城昌幸さんだの、ロマンチストの作家集団が推理小説に心がけたのである。だから新しく発生した文学は、推理小説というより欧米幻想文学の再生という傾向が強かった。」

と記し、戦後に至つて乱歩が本格推理物の出現を翹望したのは「すこし筋違いな願望」であつたと断じてゐる。実に見事な解剖(ふわけ)ぶりである。〈奇妙な味〉の小説を殊のほか愛好した乱歩は紛れもなく〈怪異幻想の徒〉であり、幻戯(めくらまし)として怪奇や幻想を操つても終章は全て理詰めに終るべく定められてゐる〈ミステリー〉に躓いたのが彼の不幸と申すべきか。納得のゆくやうな「本格的長篇探偵小説」が一つも書けなかつたのは、「もともと短篇作家型の性格」であつたからではなく、「もともと怪異幻想志向型の作家」だつたからではあるまいか。度々創作に行き詰まつたのも、その辺に原因がありさうな気がする。「放浪の年――昭和二年度」の項に、
「さて、この年の初め、私は『一寸法師』と『パノラマ島奇談』を書き終ると(殆ど同 時に終ったように記憶する)愈々ペシャンコになってしまった。作品についての羞恥、自己嫌悪、人間憎悪に陥り、つまり、滑稽な言葉でいえば、穴があればはいりたい気持になって、妻子を東京に残して当てもなく旅に出た。」
とある。創作に行き詰まると一時的に筆を絶つのが、その後の乱歩の行動パターンとなる訳だが、随筆・評論の類は却つて力作が書かれる傾向が認められる。昭和4年から7年にかけて〈通俗物〉を書きまくつたあと(この間、最初の全集刊行)、再び創作の筆を絶つのだが、その昭和8年から11年にかけては、「J・A・シモンズのひそかなる情熱」「ホイットマンの話」「衆道もくづ塚」「シモンズ、カーペンター、ジード」など同性愛に関する評論・随筆の力作を立て続けに発表してゐる。
 これらの文章からは、乱歩その人の深奥部の声は明瞭に聴き得ないものゝ、乱歩自身は随筆集『幻影の城主』の自序に「私自身としては『彼』と『シモンズのひそかなる情熱』の二篇に心惹かれた。未完成ながらも、これらの文章ははなはだ真面目に何事かを語らうとしてゐるからである」と述べてゐる。この自序の一節、また右の同性愛に触れてゐる一連の文章の存在は、乱歩が自伝的文章に於て〈性〉に関する事どもに立ち至ると口ごもる傾向が顕著であること(三人称の自伝「彼」は中絶)と大いに関はりがあるのではないか。
 自己を語ること、己の足跡をとゞめることに尋常ならざる情熱を傾けながら、或る一点に就いてだけは口を鎖してゐるのが『探偵小説四十年』に代表される乱歩の自伝的著述の特色である。晩年に至つては当時出現したばかりの〈切抜き通信社〉まで利用して〈自己収集〉に力(つと)めてゐる訳だが、この営為の裡(うち)には、あるいは深慮遠謀のごときが潜んでゐたのかも知れない、といふ妄想を私は抱くことがある。昭和戦後の乱歩は嘗ての厭人癖や自己嫌悪癖を克服した観があるが、これは巧妙なる見せかけで、実は相変らず己を〈人外(にんがい)の者〉と自覚し続けてゐたのであり、即ち「俺の生涯を嗅ぎ廻すことは許さんぞ」といふ一念が『探偵小説四十年』を書き継がせたのではあるまいか――と。
 度々全集が刊行され、読者も減る様子が無いのに、精密な評伝の類が一向に書かれないのは、むしろ乱歩の望んだところなのではあるまいか。「自らの死後に手を打つ」と申す所以である。
 「国文学 解釈と鑑賞」1994年12月號《特集・江戸川乱歩の魅力》

【乱歩関連文章一覧】
★「乱歩のひそかなる情熱」1987年『ユリイカ』5月號/1989年2月・ペヨトル工房『世紀末少年誌』
★「青い箱と銀色のお化け――架空迷走報復舌闘 大正文士同窓会」1994年10月『幻想文学』42號〈特集・RAMPOMANIA〉/1997年3月・国書刊行会『須永朝彦小説全集』